F/「運命」について
運命とは、神が決めたものではないといわれることがある。
だがしかし、“運命の選択”というのはどこにだろうとあるのだろう。
例えば、ある日の帰り道気まぐれに他の道を使ったり
例えば、ふとした時に空を見上げて星を見た時だったり
例えば、飛行機に乗ろうとしたときに誰かを助けようとして乗り遅れたり
たったそれだけの行動で、自分の命を救ったり発想のヒントがふと出てきたりするのだ。
このように、一人の、世界の、そして宇宙の“運命の選択”というものはどこにだって落ちているのだ。
そして、おそらくは、その運命に立ち向かうのはいつだって“人間の意思”だ。
大いなる権力に立ち向かうのも
大いなる存在に屈せずに戦うのも
理不尽な別れから立ち直るのも
そして、自分の背負ってしまった運命に立ち向かうのも
いつだって、それに立ち向かってきたのは運命の流れではなく“人の意志”だ。
それも運命だという人間もいるだろう。
しかしあくまで、それを選んだというのは神の手から離れた“人の意志”なのだ。
全ては人間が、生物が選んだ選択なのだ。
例えば、キリスト教では神は試練を与え人間の行く末を見守っている。
それはつまり、神は運命を操ってはいないのだ。
あくまでも、この時試されるのはその試練に向かってどう進んでいくかである。
どこにだって落ちている、運命の選択を自分で選んだ結果なのだ。
そして、その選択は時には人を助け、人を滅ぼす。
人の身勝手により人が死に、
人の偽善で人は命を救われる。
そのせいで、自分の周りに何が起きようとも
街が、国が、世界が、宇宙が、そして自らが滅ぼうとも
それは、その人間が、世界が選んだ運命の選択に過ぎないのだろう。
運命の選択はきっとそういう物なのだ。
人間はそれに気付いていないだけなのだ。
運命というものは、本当は存在しないという事に。