01-01 出戻り
”大穴牟遲神には沢山の兄弟神(八十神)がおり、八十神は大穴牟遲神を嫌っていた。
八十神は稲羽に住む大変美しいと評判の八上比賣に求婚しようと思い旅をした。
大穴牟遲神は嫌われていたので荷物持ちとして扱われた。気多の前という場所に到着した時、毛を剥がされた裸の菟が横たわっていた。
菟に出会った八十神は「海の塩を身体に塗り、高い山の頂上で風と陽の光に晒されながら横になっていなさい」と言い、菟はその通り実行した。
海の塩が乾き、身体中の皮膚が裂けると菟はあまりの痛さに泣き叫んだ。最後に現れた大穴牟遲神は菟に何故泣いているのかを問うた。
「淤岐嶋からこの地に渡ろうと思いましたが、その手段がありませんでした。そこで和邇に『私達一族とあなたの一族のどちらが多いか数比べをしましょう。できるだけ同族を集めてここから気多の前まで並んでください。私が背を飛びながら数えましょう』と騙して渡ろうとしました。渡り終える時に私は『あなた達を騙したのさ』と言いました。怒った最後尾にいた和邇は私を捕まえて毛を剥ぎました。その後に出会った八十神の言うとおりにしたところ、このように傷だらけの有様になってしまったのです」と菟は答えた。
大穴牟遲神は「今すぐ川の水で体を洗い、蒲の穂の花粉を身体にまぶせば、傷は癒えるだろう」と菟に教えた。
回復した菟は「八十神は八上比賣と結婚することはできずない」と大穴牟遲神に言った。
八上比賣は八十神の求婚をはねのけ、「荷物を背負うあなたが私と結婚してください」と大穴牟遲神に言った。
こうして稲羽の素菟は菟神となった”
静かに広がる大海原というあまりにのんびりとした風景が目の前に広がっている。一羽の大きな白鳥が磯の辺りから海を挟んで遠く見える島々の方へと飛び立っていった。照りつける太陽に誘われて空を見上げると、澄んだ青色の生地と白い模様という外れがないコーディネイトを誇らしげに見せつけていた。
「やっぱり夢じゃないんだよな」
「夢じゃないんじゃないかな」
「あの部屋も夢じゃないんだよな」
「夢じゃないでしょ」
「すごいな」
「すごいね」
不思議なインドア感満載の本だらけの部屋から長閑なアウトドア感満載な場所という落差に気が抜けてしまっている。それは姫乃も同じだったようで返答にも覇気がなく、二人ともにぼんやりとしたやり取りを繰り返した。活力の戻らない心とは裏腹に、この開放感溢れる光景に触発されたのか、身体だけは異様に軽い。
意図せず十分に潮風を堪能した後、周りを見渡してみた。目の前の大海原は穏やかに変わらず凪いでいた。後ろには砂浜の境を表すような下生えの草が生える場所があり、少し離れた場所には鬱蒼とした森が続いている。
そう、続いている。遠くに見える山々に至るまで、後ろにはどこまでも森があった。
「ここ、本当に日本なのかな」
「少なくとも現代ではないな。人はおろか道路すらないし、車の音も聞こえない」
「そうだよね。ねぇ、これからどうする。どうなるの」
「一旦、どこか日陰で休もう。どこかに移動するにも、あてがなくちゃできないしな」
「じゃぁ、森の方に行く? ちょっと不気味だけど」
森の前に来て知ったが、日本の自然の大半が人工物だったんだなと思う。目の前の森にはまっすぐに伸びる木など皆無に近く、地面は土すら見えないほどシダのような植物が覆い茂っていた。森の境ですら日陰には事欠かないほど樹々が迫っており、十数メートル奥は既に暗く翳っている。
「休んだあとの話だけど、移動するなら砂浜だな。いくらなんでもこの森を移動するなんて無理だ」
「同感。あっ、あそこの倒木なんて休むのにちょうどいいんじゃない。そんなに森にも入ってないし」
幸い倒木は倒れてからそんなに日が立っていないのか腐っておらず、座るにも荷物を置くにも十分な硬さがあった。慎重に腰を下ろすと、じんわり湿った感触が服越しに伝わってきた。体重をかけても大丈夫だと思い、手にもつブリーフケースを自分の横においた。
「開架閲覧室では疑問に思わなかったけど、ここで何すんだろう。幹弥はなにか心当たりある?」
「いや、ない。でも説明しなかったってことは、分かりやすいイベントかオブジェクト的なものがあるんじゃないか? 説明し忘れって可能性がなければだけど」
「そっか。何にしても少し休めばいい考えが浮かぶかもしれないしね」
「おっ、いいね。そのポジティブさ。そうだな。これからのこともそうだけど、食事とか寝床の直近の問題もあるし、10分ぐらい休んだらどうするか決めよう。そういえば、姫乃は今何時か分かるか。俺の時計は止まってるし、ケータイもなくて」
「うん、あるよ。……あれ?」
姫乃は自分の腕を見た後、制服のポケットや地面においている用具入れを探り始めたが、しばらくすると諦めたように首を傾げた。
「ダメ、どこにもない。時計もスマホも失くなってるみたい。ここや開架室じゃスマホをいじったりしてないから、最初からないのかもしれない。幹弥のって手巻きのアレだよね。止まっているらしいけど、巻けば動くの?」
「ちょっと待って。あぁ、無事動いてる。今の時刻はわからないけど、何もないよりかはマシか」
二人ともに無言で過ごす。無言の空間に気まずさを感じるような間柄でもないので、別に息苦しくはない。頭の中では色々と今後のことを考えていたが、特に現状を一気に改善する良案は思い浮かばなかった。
道具がなければ火や釣りなどは無理だと思うので、果物の類で誤魔化すしかないかもしれない。サバイバル知識はないので食べられる野草の種類などわからないし、虫なども食べられると聞いたことはあるが、それは最後の手段だろう。食虫を提案して、もし同意されたら後に引けなくなので、絶対避けたい。姫乃には理解し難い向こう見ずなところがあるので、提案は慎重に行うべきだ。
「きゃっ」
穏やかな時間の中、虫にでも驚いたのか姫乃が急に身体を動かすと、倒木が少し動き、隣りに置いたブリーフケースが森の方へと落ちていった。謝る姫乃に気にしないよう伝えながら、ブリーフケースを拾うために立ち上がる。
森に数歩踏み込むと、ブリーフケースはすぐに拾えたが、どこかに引っかかった際に口が開いたのだろう、中の道具が幾つか飛び散ってしまったようだった。幸い、その全てが目につく位置にあり、ノエルに失くさないように言われたことを思い出しながら回収していった。このどれかに自分は未練があり、そこから力が得られるらしい。正直、そこまで仕事に熱心というわけではないと思っていたが、仕事道具に未練があるのだから、自分が思う以上に思い入れがあったのかもしれない。
「なぁ、姫乃。未練にある力ってやつは何だと思う」
もしかしたら現状を突破できるかもしれないと思い、姫乃の方を振り向きながら問いかける。姫乃は目を大きく見開いて、こちらを見ていて、必死にジェスチャーでなにかを伝えようとしている。まるで小さな物音一つで運命が決定するような必死さだ。こちらを見ているが自分を見ているわけではないことに気づいた。自分の後ろにいる何かを刺激しないようにゆっくりと後ろを振り向く。
鬱蒼とした森の奥に一匹の猪がこちらを敵意のある目で見ていた。何かのページに猪に立ち向かうのは大変危険と書いてあったのを思い出した。体の大きさが人間より小さい場合でも、猪による牙や突進で成人を吹き飛ばし重症を負うらしい。1メートル程度の猪でもそうなのだから、自分より遥かにでかい全長数メートルの目の前にいる猪はどうなんだろう。きっと木の影に隠れてもその木ごとなぎ倒すのだろう。そして、目の前の鼻息荒くしている猪は、なぜ前足をこれから走りますというように動かしているのか。
「姫乃、逃げろ!」
大声でそう叫ぶと、姫乃のいる倒木の位置を避け、斜め後ろを振り返り走りだす。すぐ後ろには凄まじい音と圧力を感じる。森の外に出るまでの距離はたった数歩分しかないが、その間は生い茂る樹々が邪魔でジグザグには走れず、まっすぐ進むしかない。一歩進むのにも粘着く気配に足を取られそうになり、邪魔な枝を手で払いのける動きも緩慢に思えてくる。森の切れ目までは後2、3歩といったところだが、一歩進むごとに何かをなぎ倒す圧迫感が迫る。
前が開け急に差し込む光に目が眩むと、強い衝撃とともに身体が軽くなり、四肢が固まった。全身の至る所から鈍い音が響き渡り、脳に雷光が走るように光が瞬いた。痛みはない。地面を跳ねる衝撃を数回味わうと,首の支えがなくなり視界に映る光景が早回しで流れ始める。ようやく砂が身体を受け止めると、狂うほどの痛みが全身を襲ってきた。何かを考えようとしても痛みが思考の全てを奪っていく。
独りでに視界が暗くなり、到来した孤独感と責め立てる痛みからから逃げるべく意識が途切れた。途端に痛みも音も感じられなくなった。瞑っていた目を開けると、乱雑に積まれた本の山の前で寝そべりながら本を読む女性がいた。