00-02 開架閲覧室
「図書館ですか?」
「少し混乱していただけです。気にしないでください」
人外レベルで整った顔立ちに困惑の感情を貼り付けた彼女も大変美しい。本心で言えばもっと堪能したかったが、こちらのくだらないぼやきに付き合わせるのは流石に避けたい。
「確かに図書館の一部ではありますが、そちらには行けませんので、開架閲覧室とだけご認識ください。これは失礼、自己紹介がまだでしたね。私はノアレ。ここの管理職員をしています」
「職員ですか? いや、それよりもここはどこなんですか。なんで俺はこんなところに」
奇妙な場所で聞くあまりに普通な役職に一瞬気が抜けたのが良かったのか、自分が置かれている状況をようやく思い出せた。焦って矢継ぎ早になった質問に対し、ノアレと名乗った女性はとても落ち着いた様子で軽く微笑みながら余裕の対応を見せる。
「困惑するお気持はわかりますが、ご質問にお答えする前にあなたのお名前を伺ってもよろしいですか、珍しいお客人」
とても滑らかな口調に導かれるように問われるがまま自分のことを話し始めていた。美人に見つめられながら話をするなんて初めての経験なのだから、頭が煮えていく感覚がわかる。喋っている間は自分が正気を保てていると思い込むように、名前だけでなく年齢や職業、その他自分が今分かっていることを止まることなく話していた。取り留めもなく話す自分の言葉の殆どを彼女は微笑みの表情を変えずに聞いていたが、名前と年齢を聞いた時にだけ小さく驚くような仕草をしていた。
「はりた……治田様。なるほど。それでは、彼女のご兄妹といったところでしょうか」
「兄妹? 俺には兄妹なんていないけど、彼女って一体誰のことをいっているんだ?」
"彼女"や"兄妹"というノアレの言葉に訝しむ表情を浮かべ、ノアレに問い返す。自分に妹なんていないが同じ名字で妹のような存在には心当たりがあった。
しかし、できればノアレの勘違いであってほしい。気心の知れた存在がいれば心強いとは思うが、こんな奇妙な体験とはできれば無縁でいてほしい。
「えぇ、あちらの彼女、治田姫乃様です。治田幹弥様からのご質問への回答はしばらくお待ちください。彼女が目を覚ましてからご説明いたします」
ノアレが開架閲覧室の一角を指し示すと、その一角に明かりが灯り、横たわる女性の姿がみえた。このような不可思議な事態には巻き込みたくない名前を聞かされると、急いで横たわる姫乃に駆け寄った。
「姫乃。おい、目を覚ませ、姫乃。もう食べられないとか、そんなテンプレはいらないから」
彼女の通う高校の制服のまま横たわっている姫乃を抱きかかえ、彼女に何度も呼びかける。治田姫乃とは従兄妹の関係であり、ノアレが尋ねたような実でも義でもなく従う関係である。こうして改めて考えると、従う関係が一番アブノーマルな気がする。彼女が幼いころ、そして自分が幼さを卒業した頃からの付き合いだ。途中間が空くとはいえ、その関係は単なる従兄弟以上に奇妙な縁で今も続いていると思う。
姫乃の口より漏れる気持ち良さそうな寝息と寝言に安堵しつつ、一向に目を覚まさない彼女への行為は心配するような呼びかけから体を揺するというものへと移行していった。こちらを意にも介さない眠り姫に途中から熱が入り、優しく起こす方法を一足飛びに越え、彼女の頬を張るために手を振り上げる。
「イヤイヤイヤ。お待ちください、治田様。姫乃様は大丈夫ですから。ただ寝ているだけですから、まもなくお目覚めいたしますから」
姫乃の寝息に平常心を取り戻し、少し慌てた様子で止めに入るノアレに癒やされた。見事なツープラトンである。ひっきりなしに襲う不思議体験で疲れた心を完全に回復させるためにもこの癒やしをより長く味わいたい。
実際に頬を張るつもりはなかったが振り上げた手を下ろすのを躊躇っていると、こちらの意を酌まない眠り姫がのんきな声とともに目を覚ました。寝ぼけ眼に段々と光が宿り始め、すぐ近くで心配そうに覗きこむ自分と目が合うと姫乃はガバッと顔を近づけ、こちらの肩を力強く掴む。
「ちょっと幹弥、大丈夫!? どこも怪我してない? って、誰この超絶美人、幹弥の知り合い? 違う違う、幹弥、幹弥よ、頭は大丈夫なの? えっ、なにこの本だらけの場所!?」
たくさんの疑問符とお約束とも言える微妙な誤解を招きそうなこちらを心配する言葉を慌てた様子で問いかけてくる。途中さすがに無視できない人物や場所への問いかけも挟んでいたようだが、自分も焦ってノアレに自己紹介した時はこのような感じだったのかなと反省しつつ、姫乃をなだめる。
「とりあえず俺はどこも怪我してないから、まずは落ち着け。姫乃はここに来る前の状況を覚えているのか? 一体何があったんだ? ちなみにこの超絶美人は管理職員のノアレさんで、ここは開架閲覧室だそうだ」
「覚えているのかって、幹也は覚えてないの? 突然幹弥が抱きついてきて、衝撃が走って、気を失ってる間に、血が出てて。開架閲覧室? 管理職員? 全然わからないけど、ノアレさんはとてもグッドね」
「あのぅ、他に人がいないとはいえ、開架閲覧室ではもう少しお静かにお願いします。それとノアレとお呼びください。ただ、幹弥様は一体どんな犯罪行為を行ったんですか。場合によっては幹弥様には職員さんとお呼びしていただきたいと考えております」
唐突なクドイ程の美人押しに若干照れつつも、ノアレは自分と姫乃の質問の投げかけ合いを止めにはいった。治田が二人いるので仕方なくといったところではあるが、親愛が感じられる名前呼びと若干のジト目のセットに心がざわつく。姫乃の説明では自分はとんでもない最低行為を行ったようにも受け取れるが、当時のことを未だ思い出せなくても、姫乃にそのようなことをするはずがないと自信をもって言える。今後もノアレと呼んでも大丈夫だし、ビジネスライク一辺倒な関係は避けられるはずだ。
「大丈夫のようだけど、本当に覚えてないの? 一緒に帰っていた途中で、周りが突然騒がしくなってきたのよ。なんか、上の方がどうとか言ってた。そしたら、急に幹弥が振り向いて、私に覆いかぶさったの。その後にドスンッて音が……、うぅん、音じゃない。なにか大きなものがぶつかったんだと思う。もうその時には意識がほとんど無くて。でも、最後に幹弥を見た時、視界はぼやけてたけど確かに頭から血が出てて」
姫乃は思い出す時間が長くなるのを嫌うように、一挙に説明していた。自分が見た断片的な夢と重なり合う部分も多い。あの夢が事実だとしたら、きっと頭だけではなく他の部位からも出血したのだと思う。だとしたら、どうして今は怪我もなくここにいるのだろう。今こうしているのも夢の続きなのだろうか。
何処までも続く本に埋もれた場所や超常的な容姿を持つ人物なんて、全く現実的ではない。けれども、五感で受け取る全てが現実であることを肯定している。こうして本物そっくりの姫乃が登場し、いかにも本物っぽい会話までしている。何を突き詰めたところで夢である可能性はなくならないが、それでも現実だと確信している。
それでは、ここは何なのだろうか。嫌な予感もよぎるし、突飛な発想であるのかもしれないが、マンガやラノベでいうところの"アレ"なのだろうか。とうとう自分もそっち側の人間になったのだろうか。もし、読む人生から読まれる人生へのパラダイムシフトが為されているならば、きっと読者はだいぶ前、あるいは最初からの展開を予想しているのかもしれない。自分もよく読む人である。当然、そのために必要な通過儀礼を知っている。この一言に行き着く覚悟がないために、だいぶ遠回りしていた。
「もしかして、もう死んでいるのか」
「いえ、あなた方は死んでいません。生きているとは断言できませんが、死んでいないとは断言できます。安心はできないかもしれませんが」
覚悟の一言はノアレにより即座に否定されたが、決して軽くはなかった。ノアレは表情を戻すのに努めながら、話を仕切り直すかのように説明を続けた。
「幹弥様、魂というものが仮にあると考えてください。魂は生きている限り肉体に縛られます。では、肉体が死んでしまったらどうでしょうか?」
「それは閻魔様の裁きを待つとか、天国なり、地獄なりに行くんじゃないか。とにかくそういった死後の世界があるのならばだけど」
「あなた方が死んでいないと断言できる理由は、まさにそこなのです。殆どの人が体験したことを覚えていないはずなのに、既に一連のシステムとして死後が知れ渡っている。魂とは人の記憶であり、ここにある本とはその人の記憶そのものです。死せるものには既に一連の決まった対応がありますから、速やかに閉架書庫に写されます。人が生きている間はその人に対応した本を貸し出していますので、図書館内にはその本はありません。生と死がわからない状態。いわゆる生死の境をさまようものが対応が定まらない本として開架書庫に写されるのです」
「ちょっと待ってよ。本が記憶で地上に貸し出しって、私達も大元は一冊の本だってこと!? 開架って、それじゃこの開架閲覧室にある本すべてが世界中の生死の境をさまよう人だとでもいうの」
「理解が早くて助かります。あなたがここの本の一冊であるという認識で概ね間違っておりません。俗にいう臨死体験であったり、仮死状態であったり、死に程近い意識不明が続く状態だったりは、非常に稀ではありますが人生で一回というわけではありませんから。その都度、開架書庫にしまわれます。そのため、治田姫乃様の本は一冊とは限りません。閉架書庫や開架書庫の本は写本ですから。もしかしたら姫乃様の大元となる本は貸し出されているか、図書館内にあるかもしれません。それに世界中でもありません。ここは日本という風土が織りなす大地独自の場所です。各地域ごとに図書館はありますが、あなた方がここ以外の図書館に行くことはないと思います」
「頭が追いつかなくなってきたな。俺達は治田幹弥や姫乃本人ではないということか?それに開架書庫って開架閲覧室とは違うのか?」
「その時点の本人です。大元のみが本人というならば厳密には本人とはいえないかもしれませんが、本人の過去が本人ではないなんてことはないでしょう。そして、幹弥様。あなたの言うとおり、書庫と閲覧室は違います。」
ノアレは一拍おいて、自分の仕事の集大成を誇るかのように言い放った。
「ここは開架閲覧室。異世界へと渡るに耐えられるほどに成長し、異世界へと渡るのに適応できるほどに未成熟な本が開架書庫の中から集まる場所。開架閲覧室には異世界へと渡る権利を有する年若い本が読まれるためにある場所です」