01-08 濁流
森の樹々が揺れていた。風によるものとは明らかに違うそれは、乱雑に局所的に起きていた。そしてその揺れは徐々に近づいている。
樹々の揺れに合わせて、森に住む鳥達が飛び立ってゆく。しかし、その羽音も低く鳴り響く地鳴りに打ち消され、自分達の耳には届かない。
揺れが森と砂浜との境に届き、その原因が姿を現した。
「何だあれ。靄みたいだけど」
「ありゃ、土蜘蛛の群れだ。だども、どうして」
そこに見えたのは黒い靄だった。ただ普通の靄と最も違うのは、その中に無数に光る眼があったことだろう。靄は絶えず形を変えていた。靄の中で小さい土蜘蛛たちがひしめき、押しのけ合っていた。
土蜘蛛の群れは森から出ると放射状に広がっていく。どうやら特定の目的地へ向けて進んでいるわけではなさそうだが、放射状に広がった進路の先には和邇の村も含まれている。土蜘蛛が一塊で来るよりかはマシとはいえ、村を守るには範囲が広すぎる。男衆が出払っている時では明らかに手が足りない。
ほんの少しばかりの朗報は進行速度が速くないことだろうか。この間戦った時のような移動速度はとても見られない。土蜘蛛たちは互いを踏み潰すのも構わないとばかりに我先にと進んでおり、結果としておのれらの先頭にいる土蜘蛛を後続が飲み込んでいる
「和邇は女衆全員に村長の家に集まるように伝えてくだせい」
ワニは入り口にて声を上げていた和邇にそう呼びかける。この村に現在いるただ一人の戦士の言葉を聞き、頷く間も返事をする間も惜しいように即座に踵を返し、近くの家へと声をかけていく。
「土蜘蛛たちは薄く広がっていやすから、この村を外れる奴らが大多数です。それでも、千客万来になりそうです」
「皮肉ってる場合か。どうする」
「柵がもつことを祈るしかぁないです。奴らも混乱しるから流れをそむけてやりゃいけそうですが」
ワニも余裕があるから皮肉を言ったわけではないだろう。冗談のような光景に皮肉でも言わなきゃやってられなかったのかもしれない。
和邇族の村は川と海との合流点を角にして存在している。背後から土蜘蛛が来ることはないとはいえ、森側を囲む柵が頑丈ということはない。あの数の土蜘蛛に体当りされたら流石に柵も崩れるだろう。
「あっしは柵のない村の入口の先を守りやす。ミキヤは妹を呼んでくだせい」
「わかった」
「本当は客人にも隠れてもらいてぇんですが、すいやせん」
ワニの言葉に返事を返す前にワニの家へとかけ出す。ワニの家は村の入口から奥まった森側にあり、土蜘蛛の被害が村の中でも早く届く場所だ。急がなければならない。ワニも既に村の入口から出て行っている。
ワニの家へと駆けこむと、この地響きに既に異常を察していたのか、オキナと姫乃が事態を把握するために外に出ようとしていた。飛び込んできたこちらを見て、緊急事態であることを悟り、顔を引き締める。
「土蜘蛛の大群がこちらに向かっている」
「数は?」
「数えきれない。ワニが村の入口からでてったけど、オキナにも来て欲しいそうだ」
「チッ。わかった」
数の把握ができないこととワニがオキナを呼ばなければ対処できない状況というのに嫌な予感がしているようだ。オキナは舌打ちを打つと、手にものも持たずに外へと出て行った。
「武器も持たずに無理だ」
無手で出て行くオキナを止めるため、自分も後を追い外に出ると、オキナは家の外で固まっていた。
「なんだこれは」
「だから大群だって言ったろ。武器も持たないなんて無茶だよ」
大群を見やると、村の入口から離れた場所でワニが土蜘蛛と既に戦闘を開始していた。戦闘というよりは水の流れを変えるために耐えているといったほうが良いかもしれない。打ち合い始めたばかりとはいえ、ワニは正面に迫る土蜘蛛を相手に退いていない。ワニを通り抜ける土蜘蛛もいるが、放射状に広がる黒い靄には確かに楔が打たれていた。その楔により村を避けるような割れ目が差し込まれている。
土蜘蛛たちはその割れ目を埋めること無く、流れのまま進んでいた。しかし、楔であるワニが倒れれば即座に埋めつくされるだろう。オキナはその様子を見て、ワニが望むことを察したようだ。
「武器なんて不要だよ、ミキヤ。まぁみてな」
オキナはそう言うと姿を変えていく。人のような姿の肉が盛り上がっていき、上を向いた顔は肥大化とともに縦に裂けていく。人の体が蠢く様が収まった時には、そこに他の和邇族より二回りは大きい和邇がいた。
「大きな力ってのは伊達じゃないのさ」
オキナの変わりように事態を忘れて立っていると、オキナだったものが話しかけてきた。オキナの声を出す和邇はそのまま大口を開け、ワニの家の壁に噛みつく。そのまま顔を振ると噛まれた壁が家から剥がれ、投擲と言うには滅茶苦茶な動作により飛ばされていく。そのまま先程まで壁だったものは耐えてるワニの前まで飛んでいき、地面へと突き刺さる。木材を組合わせて作らているそれは、形を崩しながらも今は堰の役割をこなしている。
その様子を眺め、オキナはこちらを見て和邇の口を曲げる。その凶悪な面構えは恐らくだがドヤ顔でもしているのだろう。自分の茫然自失な態度に満足したのか、オキナはそのままワニの元へと移動していく。
「どうなってんのこれ」
急に見晴らしの良くなったワニの家の中で姫乃が呟く。それが土蜘蛛の大群と壁の行方とのどちらを指しているのかは分からなかった。
「姫乃、俺達も手伝おう」
姫乃の呟きで自分を取り戻し、姫乃へと告げる。姫乃もその気持は同じようですぐに頷いてきた。
状況を見ると、堰き止められている楔の箇所へは混ざれそうにない。そちらはオキナとワニで十分耐えているし、混ざっても邪魔にしかならないだろう。堰から漏れ出ている土蜘蛛もいるが、その土蜘蛛たちも混乱しているようで、その数とともに脅威にはならなそうだ。
むしろ楔により作られた流れが柵にぶつかる箇所で嫌な音が聞こえてくる。土蜘蛛たちは前を見て走っているわけではないようだ。一度柵で横に変えられると、そのままの向きで移動し続けている。その分、土蜘蛛たちと柵との衝突点には過大な負荷がかかっている。ぶつかり始めて幾ばくの時間も経たずに既に限界を迎えそうではあるが、自分達はあの柵を持ちこたえさせれば流れを維持できるだろう。
「姫乃、あの柵の場所に向かおう。あそこが崩れれば村になだれ込まれる」
「分かった。私には隠れてろとかいいそうなのに意外だね」
「姫乃の力頼りのところもあるからな。それに村になだれ込まれたらどこにいても同じさ。まだそばにいる方がいい」
姫乃は戸板のような分厚い一枚板とスティックをその手に取ると、限界を迎える柵の後ろに立ち、土蜘蛛たちを押し返し始めた。姫乃に遅れて到着すると、自分もその行動に加わる。肩から腕全体を板につけて体重をかけて押し返すが、戸板は逆に自分達を押し倒そうとしてくる。戸板からは土蜘蛛たちがぶつかり潰れる音が響いてくる。昔、大量の雹が降り注いだ天気を思い出した。雨戸を打つ大量の氷の粒が絶え間なく音を打ち鳴らした。当時はあまりの音に家の中で不安にまみれていたが、それは今目の前から消える音に比べるとだいぶ可愛らしい音だったと思う。
板の向こうから木の砕ける音が響いてくる。ハッと眼を張り板を見渡すと、板には幾つか爪で開けられた穴があるものの、いまだ耐えられそうである。板にかかる圧力が一層強くなる。その圧力にあの音は柵が壊れたことを示すものだと気付いた。
オキナたちの方をみると、既に黒い濁流は終わりを迎えそうだった。自分達もあと少し持ちこたえれば、この耐える時間も終わる。後ろを見るとバラけて村に侵入してきた土蜘蛛たちは、村長の家からでてきた他の和邇により駆逐されている。他の柵の場所にも壊れそうな箇所は見受けられたが、流石に手が回らない。
バキッという音が耳を打つ。目の前には戸板を突き破った爪が突き出ている。それが合図だったように、多数の亀裂が戸板に入り始める。慌てて顔を離すと、戸板の押し倒そうとする力が増した。
「姫乃、もう無理だ。少し下がって、迎え撃つしかない」
「でも、それじゃ村が」
「戸板が限界だ」
自分の言葉とどちらが早かったか、戸板が限界を告げる悲鳴を叫ぶ。急いで戸板から飛び離れると、武器を構える。姫乃も同様に距離をとっていた。壊れた戸板を、それに食いついていた土蜘蛛ごと黒い靄が踏み潰してくる。虫が潰れる音と板が割れる音が重なる。
急遽流れを作っていた壁に穴が空いたことにより、その穴から靄が漏れ広がっていく。どうやらいくつか他の場所でも穴が空いたようで、土蜘蛛達の声が響く。
これ以上漏れが村に広がらないように、正面から迫る靄に切り込んだ。横払い気味に切り込んだ一刀目は幾つもの柔らかい感触とともに驚くほど綺麗に流れを止めた。ただそれも刹那のことで土蜘蛛たちがその間を埋め、こちらを飲み込んでくる。なんとか矛を土蜘蛛達と自分の間に差し込んだが、それだけだった。もはや、矛を動かすことなんてできず、押しつぶされないように耐えるしかできない。目の前には取り払うべき障害物をみる土蜘蛛達の目が光っている。
轟音とともに押しかかる土蜘蛛たちが少し軽くなる。正面に土蜘蛛を貫き地面に突き刺さった銛が見えた。ワニが自分の正面へと銛を投擲したのだろう。楔に流れていた靄はいなくなったことを知る。銛はもう既に土蜘蛛に飲み込まれている。
土蜘蛛達による靄の表面を下がりながら撫で切る。自分が飲まれないようにするための苦肉の策だった。死に絶える土蜘蛛の数は多いが、目の前の靄を占める数からすれば微々たるものだ。姫乃はまだ持ちこたえているが、自分がこれ以上下がれば横から押し潰されてしまう。足を止め、矛で再度斬りかかる。
その時、自分の上を小さな影がよぎった。
「幹弥、下がって」
その声にその場から後ろに飛び退く。前を見ると先ほど自分がいた辺りに矢が刺さっていた。地面にはまだ影ができている。上を見るのが怖くなって、そのまま再度後ろに飛び退いた。
土蜘蛛たちは矢に射られていく。その矢は土蜘蛛だけでなく村にも何射か打ち込まれていたが、村に土蜘蛛たちが広がるのを止めるには十分だった。その後も矢は打ち込まれ続け、自分達も土蜘蛛を斬りつけていった。土蜘蛛たちは混乱したまま、攻撃を避けようともせず斬られていった。
いつの間にか黒の濁流が枯渇していた。大多数は流れのまま川や海に流れ込みむか、直前で方向を変え森へと戻っていったが、少なくない数がワニたちや自分達、もしくは同族の土蜘蛛の手にかかり死んでいた。最後の方にはワニたちも村の中に立ち戻り、侵入した土蜘蛛と対峙していた。村にも柵以外の被害がでたが、取り返しの付かないほどではない。
ようやく土蜘蛛の流れから耐える時間が終わったことを知り、一息つく。危うく自分も射られそうだった矢の出処が気になった。
「和邇族が戻ってきたのかな」
「あっしらは弓矢は苦手ですから違いやす。下手したら土蜘蛛たちより厄介です」
ワニが森を指差しながら応える。指差す方向に目を向けると、弓を手にする十数人の人間の形をした一団がこちらを見ていた。