00-01 目覚め
自動車の走行音、行き交う人々の足音、子どもたちや学生たちの楽しそうな会話、一人電話に向かって慌ただしく話す声。たくさんの日常を彩る多くの音の中、自分の周りには非日常を匂わせる驚きに満ちたざわめきが起きていた。
「おい、あれって」
誰かがあげた声。誰があげたかは分からない。周りを見渡してもまるで影が差したように誰の表情も窺い知れない。ただ、その殆どが何かを見上げていた。その視線の先に何があるのか、つられるように自分も上を――
ブツン――
咄嗟に振り返ると、彼女は気づいていないのか、キョロキョロと周囲を見廻していた。よく知っている顔のはずなのに、その顔は影に包まれている。とっさに彼女を突き飛ばそうとしたが、焦りのためか思い描いたようには動けず、彼女に覆いかぶさる形で――
ブツン――
全身を打つ強い衝撃が身体を貫いた。徐々に狭まる視界の中、視界一面に広がる血だまりに携帯電話などの鞄の中身が散らばっている様子がうすぼんやりと見え――
深い水底から急速に引き上げられる感覚を味わいながら、ゆっくりと目を開ける。軽いしびれを感じつつも上体を起こすと、霞んでいた視界がはっきりとしてきた。
「えうぇっ」
自分の喉が自分勝手に珍妙な驚きの声を上げていた。本来なら先程まで見ていた断片的な夢に対して典型的な一言でも呟くべきタイミングだったのかもしれない。しかし、そんなテンプレートを許してくれない程の光景が目の前に広がっていた。
本、本、本――。
奥が見えないほど何処までも続く空間に、巨大な本棚が数えきれないほどの列をなしており、一冊一冊ケースに収められている重厚な本がそこをさらに埋め尽くしていた。昔見た京都の三十三間堂の仏像や伏見稲荷大社の鳥居などのように、沢山のものが整然と並ぶさまに厳かさを感じたことはある。けれど、ここまで突き抜けると厳かさや神聖さを超えた、神秘的な気味悪さに圧倒されるだけだった。
呆けから覚めると、万を軽く超えるであろう本の中で、数カ所だけケースのみが収められている場所に気づいた。その欠けた場所はより一層不気味な影を落としていた。初めて目にする場所で"本がない"ことを奇妙に思うのは、おそらくこの先二度とないだろう。
「なんなんだよ、これは」
何の解決にも問いかけにもならない呟きがこの空間にこだまする。奇妙なのは本だけではない。暖かい色の光がこの不可思議な空間を照らしているが、どこにも照明器具の類が見当たらない。燭台や蛍光灯、窓すらもなく、間接照明とかそんな現実的手法を超えて、ただ幻想的な光だけが存在していた。
この奇妙な空間から少しでも遠ざかろうと這うように後ずさると、背中が何かにぶつかってしまった。またしても、自分の喉がひとりでに文字に表せない声をだしてしまったが、許してやろう。ホラー映画だと後ろに殺人鬼が佇んでいるようなシチュエーションである。無様な声を上げるのもお約束というものだ。恐々と後ろを振り向くと、そこにはニヤリと口角を上げながらバールのようなものを振り上げる犯人――ではもちろんなく、2段組の小さな本棚がもの静かに佇んでいた。
この先二度とないといった前言をこうも瞬時に翻すことになってしまったが、この空間では異様なことに、その小さな本棚には一冊も本が収められていなかった。その一方、空っぽの本棚の周りには、今となっては自分の周りでもあるが、それなりの数の本が乱雑に積み重ねられていた。先程まで見ていた無数に収納されている本とは異なり、乱雑に積まれた本の山はコミックや小説、ゴシップ誌やバイク誌などの多種の雑誌などで形成されていた。面妖な空間にあって、見慣れたものの存在に心が多少なりとも落ち着かされていく。考えるという機能を脳がようやく思い出し始めると、今更な疑問が湧き出てくる。
「ここはいったい」
"何処なんだ"と紡ごうとしたのか、"何なんだ"と紡ごうとしたのかは自分でもわからない。本が大量にあるのだから図書館あたりが妥当だとは思うが、このような場所は見たことも聞いたこともない。少なくとも日本で生まれて24年、このような異様な場所を話にすら聞いたことがない。いくら今は都心から鈍行で2時間程度の地方都市に住み、最新の情報に疎くなったとはいっても、話すら聞かないような特異な施設が単なる図書館であるよりかは、眉唾な政府の秘密施設と言われた方がまだ納得できる。
そこまで考えた時点でフゥと軽く息を吐き、自分で自覚できるほどのパニック状態を落ち着かせようとした。考えている間にも、余計な思考がちょくちょく横槍を入れてくる。政府の秘密施設なんて言葉が思いつく時点でだいぶ重症だ。そもそも、ここがどんな場所であったとしても、なぜ自分がここにいるのだろうかという疑問の答えには辿り着きそうもない。事ここに至って、ようやく自分自身のことを考え始めた。
自分の名前は治田幹弥。地元の大学を卒業後、就職のために今の住処に来て数年経つ。しかし、昔のことは思い出せるが、自分がここに来ることになったであろう日のことは思い出せない。
自分自身を見下ろすと、仕事中だったのだろうか、紳士服専門量販店で購入した細身のスーツに少しくたびれた革靴といった装いをしている。左手首につけている就職祝いに購入した手巻き式時計は両針がともに頂上を差したまま活動を止めている。そして、通勤時に愛用している斜め掛けもできるブリーフケースが積まれた本の山の端にあるゲーム雑誌の上にふんぞり返っていた。
ブリーフケースが目に入った瞬間、先程まで見ていた夢がフラッシュバックのように脳裏をよぎる。あの夢は自分がここにいるのと関係する記憶なのだろうと当たりをつけ、夢の内容を足掛かりに記憶を辿ろうとするも、夢で見た断片以上のことは分からなかった。
「そうだ。ケータイでなら何か分かるかも」
正直、このような状況で携帯電話が圏内であるとは思えない。十中八九、圏外であることは予想できるし、その予想が外れるとも思えない。でも、それでも良かったのだ。どんな小さなことでも自分の予想が当たれば今よりは落ち着けると思うし、時間であれ、日付であれ、何かしらの情報が欲しかった。今は無性に「やはり」という言葉を使い、分かっていますよ的な雰囲気を出したかった。どんな形であれ、何もかもが分からない状況を抜け出したかった。
「嘘だろ。いつも鞄に仕舞っているのに、なんで無いんだよ。入れとけよ、俺のバカが」
ブリーフケースにはシステム手帳など仕事で使っているものが入っていたが、どれだけ探っても肝心の携帯電話を見つけられなかった。仕事用のものも、プライベート用のスマホもである。ブリーフケースの内ポケットの五度目の探索を終え、あまりの事態に過去の己へと愚痴を叫んでいた。アンテナがたっていないどころか、携帯電話本体が入っていなかった。掴むべき最後のか細い藁は蜃気楼のごとく消え去り、ささやかな慰めさえも叶えてくれない現実に溺れることしかできなかった。
「フフッ、フフフ」
どれだけの時間黄昏ていたのだろうか、不意に自分以外の笑い声が響く。ここには自分以外いないと思っていただけに、そして、その自分が一切役に立たないということを自覚させられた直後なだけに、状況を把握するために誰であろうと逃さないという意志を込め、瞬時に声のする方へと振り向いた。
そこには図書館でいうところの貸出カウンターのようなものが置かれていた。目覚めた後に見渡した時には何もなかったと思われる場所に、確かにカウンターが存在していた。
「アハハハハハ」
その様子すら面白かったのだろう。先程より幾分大胆になった笑い声がカウンターの内側から響いてきた。しばらく続いた笑い声が収まると、一人の女性がこちらに見えるように立ち上がった。
その女性は、ただただ、美しかった。流れるような銀髪も、活気あふれる眼差しも、整った顔立ちも、蠱惑的な肢体も、それら全てが持つ美しさは形こそ人とよく似ていながらも、彼女が人でないことを如実に語っているように思えた。彼女の身を包んでいる某かの職員を思わせるシンプルなベストとスカートですら、一流デザイナーによる至高の逸品のように思えてくる。少なくとも彼女を人間と認めてしまったら、嫉妬であれ羨望であれ同じ人として男女の区別なく、自分の顔を鏡で見るたびに平穏ではいられなくなるだろう。
自分ですら現金だと思うが、先程まで第三者の登場を情報確保の手段としか思っていなかったのに、急に彼女の視線が気になってしまう。目覚めてからここまでの自分の行動は、はたしてどのように見られていたのだろうか。情けない驚きの声を複数回上げたり、小さな本棚に驚いたり、鞄の中を漁りながら叫んだりはしたが、そこにはただひたむきに状況を改善しようとする大人の男が――
「ごめんなさい。あまりにも表情がめまぐるしく変わるものだから、つい面白くて見入ってしまってたわ。仕切り直しとして、挨拶から始めさせてください。ようこそ開架閲覧室へ、珍しいお客人」
滑稽だった。やはり滑稽に見えていたようだ。携帯電話を探していた頃の念願がようやく叶ったというのに、全く嬉しくない。こんな状況で思うことではないのだが、それでも初めてあった名前も知れない人に笑われるのは、なかなかにキツイものがある。
密かに負った精神的ダメージに耐えるように息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。何処までも高く伸びる天井を見ながら、口から言葉がこぼれ落ちた。
「図書館ですらなかったか」