第七十話:「放置プレイとケーキ」
あの後、千歳に急かされながらも化粧を落とし、ウィッグも取って制服(勿論男子用だ)に着替えた。
「ふむ。久しぶりに会った感じがするな、その姿だと」
とは、別教室から出てきた僕に対する千歳のコメントである。喜んでいいのか分からないのでとりあえず、ありがとうとだけ言っておいた。
「で、千歳はどこに行きたいの?」
「そうだな……特進の方には近寄るなと遍に言われているから、反対方向の一年生から二年生、三年生と回っていくか」
歩き出した彼女を小走りで追い、隣に並ぶ。
「なんで特進の方はダメなの?」
「昨日撮った写真が張り出されているからだ。女装姿のお前と今の姿ではバレる確率など知れているが、万が一と言う事もあるだろう」
千歳はチラリとこちらを見ながら、悩ましげな溜め息をついた。
「あの写真に写る女がモデルのアキだと知ったら、客が混乱に陥る事は目に見えている。お前はその中に、自ら身を投じたいと思うのか?」
「う……お、思いません」
僕は悪くないはずなのに、どうしてか肩身が狭い。恐らくは、彼女の責めるような目が原因だろう。
「あのー……何か怒ってる?」
「……」
一瞬だけ目をこちらに流し、すぐに戻した彼女はスタスタと先に歩いていく。置いて行かれては堪らないと慌てて追いかけるが、目線さえ向けてもらえず無視された。
「ちょ、千歳?」
「……」
「ひ、日宮さん?」
「……」
「うう……」
放置プレイとは、大変辛いものである。いい子は真似しないように。
○○○
彼女の言った通り、まずは一年生の階から回る事にした僕らは、出し物の一つであるカフェにいた。
「んっ。これは中々……」
目の前でケーキを美味しそうに頬張る彼女。怒っていた理由は結局分からずじまいだが、その怒りがケーキ一つで済めば安いものである。あのまま放置プレイを続けられていたら、僕は泣き出していただろう。
「……何を見ている」
「え。見てちゃいけない?」
「見るな」
「は、はあ……」
見ても減るものじゃないのに、どうしてそこまで怒るんだろうか。女心ってよく分からない。
頭を抱えたくなるような悩みに苛まれながらも、僕はポーカーフェイスを保ってる。……とでも言えたらいいが、実際は営業スマイルのしすぎでもう顔の筋肉が動く事を拒否してるのだろう。
「……美味しい? そのケーキ」
「ああ。学生にしては、な」
「そう……」
お腹空いた……。入店した当初はそうでもなかったのだが、フォークに乗ったショコラケーキの一片が彼女の口に運ばれていくのをこうして見ていると、涎が出てきそうな程の空腹感に襲われている。これが甘党の宿命なのか?
と、その時。僕らの座る席に、女の子が足早にやってきた。外見からして、同年代ぐらいだろうか。少し紅潮させた頬が印象的だった。
「あの、モデルのアキさんですよね?」
「は、はい」
「私ファンなんです。握手してもらってもいいですかっ?」
「ああ、勿論いいですよ」
玲奈さんから、ファンは大事にしろとの教えを頂いている。すっかり板に付いた営業スマイルで返事をすれば、女の子は喜色満面で手を握ってきた。
いやはや、何とも嬉しい事であろうか。こんな僕のファンと言ってくれる人がいるなんて。学校のみんなはどうせ冷やかしだろうから、余計にそう思うのだ。
「ありがとうございました!」
「いえいえ。応援してもらえて嬉しいですよ」
顔の前で片手を振れば、女の子が申し訳なそうな顔をする。
「日宮さんとのお食事中邪魔しちゃってすみません」
ああ……何と礼儀正しい子なんだろうか。この人、絶対いい人だ。
慌ただしく彼女と僕の間を右往左往する目が面白くて、ついクスクスと笑ってしまった。
「あ、あの……?」
「あ、いや、気にしないでください。ね、千歳?」
「ああ」
紅茶が入ったカップを置き、彼女は微かに頷く。その顔は相変わらずの無表情で、でもそれがテレビに映る彼女なんだと知らされた気がした。
日宮千歳と、目の前にいる少女。どちらが本物の千歳なのか考えて、すぐに振り払った。バカらしい。誰であろうが、答えは変わりないのだ。どちらも彼女でしかない。全てを含めて、そこに存在するのは『千歳』。
彼女を変えたいだとか、傲慢な事は思わない。僕が出来るのは、ただ想う事だけなんだろう。それが少し切なくて、静かに笑った。
○○○
「おい」
「は、はい……?」
頭をペコペコと下げながら去っていく女の子に手を振り続けていたら、絶対零度に近い温度を持った声が僕に降りかかってきた。
「デレデレするな、みっともない」
「デレ……っ!?」
どう反応したらいいのか困る。つか、デレデレなんてしてない。するとしたら千歳にしか……ごほん。今の忘れて。
羞恥で頬が熱くなるのを感じて、自分の手を押し当てる。彼女はそんな僕を数秒見つめ、すぐに廊下の方へ視線を移した。
「……どうやら私は、どうあっても衆人の目に晒される運命らしいな」
日宮千歳を一目でも見ようと廊下に集まる人だかりを、彼女はゆっくりと見回し、辟易としたオーラを隠す事なく堂々としていた。注目される事に慣れているのだろう。日宮千歳の大変さを少し理解出来た……ような気がする。
「今年はイベントが無くなって、楽が出来ると思ったのに……」
「そう言えば、今年はミスコンも後夜祭も二年生は不参加なんだよね?」
問いかければ、紅色がこちらを向いた。……唇の端にチョコレートがついてるよ。
「あの、ちと――」
「不参加だな。恐らく、来週に修学旅行があるからだろう」
「……」
言うタイミングを逃してしまった。まあ、いいか……可愛いし。あ、本音が出てしまった……。
「この学校は会社の規模関係なく、令嬢や子息が多い。学校側としても、学園祭の疲れが後に引いて何か事故でも起きたら死活問題だ。特に私はイベント参加を禁じられている」
伯父が手を回しでもしたのだろう、とうんざりした顔で呟く彼女。
修学旅行が控えてるとあって今回は二年生も納得したのだが、一部がそれに異議を唱えているらしい。なんでも『日宮千歳がいないミスコンなんて無意味』とか言って抗議していた事は、もうすっかり噂になっていた。僕はその一部の中に悪友がいない事を願う。
「今年の行き先はフランスらしいね。千歳は自由行動、どうするの?」
「遍と理月と一緒に行動する。あと腐った女も」
「腐った女? 何それ」
「知らない。本人がそう言っていた。そう言うお前はどうするんだ?」
「壱に誘われてるから、案内してもらおうかなって思ってる」
「そうか。途中で会えたらいいな」
「そうだねー」
ああ、穏やかな時間だ……。僕が求めていたのは、これなのかもしれない。なんか今、凄い幸福感を感じてる。
そして、何故かこちらを怪訝な目で見てくる彼女。その視線に狼狽えながらも、弱々しく笑い返せば目を逸らされた。僕の顔はそこまで酷いんですか? 顔が赤いのは怒ってるから?
「ち、千歳……?」
「う、煩いっ。そろそろ行くぞっ」
「あ、ちょ、ちょっと待って」
立ち上がる千歳を慌てて引き止める。この店から出るのなら、ソレはどうにかした方がいいからだ。
テーブルの上にあったお絞りを持って身を乗り出し、きょとんとしている彼女の口を拭う。
「っ!?」
「わっ」
瞬時に目を見開いて驚愕する彼女に、口に当てていたお絞りを強奪されてしまった。そのお絞りは今、彼女の手の中でクシャクシャにされている。
「お、おおお、お前……っ! ななな、何をするっ!?」
「いや、チョコレートが口についてたから」
「だ、だからと言って……」
視線をあちらこちらにさまよわせ、唇や指先が小刻みに震わす姿は、普段の威風堂々とした千歳とはかけ離れていており、僕の笑いを誘う。
それが気に入らなかったのか、彼女はこちらを吊り上げた目で見た。
「お前……覚えてろよ……」
「……」
あまりの迫力に、声も出せなかった。どうやら僕は、彼女の逆鱗に触れてしまったようだ。うねっているように見える黒髪が恐怖を煽る。
睨む千歳。怯む僕。ざわめく人々。学園祭は、やっぱり前途多難だった。