第六十二話:「嘘だ」
目を覚ますと、目に入ったのは見覚えのある白い天井。
続いて、近くの椅子に座る千歳と目が合う。すると彼女は慌てたように立ち上がり、ベッドの傍までやって来た。
「秋。目が覚めたか」
長い髪を耳の後ろへかける彼女の仕草は、嫌に色っぽくてドキドキする。
近距離にまでやって来た彼女に、掻き上げられる僕の前髪。額の熱が千歳の手に吸い取られていくようで、不思議と気分が落ち着いていく。
「具合はどうだ?」
「大分楽になったよ。ユリカちゃんは?」
「私はここだ。バカ野郎」
保健室の主・ユリカちゃんの名前を口にした時、カーテン越しにハスキーボイスが聞こえてきた。
「ったく。テメエは死にてえのか? 自殺志願者か? そんなに死にてえなら、私が直々に殺してやるよ、このドアホ」
病人は労らないのがポリシーなユリカちゃんは、口が悪い。とにかく、口が悪いのだ。
美人なのに勿体ない、と思うのは何も僕だけじゃない。
「そう言えば、試合はどうなったの?」
「壱人が教師に伝えて、試合は中止させた。環は成子に今まであった事を伝えに行き、琉二はお前とあの男が優先的に診察出来るよう、病院の手配をしている」
三人は三人で、色々と忙しくしていたようだ。あとでお礼を言わなければいけないだろう。
「中止か……悪い事しちゃったな」
中止と言う言葉が、重くのしかかる。他の人の今までの努力を、僕は無駄にしたのだ。
申し訳ない気持ちでいっぱいになっていると、手が握られた。
「私も悪かった。頑張っているお前を止めるのは、野暮だと思ったのが間違いだったな」
彼女は長い睫毛を伏せ、更に手を強く握る。少し俯き気味で、彼女の頬にかかる前髪。目を凝らせば、下唇を強く噛み締めているのが見えた。
「すまない。無理にでも、止めに入るべきだった」
「いや、止めてくれなくて正解」
僕の答えに、彼女はきょとんとして首を傾げる。
「どうしても、勝ちたかったんだ。だから千歳が止めに入ったって、僕は続けてたよ」
「……そうか。頑固な奴だな」
「うん」
顔を見合わせ、笑い合う。
すると彼女はふむ、と言って顎に手を当てた。
「成子が、教室で待ってると言っていた。どうする?」
「行くよ。みんなに、謝らなきゃいけないから」
身を起こし、ベッドから降りる。全身が苦痛で悲鳴を上げるが、出来るだけ気にしないようにする。
「なら、私も一緒に謝ろう」
思わず転びそうになった。よろめいた瞬間、彼女の手が僕の腕を掴んで支えてくれたから転ばなかったけど。
「何で一緒に謝るの?」
「一人は寂しいだろ」
「……なんか千歳って、所々ズレてるよね」
「失礼だぞ、お前」
睨みつけてくる彼女を、愛しいとはっきり感じる。
こんなにも好きなのかと自覚すれば、気恥ずかしくなって、上目遣いの彼女から目を逸らした。
○○○
結局、千歳には昇降口で待っているように頼んだ。彼女に迷惑はかけたくなかったし、一緒に帰る口実が出来て丁度いい。
そんな事を考えつつ教室の扉を開けた僕を待っていたのは、満面の笑みの桐谷さんだった。
怖い、と言うのが感想です。
見ればクラスメートも何故か満面の笑みで、更に恐怖を煽る。ここはカルト集団か。
「向坂くん」
「は、はいっ! ごめんなさ――」
「あんたは男の中の男よ!」
「……え?」
桐谷さんが親指を立てた瞬間、割れんばかり拍手が起こる。周りを見渡せば、クラスメート達がこちらを向いて手を叩いていた。
……え? どう言う事?
「よくぞ最後まで戦ってくれた! その根性、褒めてつかわす!」
……え? 桐谷さん何者? お殿様?
「努力賞として、来週の学園祭は向坂くんを中心に考えるわ! ね!?」
ね!? と同意を求める桐谷さんに、頷くクラスメート達。
「よし! 今日は気分がいいから反省会はなし! みんな帰るわよー!」
「あ、待って待って! 状況説明もなしに帰らないでー!」
だが、僕の叫びも虚しく、クラスメート達は教室を出て行ってしまった。むなしい。むなしすぎる。
一応、僕を励まそうとしてくれたようなんだけど、正直よく分からない励まし方だった。
○○○
「向坂くん」
「あ、はいっ」
急いで帰りの用意を鞄に詰め込み、昇降口まで急ぐ僕を引き留めたのは、強敵である四谷先生だった。
相変わらずの爽やかオーラ。この人の雰囲気は、善也兄に少し似ている。でも僕は、この人が苦手だった。特に苦手なのが、何を考えているのか分からない目。
「少し時間、いいかな?」
四谷先生は、爽やかな笑顔を崩さない。
僕は、少しなら、と言って頷き、四谷先生と向き合う。
「君と千歳の事なんだけど」
「は……?」
「二人は付き合ってるのかな?」
笑顔を貼り付けたままの四谷先生は、何を考えているのか分からない。
僕と彼女は付き合っていない。だから否定するように首を横に振った。
「そっか」
「……あの」
四谷先生が出した安堵の表情に、自然と声が低くなる。
何故、四谷先生が安堵したのか。その理由を探せば、答えは一つしかない。それは僕の全身を凍らせ、心を冷やした。
「四谷先生は……」
一息おいて、口に出す。
「千歳の、何ですか?」
長い沈黙。夕暮れの校舎だけが、時間の流れから外れているようだ。
「俺は、千歳の幼馴染みだよ?」
「そうですか」
取り繕うように浮かべられた曖昧な笑みに、溜め息をついた。
もうこの人と話す必要はないだろう。話したくもない。
「千歳を待たせているので、帰ります」
「……っ」
無意識に不機嫌な声が出てしまった。切羽詰まったような表情で、息を飲む四谷先生。
「ま、待って……」
「もう話す事もないようなので。それに、僕にとって千歳は最優先で考えるべき人ですから」
「……君は、千歳が好きなの?」
その問いは、答えるまでもなく。
僕は何も言わずに背を向けた。
「待って! 俺は、俺は――好きなんだ!」
その言葉に、僕は足を止めて振り向いた。
誰が、とは聞かない。答えは知ってる。
いつの間にか隣にいて、傍にいてくれる真紅の彼女。僕が好きな少女。目の前の男もそう――
「君の事が好きなんだ!」
「……」
……え? あれ? 聞き間違いかなぁ。今、とんでもない事を言われたような気がするよ。
突然の出来事にフリーズする僕。紅潮させた頬で立つ四谷先生。
まさか。いや、嘘だ。嘘だと言ってくれ。今の言葉は、冗談だったと。
懇願するように、四谷先生をずっと見続けていた。鞄を持つ手を、固く握りしめるようにして。
――その時。
「――嘘だ」
望んだ言葉は、後方から。聞こえてきたのは、現在進行形で愛しいと感じる彼女の声。
振り向けば、茫然自失としている彼女がそこに立っていて。
――奇妙な三角関係図が、出来上がった瞬間だった。