第六十一話:「決着」
それからは、酷い有り様だった。殴られ、蹴られ、倒されて、心身共にボロボロの状態である。唯一の救いは、顔に――かすり傷はあれど――そう大した傷はない事だろうか。体だけなら、家族への言い訳を考える必要がない。
何度も佑樹や圭司、クラスメート達に棄権を勧められたけど、それだけは嫌だと拒否した。このまま負けるのは、僕のプライドが許さなかったからだ。
当初は離されていた得点も、今では二点差。
ボールは今、僕の手元に。それでも神野先輩の追撃は続き、止まる事を知らない。
「いい加減、諦めろよっ」
「う……っ!」
強烈なタックルをもらい、弾き飛ばされる。倒れ込んだ体育館の床は固く、冷たい。僕の手から零れ落ちたボールが転がる。
衝撃で咳き込んでいると、視界に影が入った。
乱暴に肩を上下させ、目はつり上がっている神野先輩。
様子だけを見れば、僕も神野先輩も疲労している事が分かる。違うのは、加害者か被害者かと言う立場だけ。
「まだ、やんのか」
その問いに、僕は笑った。答えは決まっている。
「もちろん、です。ボールは僕からで、いいですよね?」
立ち上がり、傍で転がっていたボールを拾い上げ、尋ねる。
神野先輩は無言で背を向けた。それを肯定と取り、既にコート外に立っていた圭司にボールを投げる。
終わりが近付いている。残り時間は少ない。
何をムキになっているのか、自分でも分からなくなってきた。
本当はプライドなんて、捨てている。
ただ、勝ちたい。それだけが僕を動かす原動力。
意地になっているのかもしれない。それでもよかった。意地なら意地で、最後までカッコ悪くやってやる。
勝つ為には、一発で逆転。二点差を一発で覆すシュートと言えば、アレしかない。
あまりにも無謀な考えだった。
――試合再開の笛が鳴り、圭司からボールを受け取って走り出す。
飛び出してきた先輩を一人、二人と抜き去り、走り続ける。途中で足がもつれかかったけど、何とか踏ん張った。こんな所で倒れている場合じゃないのだ。
全身が悲鳴を上げても、下唇を噛んで堪える。
誰も見えない。見えるのは、ゴールだけ。それは別に異常じゃない。中学時代によくあった事だ。最後の最後で、全盛期の勘を取り戻しつつあった。
中学時代は、ほんの数回しか出なかった試合。高校では、一度も試合をしていない。
顔は自然と笑顔になっていた。
やばい。バスケ、やっぱり楽しいよ。
僕にはもう、ゴールしか見えない。
しかし、ゴール前にラスボス――神野先輩が両手を広げ、獲物を狙うかのように立ちはだかっているのが見えた。
こちらに向かって走ってくるが、構わずシュートの体勢に入る。突き出される神野先輩の手を避けるべく、後ろに跳びながらのスリーポイントシュート。
中学を卒業してからは、一度も練習していないシュートだった。勘を取り戻しつつあると言っても、不安定な所があるのは否めない。
その証拠に、跳んでいる途中でバランスを崩して、足がもつれた。全盛期なら、絶対にしないヘマだ。
ついで襲ってくる衝撃と痛み。
――パサ、とリングを何かが通過する音。
着地に失敗し、尻餅をついた僕が見たのは、床を転がるボールと、試合終了を知らせる笛の音だった。
途端に響き渡る、絶叫。二階にいる人が、歓喜の色を含めた悲鳴を上げていた。
喜ぶクラスメート達の声に、やっと実感する。
試合は終わった。僕達は、勝ったんだ。
呆然としながら転がるボールを見ていると、ふと彼女の事が気になり、二階に目をやった。しかし、見つからなかった。立ち上がって見渡してみても、その姿は見当たらない。目立つ三人も、どこにいるか視認出来なかった。
この喜びを伝えたかった人がいない。それが少し寂しかったけど、気にしない事にした。
しょうがない、と諦めて顔を正面に戻すと、神野先輩と目が合う。
その目にあるのは、怒りと恨み。しかし激情を映している目とは別に、能面のような表情。
神野先輩は足早に、そしてどこか乱暴にこちらに歩み寄って来ていた。まるで他人事のように、その光景を見ている自分がいる。
――気付いた時には、神野先輩の拳が振り下ろされていた。
頭に残る嫌な音。頬は痛いと言うより熱く、口に広がる血の味。
仰向けに倒れた僕の上に神野先輩が馬乗りになる。抵抗する気力も体力もない。再び振り上げられる神野先輩の腕を見ても、ああ、痛そうだなあ、と思うだけ。
急変した事態に気付いた人が、驚愕の声を上げる。
数秒もせずに襲ってくるであろう痛みを覚悟した――刹那。
「がっ!」
苦痛に満ちた叫び声を上げ、神野先輩は僕の上から吹っ飛んだ。床に背中を打ちつけ、滑る姿は先程までの僕と酷似している。
視界に入るのは、長い黒髪。
「それ以上秋に触れる事は、私が許さん!」
無表情の仮面を外し、怒りを露わにする彼女がそこにいた。
滅多に聞けない彼女の怒号に、ざわめいていた体育館が静まる。
それらを無視し、倒れたまま動かない神野先輩を視認して、こっちに向き直る彼女は跪きながら僕の顔を覗き込んだ。
「痛むか?」
恐らく赤くなっていると思われる頬に、当てられる冷たい手が心地いい。その瞳に存在するのは、限りなく優しい色。
僕はそれに笑って応えた。何か言いたいのに、口が開かない。
そうして、僕は意識を失った。