第六十話:「神野先輩とは」
彼女の活躍で、特進クラスの女子バスケは決勝戦まで進んだ。
そうなると順番的に、今度は男子バスケの決勝戦な訳で。
只今、僕と佑樹、圭司とクラスメートの二人で作戦会議中。
「うーん……。向こうは経験者が二人か……。ちょっとキツいなー。だったら圭司はディフェンス(守備)に――」
「秋。お前はオフェンス(攻撃)だからな」
「分かってるよ。煩いなあ」
さっきから佑樹は、ずっとこんな感じだ。しつこい男は嫌われると言うが、今ならそれに共感出来る。とりあえず佑樹、一回死んでくれ。
そんな事を考えていると聞こえてきた、試合開始の準備である笛の音。
頬を二度叩き、気合いを入れてコートに向かうと、なんと、思わぬ人間に会った。
「よう、向坂。久しぶりだな」
「……神野先輩」
もう会う事もないと思っていた。どこかへ引っ越したと聞いていたが、まさか戻ってきていたなんて。しかも、この学校に。
中学時代、神野先輩には色々とお世話になった記憶がある。
入学してすぐ、バスケ部に入部した僕を、神野先輩は気に入らないと吐き捨て、試合はおろか、練習でさえ満足にやらせてくれなかった。当時、エースであった神野先輩の機嫌を損ねようとする人は誰もおらず、おかげで僕がバスケを楽しめるのは授業か休み時間となってしまったのだ。
そんな嫌がらせをするのには理由があった。神野先輩は、汐姉に振られていたのだ。神野先輩こそ、キング・オブ・小さい男の称号が相応しい。
僕に嫌がらせをした事はとっくの昔に許した。だけど、一つだけ許せない事がある。
それは、汐姉を陥れようとあらぬ噂を学校中に流布した事。その事を、汐姉は気にしていない。けど、僕が神野先輩を許す事は一生ないと言える。それ程までに、僕は神野先輩が嫌いだ。
「……」
体の内から湧き上がる感情を押さえ込み、自分の位置につく。
――試合開始の笛。
ジャンプボールは相手側の勝利。
神野先輩が落下途中のボールを拾い、ゴールに向かって走り出す。僕もそれを後ろから追った。
距離はそう大した事なく、すぐに追いつく。抜き去るのと同時にボールを奪ってやろうとしたが、やはりそこは曲がりなりにも元エース。そう簡単にはいかない。神野先輩は左後方を走る先輩にパスし、難を逃れる。
だが、そこで佑樹の出番だ。神野先輩のパスコースに先回りし、退路を絶ちながらもボールを受け取る。
「秋っ!」
名前と共に飛んできたボールを取り、反対側のゴールへ向かうが、行く手を阻む壁があった。見なくても分かる。他ならぬ神野先輩、その人だ。
低姿勢でドリブルを続け、勢いを殺す。易々《やすやす》と前に出る事は出来ない。神野先輩は、勝つ為なら容赦ない人なのだ。
「向坂、あの女は元気か?」
半月を描く目。
神野先輩が指すあの女とは、恐らく汐姉。明らかに侮辱と取れる言動。瞬間的に殺意が湧くが、何とか押し止めた。ここで挑発に乗ったら、相手の思うツボだ。
「それにしても、お前と日宮千歳、えらく仲がいいらしいじゃないか」
くくく、と笑う神野先輩。
そう言えば、この人は昔から他人の弱みを握るのが得意だった事を思い出す。巧みな話術で相手を揺さぶり、動揺させる手口で相手の弱点を探るのだ。
深く、深く息を吐き出す。落ち着け。落ち着くんだ。
「遠目で見ても、いい女だよなあ。あんな女を自分のモノにしたら、自慢出来んだろ? やっぱり」
神野先輩は言い放つと共に、チラリと二階を見る。
――ああ、ダメだ。意思に逆らって僕の目は自然と鋭くなり、目の前の人間を睨みつける。
千歳をモノ扱いした事が、許せなかった。彼女を下卑た目で見るこの人が、許せなかった。
感情に任せて、前に出る。
――が。
「ぐ……っ!」
飛び出してきた神野先輩の腕が、フックのように僕を引っ掛け、後ろへ放り投げるようにして振るわれた。
投げ出され、背中を打ち付けて体育館の床を滑る。
僕の手から零れ落ちたボールの跳ねる音が、一瞬にして静まり返った体育館内に響いた。
ファウルの笛は鳴らない。予想はついていた。多分、審判は神野先輩に買収されている。似たような事が中学時代にもあったから、答えを出すのは容易だった。
更に悪い事に、球技大会中、教師は全員、職員室で何らかの仕事をする事になっている。四谷先生がこの体育館に来たのは、仕事の合間を縫って来たからだ。普通なら、何かない限りは絶対に来ない。
本来なら不正を防ぐ審判はおらず、注意できる教師もいない。
言ってしまえばここは、神野先輩の、手の平の上なのだ。生かすも殺すも、神野先輩の気分次第で決まる。
「おいおい。急に飛び出したら危ないだろ?」
「……っ」
笑いながら差し出された手を取る気にもなれず、痛む背中を押さえて、なんとか自力で立ち上がる。本当に、容赦ないなあ。中学からまるで変わってないよ。
「おい! ふざけんなよ!」
「……っ。佑樹っ」
声を荒げて駆け寄ってきた佑樹の言葉を遮る。
大丈夫だ。まだやれる。――そう目で伝えれば、佑樹は渋々と戻っていった。
僕は神野先輩に笑いかける。
「神野先輩、ごめんなさい。続き、やりましょう」
頭を下げると、面白くなさそうに鼻を鳴らす音が聞こえた。
体育館に、再び静寂が訪れる。
その中に、彼女はいるのだろうか――と、無意識の内に考えていた。
――試合はまだ、終わっていない。