第五十九話:「球技大会」
ああ。ついに、ついにこの日がやって来てしまった。
『選手の方は、それぞれ指定された場所へ向かってください。バスケットは第二体育館、バレーは第四体育館。野球はグラウンドです』
放送部である生徒の声がスピーカーを通して、学校中に流される。
それを聞いてぞろぞろと教室を出て行くクラスメート達。はあ、と溜め息をついて、僕もその後をついて行くのだった。
○○○
とても前を向いて歩く気になれず、下を向きながら体育館に入場した途端、耳までつんざくような悲鳴が聞こえた。
突然の出来事に驚いていると、隣の佑樹が教えてくれる。
「そう言えば、三騎士が出るのはバスケだってよ」
佑樹の言葉に、ああ、と納得する。
バスケはあらかじめ対戦表が作られていて、それを男子と女子が順番にやっていく形になっている。今年は男子が先らしい。だから女子が二階にいて、三騎士に黄色い声援を送っているのだ。
「向坂くーん!」
そう。三騎士は――え? 今、誰か呼んだ?
今まで俯かせていた顔を上げると、二階の落下予防の鉄柵から身を乗り出している無数の女子が目に入った。
見ればみんな、携帯を手に持って、こっちに向けている。規則的な電子音が聞こえる事から、どうやら写真を撮っているようである。
「きゃあー! アキー!」
「アキくん! こっち向いてー!」
な、何だコレ。おかしい。絶対おかしいよ。何してんの、この人達は。
「けっ! んだよ。秋のファンかよ」
「まあまあ、落ち着きなよ佑樹。秋はモデルしてるんだからしょうがないってー」
「羨ましすぎる!」
勝手な事を言っている二人は無視し、異様な光景を見て唖然としていた僕。だけどその中に見覚えのある亜麻色の髪を見つけて、思わずその下にまで駆け寄っていた。
「遍さん!」
鉄柵に手を置いていた遍さんが、見上げる僕を見て笑う。大声を上げなければ、悲鳴に掻き消されて相手に届かない。
「アキくん! 千歳なら、下に降りていったよ!」
遍さんの目が、僕から外される。その顔には、ニヤリとした笑み。
「――ああ。私はここだ」
すぐ近くで聞こえた声に、鼓動が高鳴る。
誰もいないと思っていた隣を見れば、いつの間にか彼女が立っていた。その名前を、僕は震える吐息混じりに紡ぐ。
「……千歳」
「何だ、秋」
「何でも、ないよ」
笑うので、精一杯だった。
真紅の双眼と目が合うだけで、こんなにも心を乱される。
時間と共に、気持ちが大きくなっていく。それがちょっと怖くて、凄い嬉しい。
人を好きになるのって、こう言う事なんだ。
「用がないなら呼ぶな。お前はもう人気モデルなんだから、私と噂になったら困るだろう?」
「噂?」
「ああ。そうだ」
そう言って目を逸らす彼女は、ほんのちょっとだけ、唇を尖らせている。その拗ねているかのような仕草に、ドキドキした。
期待してはいけない。自惚れるな、僕。彼女がヤキモチを妬いてる訳ないんだから。
でも、僕は――
「千歳となら、噂になってもいいんだけどね……」
「え?」
口に出していた事に気付いて、慌てて口を押さえても、もう遅い。
彼女の驚いた顔が、こっちを見ていた。
「秋、今のよく聞こえなかったんだが」
マズい。
「あっ! もうこんな時間だ! 僕、行かなきゃ! 千歳、応援よろしくね!」
口を挟む隙を与えず、走り出す。一刻も早くここから逃げ出したい一心だった。
「あっ、おい! 応援と言われても、私のクラスとお前のクラスは敵同士だぞ!」
彼女の声は、聞こえない振り。
○○○
悲鳴がいまだに響く体育館内で、試合開始の笛が鳴る。
初戦の相手は、三年生。しかしスポーツは、平等だ。先輩だからと言って、容赦はしない。
ジャンプボールを制したのは、佑樹。
指先に当たったボールは放物線を描いて、圭司が素早くそれを取った。そしてその直後、僕は圭司の横を通って走り抜け、ボールを受け取る。幾度となく練習してきたコンビネーションは成功。
先輩が壁となって立ちはだかったが、中学の時、穂純と散々やり合ってきた僕にとって、彼らを抜き去るのは簡単だった。
一人抜き、二人抜き、後ろから追いついてきた佑樹にボールを回す。
僕の役目はここまで。後は佑樹と圭司、二人のクラスメートに任しておけば安心だ。佑樹は試合が始まるまで文句を言っていたけど、理由を言ったら許してくれた。
――だって、決勝戦で本気を出した方が、面白いと思わない?
そう言った時の佑樹の顔は、傑作だった。
僕らは順調に勝ち進み、決勝まで進んだ。
壱と琉のクラスは僕らと当たる事なく(と言うか琉はサボリ)、決勝戦の相手は三年生。
ただ決勝戦に入る前に、女子の試合がある。もちろん優勝候補は、彼女がいる特進クラスだ。
先程とは打って変わり、二階は男ばかり。非常にむさ苦しい。
そんな男達には共通点があった。皆が皆、ある一点に注目している。
それは体操着姿で柔軟体操をしている、日宮千歳。
機会がない限り、彼女を直視する事は滅多にない。だから皆、その網膜に焼き付けんと、一心不乱に彼女を見つめているのだ。
それがちょっとムカつく。いや、凄いムカつく。
「秋ちゃん、顔が怖いよー」
壱が、僕の頬をつつく。痛いから止めなさい。
「秋、ヤキモチを妬くのはいいけど、顔に出すクセは直した方がいい」
環は冷静に僕を分析。出来ればほっといて。
「ねみぃー」
いつの間にか現れた琉はアクビをする。もうお前帰れよ。
今はこの三人がいるだけで、イライラが襲ってくる。
しかし、佑樹は女子目当てに、圭司は彼女を目当てに、第四体育館へ行ってしまったので、この鬱憤を晴らせるようなサンドバックがいない。
それに、下にいる女子がまだ悲鳴を上げて僕に手を振ってくるから、落ち着かないし。
あー、もうみんな、ちょっと黙ってくれないかなー。その口を針と糸で縫いつけたいなー。
と、笑顔で危ない事を考えていると。
「あっ! 四谷が千歳に接近中!」
「えっ!? 嘘っ!?」
環の言葉に、バッと身を乗り出して千歳を見ると、確かに四谷と彼女は何かを話し合っていた。
ああ、やばい。母さん、父さん。僕はいけない息子です。二人の姿を見て、嫉妬の炎がメラメラと燃え上がっています。
「野郎……。俺らより千歳と会ったのが早いからって、調子乗ってんじゃねぇ……」
……変な嫉妬してる人がここにいます。幼馴染みならではの独占欲って初めて見たよ。
「秋ちゃん秋ちゃん。ちょっといい?」
怪しげな微笑みを見せながら、訪ねてくる壱。
警戒しつつも頷くと、ニヤリと笑って――叫んだ。
「ああっ! 二年C組出席番号10番、向坂秋くんの首にキスマークがあるーっ! これはもしや、大人の階段を上ってしまったのかーっ!?」
「はあああっ!?」
何言ってんのこの人! しかもご丁寧にクラスと出席番号、フルネームまで!
「えーっ! 嘘ーっ!」
「ショックーっ!」
「いやーっ! アキーっ!」
今までとは違う、そんな悲鳴が体育館内に響き渡った。
どうにかして否定しようと、下を見た時――こちらを見ている彼女と目が合う。
「――っ」
ひぃ、とかすれた悲鳴がのどを通った。
殺気を帯びた紅い瞳が、僕を射抜いているからだ。
千歳が何でこっちを睨んでいるのかは分からない。だけど何故か、彼女は傷付いたような、悲しんでいるような表情をしていて。
唇が僅かに形を作ろうとしていたので、目を凝らす。
「――」
コ。
「――」
ロ。
「――」
ス。
全てを繋げれば――
「……え? コロス?」
……いやあああっ! 殺されるー!?
「壱! 壱! 笑ってないで助けて!」
「りょーかーい」
すう、と息を吸い込む姿がやけに頼もしい。
「あーっ! ごめーんっ! よく見たら虫さされだったよー!」
壱の叫びに、よかったー、など言い合う女子達。男子の中の数人も(何故か)安堵の息をついている。
それらを全て無視し、僕は彼女を見つめた。
本当に違うよ、と懇願するように。彼女だけには、誤解されたくなかった。他の人間がどう言おうとどうでもいい。でも、彼女だけには、信じて欲しかった。
それは傲慢と言う名の、想い。
喧騒の中、僕と彼女は見つめ合う。
その光景を、四谷先生が見ていたとも知らずに。――それが、奇妙な三角関係を作る事になるとは、思いもしなかった。