第五十五話:「夏の終わり」
翌日の早朝。まだ早い。いつもより早い。そう、まだ起きるには早いのだ。
「おいっ! 秋、起きろって! 早く遊びに行こーぜ!」
「……うるせぇ」
朝っぱらから騒音を奏でる琉を、寝ぼけ眼で睨む。何か危険な事を口走ってしまったような気がするが、それはしょうがない。
自分は決して寝起きがいい訳ではない。むしろ悪いと言える。だから許せ、琉二。寝起きの僕は柄が悪いのだ。
「しゅ、秋? なんか目が据わってるよ?」
「秋ちゃん、顔が怖い! って言うか、上目遣いで睨まないで! 超怖い!」
「だから……うるせぇっつってんだろ……」
琉、環、壱の順番に睨んでいくと、三人が三人共、同時に目を逸らした。
口が悪いのは自覚してる。我が家では、『寝起きの秋は見るな、触れるな、喋りかけるな』が暗黙の了解なのだ。なので、千歳の寝起きの悪さは僕が責められた事じゃない。ちなみに今、彼女は別室で着替え中。琉の顔に殴られたような跡があるが、それは見ない振りだ。
――と。その時、扉が開いた。
「む。何だお前ら。何でそんなに顔が青いんだ」
「……おはよ、千歳」
「ああ、おはよう、秋」
今の挨拶は、自然に聞こえただろうか。言葉の節々に、気持ちが表れていないか、心配でしょうがない。
頬が緩むのは、彼女が返事をしてくれたからだろう。しかし、彼女のする事に、いちいち一喜一憂していては身が持たない。
だからもう少し、気楽に考えよう。好きとか好きじゃないとかは別にして、以前みたいに接すればいい。そう考えると、心が軽くなるような気がした。
「秋、目は覚めたか?」
「うん。まあ、ね」
君のおかげでね、と心の中で付け足しておく。
さあ、楽しい楽しい、最後の日だ。目一杯、遊んでやろうじゃないか。
○○○
今更になって後悔していた。
目の前には、木刀を振り回す彼女と、逃げ回る琉の姿。サングラスをしたまま走る彼女は怪しく、恐怖で顔を強ばらせながら走る琉の姿も怪しかった。
「木刀なんて振り回してたら、警察に捕まっちゃうって……」
「秋ちゃん、そう言う時はね、ミヤビ財閥の名前を出せば一発だよ? 会長さんは千歳の事を溺愛してるから、些細な不祥事は抹消しちゃうだろうね」
黒い。黒すぎる。そんな世界知りたくなかった。
「それにしても、よく走るなあ」
環がしみじみと呟く。
確かにそれは同感だ。あまりの速さに、ビーチの人達も目を見開いて二人を見ている。いや、その前に、彼女が持っている木刀に驚いていると言った方がいいかもしれない。
って言うか、昨日の『琉二をスイカの代わりにしよう』発言は嘘じゃなかったんだね……。
「千歳は小さい頃から、琉イジメが日々のストレス解消法だったからねー」
笑って言う事なのか、それ。
「まあ、あの二人は放っておいて、泳ぎに行こうよー。環も泳げる事には泳げるんだからさー」
「ええー。気乗りしないなあ……」
「じゃあ海に来るなよ」
「うっわー。秋ちゃん、毒舌っ! まだ寝ぼけてる?」
「寝ぼけてないよ。環も頼むからいじけないで」
こうして時は過ぎていく。でも、何か青春を無駄にしているような気がする……。
○○○
千歳と琉の攻防戦は、千歳が逃げ回る琉の背中に跳び蹴りを食らわせて終了。
それからは、遠泳競争をしたりビーチバレーをしたり、時間が来るまで海を楽しんだ。夏休みも終わりに近付き、来年は受験などで遊ぶ暇などないだろう。そう考えると、寂しい。
僕らは高校を卒業しても、会えるのだろうか。もしかしたら、会えないのかもしれない。
儚くて、頼りない関係。それを一瞬でも忘れようと、目を逸らそうとしているのだろう。だから、バカみたいにハシャいで、バカみたいに騒いだ。未来の事なんて、忘れてしまおうと。
――そしてとうとう、その時間がやって来た。
駅の改札口。
隣には彼女がいて、改札口の向こうにはタケちゃんと三人がいる。
要するに見送り。三人は急ぎの用があるようで、ヘリで帰るらしい。タケちゃんは忙しい仕事の合間を縫って、来てくれた。
「秋ーっ! 今回はありがとなーっ! 隣の彼女もありがとーっ!」
年甲斐もなく手を大きく振る従兄弟。今年、二十八歳。
彼女ってなんだよ、彼女って。
「秋ちゃん、次は会う時は多分、新学期だねー」
「うん。壱、頑張ってよ?」
パリに新学期ギリギリまで滞在するらしい壱には、学校が始まるまで会えない。
玲奈さんとの関係がどうなるかは、壱の行動次第だ。だから、『頑張れ』。
僕のその意図に気付いたのか、壱は嬉しそうに笑って頷いた。
「俺もじいさんの所で英才教育を受けさせられると思うから、ちょっと無理かもしんねぇ。でも、何かあったら連絡してこいよ?」
「分かった」
英才教育、を嫌味たっぷりに強調する琉に、苦笑いを隠せない。と言うか、この男が真面目に勉強するとは思えないんですけど。
「俺も、父さんに連れ回される事になりそうだから。まあ、連絡は取り合おうな」
「うん」
環は本当に嫌そうな顔をしている。本当は、嫌なんじゃないのだろうか。でも、それは僕が首を突っ込む事じゃない。環が話してくれた時こそ、考えるべき事だろう。
みんな、忙しい。そう思う。
それが少し寂しくもあり、羨ましくもあった。
何か目的があったり、目標があったりするのって、結構凄い事だと思う。ただ流されるままに日々を過ごしている自分とは大違いだ。
スピーカーから流れる機械音が電車の到着を告げる。
「じゃあね! 千歳、行こう」
「ああ」
彼女と自分の荷物を担いで、手を取り合い走り出す。
背中に四人の視線を感じながら、彼女と笑い合った。
「またいつか、ここに来たいな」
「うん。またいつか、ね」
恐らくそれは、遠くない未来。その未来が必ず来るとは言えないけれど、そう思う。
これから先、僕と彼女が今と変わらず友達でも、恋人同士になったとしても、また来たいと思える。
――楽しかった夏は、終わりに近付いていた。