第五十四話:「ignite――点火――」
壱が消えて数分後。寝間着の千歳がやって来た。
手を振ると、振り返してくれる。どうやら嫌々って感じではない。
しかし、僕の前まで来た彼女の顔は、怪訝と不機嫌が混ざって複雑な表情をしていた。
「どうしたの?」
「壱人に部屋を追い出された」
頬が膨れ気味になっているのは、怒っているからだろうか。何にせよ、面白い事この上ない。
「ちょっと歩く?」
「ああ」
鷹揚として頷くのは、まだ寝ぼけているからだろう。ゴシゴシと目を擦る姿が可愛らしい。
「眠い?」
「ちょっと疲れた」
「今日、大変だったからね」
「あいつらも災難だったな」
波打ち際を歩く足取りはどこか危なげで、自然とその手を取っていた。彼女もそれが当然とでも言うように、握り返してくる。
「明日は休みだから、いっぱい遊ぼう。ビーチバレーしたり、スイカ割りもしたいな」
「琉二をスイカ代わりにしてみようか」
怖っ!
「冗談だ」
「千歳が言うと冗談に聞こえない……」
「それはどう言う意味だ?」
「え。特に深い意味はないですよ?」
「……知ってるか? 秋は嘘をつくと、鼻が高くなる」
「え!?」
空いている手で鼻を押さえると、高くなっている気配はない。よかった。当分はこのままで十分だよ――って。
「鼻が高くなる訳ないじゃん。バカか僕は」
「ああ、バカだ」
してやられた。バカにされましたよ。
クスクスと笑う彼女を見てたら顔が熱くなる感覚がして、慌てて手を離す。今の顔をあまり見られたくない。そんな思いからか足取りは自然と早くなり、彼女の先を進んでゆく。
すると何を勘違いしたのか、後ろから困惑した声が聞こえてきた。
「怒ったか?」
「お、怒ってないよ」
「なら、何で手を離した」
「う……」
言えない。まさか、恥ずかしいからですなんて。
どう答えようか迷っていると、背中に柔らかい衝撃が走った。
夜でも分かる程に白く、力を入れれば折れてしまいそうに細い腕が自分のお腹の辺りに回されてるのを見て――彼女が後ろから抱きついているのだと気付くのに、時間は掛からなかった。
「――っ!?」
のどを通り抜ける、驚きで声にならない叫び。背中の柔らかい感触が鼓動を速くし、同じシャンプーの微かな香りが、顔を更に熱くさせる。
「ごめん。私が悪かった。だから怒らないでくれ」
長い髪が風に揺られて腕に当たるから、くすぐったい。
「お、おおお、怒ってないよ? だ、だからそんなに気にしなくてもいいって」
ダメだ。今の僕、緊張してる。抱きつかれるのは我が家の女性陣で慣れているはずなのに。彼女だと、どうしてこう調子が狂うんだか。
「他の奴ならどうでもいい事だが、気になるんだ。お前のせいだぞ、秋」
「ご、ごめんなさい?」
「何で謝る」
「クセなんだよ、謝るの」
「治せ」
そんな無茶な。長年に渡って染み付いてしまったクセは中々抜けないのに。
彼女の無理難題に返答を困らせていると、いつの間にか回されていた腕がなくなっていた。
「千歳?」
――そして爆発音が辺り一帯に響き渡る。それは聞き覚えがある、重低音。
何事かと振り向けば、空が一瞬だけ明るくなった。
「――あ」
――花火。タケちゃんが言っていたのは、これか。
空に咲く色とりどりの鮮やかな大輪は、見上げる僕と彼女を照らす。刹那的だからこそ美しい。燃えるように赤く、そして散っていく花。
今まで見た中で、一番感動的だった。
暫く見とれていると、ふと気付いた手の微かな温もり。それは他でもない彼女のもので、そのひんやりとした冷たさが、夏の暑さに火照った自分には心地いい。
「綺麗だな」
そう言う彼女の視線は、花火に向けられたまま。他の何も映さず、紅い瞳にはただそれだけが映る。
その横顔があまりにも儚くて、見とれていた。
「……そうだね」
君の方が綺麗だよ、なんて言う度胸はない。それにそんな無粋な言葉は、この場に必要なかった。
彼女の横顔から視線を逸らし、空を見上げる。
きらびやかな光を目にし、お馴染みの轟音を聞いて――やっと分かった。
速い鼓動。熱い頬。その理由に、気付いてしまった。
今なら、壱の気持ちが分かるかもしれない。
近くにあるのに気付かなかった。ずっと不思議だったのに、自覚すると笑えてくる。僕は無意識の内に彼女に惹かれていた。そして無自覚の内に彼女を好きになっていたのだ。
――好き。その言葉はスッと胸に溶けて、穏やかな気持ちになる。
本当は、ずっと前から惹かれていたのだろう。だけど気付かなかった。これはもう、鈍感と言われても仕方ない。
「……」
「……なに、秋」
「や。何でもないよ」
隣の彼女を盗み見れば、目が合ってすぐに逸らした。
好きだと自覚しても、この関係は変わらない。
告白する。そんな勇気、僕にはないだろう。今の関係を壊す勇気も、ないと言える。恋人同士に――なんて厚かましい事は思わない。想ってるだけで十分だ。今の僕では、彼女に釣り合わないから。
だからせめて今だけは、心の中だけで伝えよう。決心がついたら、ちゃんと口にして伝えよう、この言葉を。
――君が、好きです。