第五十三話:「彼の真実」
「つ、疲れたー……」
タケちゃんが作り出したあの広告チラシは、意外な事にも反響を呼び、店内は女性だらけと言う佑樹なら泣いて喜ぶような事態に陥った。
結果、あまりの忙しさに本来ならアイス売りである僕と千歳までもが、散々こき使われてしまったのだ。
まあ、本当に災難なのは三人だろう。
遊びに来ただけなのに働かされた挙げ句、見知らぬ女性に指名されまくったのだ。可哀想としか言いようがない。
今は三人とも、僕と彼女の部屋に通されてすっかりダウン状態。僕よりよく働いたと言っても過言ではない彼女は、平気な顔をしてテレビを見ている。
これくらいで疲れるならスポーツ選手はやっていけないらしい。理由を聞くと、胸を張ってそう答えてくれた。
疲れた体を壁にもたれさせながら、無造作に寝転がる三人を見て、溜め息を零す。
多分、誰にも聞かれたくない話なんだろう。
他人が嫌がる事。悲しむ事。楽しめる事。嬉しくなる事。その感情。その表情。
それらの全ては、小さい時から感じる事が出来た。無意識に感じ取って、それに応えようとしてきた自分がいたのも知っている。本当はそれが嫌で、高校生になってからはなるべく目立たないようにして、人と関わるのを避けてきたんだ。
皮肉にもそれが役立ったのかと思うと、笑えてくる。
準備は整った。あとは彼の中にある、あってはならない感情を吐露させる。あとはその吐き出された感情を汲み取って、出来る限り理解するだけだ。
僕にはその感情が分からないかも知れないけど、分かるまで諦めない。それが自分の出来る事だと、理解している。
「僕、ちょっと散歩してくるよ。あ、壱、一緒に行かない?」
不自然ではなかっただろうか。呼び出す口実としては、これくらいしか思いつかなかった。
だけど彼が一緒に来る事は疑わなかった。それは勘でしかない。だけどそう思うのだ。しかし、どうやらその勘は、外れていなかったらしい。
「あー、うん。そうだねー。久々に親睦を深めようか」
すやすやと寝息を立てる琉と環の間から起き上がり、伸びをする壱。千歳はいつの間にか、テーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。
○○○
空は暗く、月の光が海に反射してキラキラと輝いている。
店からそう遠くはない距離の浜辺で、向かい合う。
あまり回りくどい事をしたくない。だから、単刀直入に聞いた。
「玲奈さんが母親じゃないって本当?」
「――っ」
跳ねる壱の肩。動揺に揺れる瞳を見ていると、呟きが聞かれた事に気付いていなかったみたいだ。
だったら相当キテる。恐らく、限界なのだろう。無意識に呟き、無自覚で表情に出る程だ。これ以上はもう、彼の精神が堪えきれない。
「な、んで……」
揺れる瞳。揺れる体。全てが不安定で、頼りない。
「壱がそう言ったんだよ。そして僕がそれを聞いただけ」
極めて簡潔に伝えた。この場に御託はいらないと判断したから。
「そっか、そうなんだ。俺、言ってたんだねー……」
まるで僕から目を逸らすかのように、手を瞼に押し当て深い息を吐く。
「そうだよ。母さんは――いや、斎木玲奈には、息子なんて実在しないんだ」
「……」
彼の吐き捨てるような言葉を前にしても、何もしない。壱が求めているのは、相槌でも頷きでもないから。
「本当に、最近の事なんだ。気付いたのは」
震える声。
「あの人の部屋を掃除してたら、見つけちゃったんだよね。この子を預けます、どうか育ててくださいって言う、本当の親からの手紙」
あるのは、絶望か失望か――それとも、他のものか。
「笑っちゃったね」
彼は瞼に押し当てていた手を剥がした。
「信じられなくて、戸籍を調べたら、それが本当だって分かった。俺は養子だったよ。それにあの人は、俺が知ってた年齢よりずっと若かったんだ」
泣きそうな表情。認めたくないと言う想いが、壱をここまで追い込んだ。
「三十歳だって。俺が赤ん坊の時に拾われたのだとしたら、あの人はまだ十四歳だったんだよ。おかしすぎて、吐き気がしたね」
彼は自分の震える指を見つめる。
「外見が年齢にしては若い若いと思ってたけど、まさか本当に若かったなんて」
笑えるでしょ? と彼は同意を求めた。
「ずっと嘘の年齢を俺に教えてたんだよ? 父親がいないのはどうしてかって聞くと、聞こえない振りしてはぐらかして」
「……」
「言ってなかったけど、俺、中学校の時、部活中に頭打ってて、それまでの記憶がないんだ。千歳達の事は覚えてるけど、それ以外の事は覚えてない。だから、母さんだって言って見舞いに来てくれたあの人の事、分からなかった」
「――っ」
内心、驚いた。まさかそんな事が壱に起こっていたなんて。
「多分、千歳達は知ってるよ。俺とあの人の血が繋がってない事。もしかしたら、記憶がなくなる前の俺も、知っていたのかもしれない。だけど、俺が記憶喪失になってしまったから」
玲奈さんは過去を、隠した。
そして皮肉な事に、彼はそれを見つけ出してしまったのだ。
「あの人のブランド、最近売れ出したのは知ってるよね? それで取材の申し出が結構来てたんだけど、あの人は全部断ってた。何でか分かる?」
それは彼なりの自嘲だった。
「俺がいたからなんだよ。テレビだと、名前の下に年齢が出ちゃうでしょ? でも、店のスタッフは知ってたんだと思う。マサくんとマユさんは、少なくとも、絶対に」
「……真幸さんと、真弓さんが」
「うん。本当、申し訳ないよ。三十歳なら恋愛の一つや二つ、もしかしたら結婚してたかもしれない」
空を見上げる壱。その光景は儚くて、壊れそうに脆い。
「俺さ、ずっと不思議だったんだよね」
壱の長い前髪が風に揺れて、潮の香りが漂った。
「あの人を守ってあげたいとか思ってたんだ。それは今まで、あの人がぐうたらで、ほっとけないからだと思ってた」
でも、と続ける。
「知っちゃうとね、簡単だったよ」
そして彼は、泣きそうな顔で言う。
「俺はあの人の事が好きなんだ」
風がさっきよりも、強く吹く。
「本当の母親じゃないって知ってから、気付いた。俺は無意識の内に、無自覚であの人を好きになってたんだよ。でも、ダメなんだ」
「壱。それ以上は、言わないで」
「俺にあの人を好きになる資格はない。だって――」
「壱!」
僕の静止を無視し、彼は再度、口を開く。
「俺があの人の人生を、ぶち壊したんだから」
遅かった。言ってしまった。
鈍い音がして、拳を痛みが襲う。
目の前には、赤くなった拳と、赤く頬を腫らした壱。
――初めて他人を、本気で殴った。
震える拳をもう片方の手で押さえて、呆然としている友人の顔を睨み付ける。
「秋、ちゃん……?」
「壱は他人の人生をぶち壊したとか、簡単な事を言って逃げるの? 好きになる資格がないって自分勝手な事を言って、玲奈さんから目を逸らすの?」
「あ……」
「ぶち壊したかどうかは玲奈さんが決める事。好きになるかは壱の自由。だから軽々しく、ぶち壊したとか、資格がないとか、言うな」
「……」
「眠そうで不思議で、何を考えてるのか分からない。いつも笑っていて、優しくて明るい。それが君だろ、斎木壱人」
「……それが、俺」
「うん。君は斎木壱人でしかなくて、僕は向坂秋でしかない。だから、笑ってよ。いつでも笑顔なのが君でしょ?」
ニヤリと笑って見せると、彼も引きつる頬を、自然な笑顔に変えた。
「はは……っ。あははっ。秋ちゃん、パンチ弱っ」
「なっ」
今、それは関係ないだろ! 感動的なシーンになんてセリフを! そりゃあ僕のパンチなんて蚊が止まったように感じるかもしれないけど!
「あははははっ! あー、もうっ! なんかスッキリした! 悩んでた俺がバカみたいに思えてきたよ!」
腹を抱えて笑う壱は、いつもより数倍も明るい。そこには昼間のような暗い姿は見る影もなく、ただ笑い続ける青年がいた。
ただあまりにも笑い続けるので、少し意地悪をしたくなった。
「で? 壱は玲奈さんが好きなの?」
「うん。そうだよ」
ぐはっ。意地悪のつもりが逆にダメージを食らってしまった。前は顔を赤くしてたから、今回も見れると思ったのに。平然と答えてくれるから、こっちが恥ずかしくなる。
「これからアタックするつもりだよー」
「うわっ。積極的な発言……。じゃあ、言うの? 本当の事」
「うん。隠しててもしょうがないし。見ちゃったもんは見ちゃいましたって正直に、ね」
キラキラと王子様スマイルを見せる壱が男らしく見える。ここまで潔いとは、中々凄い。
「じゃあ、帰ろっか。もう用もないし、今日は疲れたからね」
「ああ、そうだね。タケちゃんが泊まる部屋を用意してくれたから、今日はそこで寝なよ」
「おー。やったねー。それにしても、あの人、本当に秋ちゃんの従兄弟なの? とても同じ血筋とは思えないくらいプレイボーイだったんだけど……」
「それは深く聞かないで……」
軽口を叩き合いながらの帰路につく。店の近くまでに来ると、壱が二階の辺りを指差した。
「あ、千歳だ」
「え?」
見ると、確かに窓から空を見上げている彼女がいた。その光景が何故だか微笑ましくて、頬が緩むのを感じる。
「確か今日、武斗さんが、夜のお楽しみがあるって言ってたよね?」
「あー言ってたねー」
一体、何をするつもりなんだろうか、あの野郎は。
すると、隣からクスクスと笑い声が聞こえてきたのでムッとする。
「何がおかしいの?」
「いや、別にー? 秋ちゃん、今から千歳と一緒に散歩してきなよっ。俺が呼んでくるからさっ!」
言い終わった瞬間、壱は店に向かって走り出した。
「は!? 何で!?」
遠ざかる背中に問い掛ける。もうあんなに遠い。足速すぎるだろ。
そうして壱の姿は店の中へ消えていった。
壱は一体、何をする気なんだろう。理解する事が出来るのは、やはり玲奈さんしかいない。
意外と二人がお似合いな事を、今更自覚するのであった。
○○○
――壱と話した事で、胸に芽生えた疑問がある。
実は、僕の兄妹である菊花とあの人には、赤ん坊の頃の写真がない。それは明らかに不自然な事だけど、今まではそう大して気にしなかった。
だけど、壱の話を聞いて、ふと思った事がある。
もしかしたら、あの人も――なんて。
菊花が養子なのは知っているが、それは僕が七歳だったからだ。けど、あの人は年上だから、出自が僕には分からない。
今はそれが歯痒くて、自分が無力だと言う事を改めて思う。
しかし、自ら聞く事は出来ない。それが誰かを傷付けるような結果になってしまうのが、怖いのだ。
不安で仕方ない。その憶測が当たっているようで、嫌になる。
真っ暗闇の中、どうしようもない孤独を感じて、泣きそうだった。