第四十九話:「少年のような従兄弟」
青い海。白い砂浜。灼熱の太陽。普通だったらそんなありきたりなフレーズが頭の中に浮かぶだろう。だが僕が思うのは、もう帰りたいと言う事だけだった。
「……人間が多いな」
「夏休みだからね」
まるで現実を拒否するかのように目を細め、ビーチの人ごみに辟易としている千歳に補足をする。何だか責めるような目をこっち向けてくるのは僕の勘違いだと願いたい。
しかし、人ごみの中にはやはり千歳に気付いてる人もいるようで、こっちを指差してヒソヒソ話してる。その事で隣に目配せすると、彼女は頷いて頭に上げていたサングラスを下ろした。
「千歳も大変だね」
「もう慣れた」
そう言う千歳の顔は晴れない。何故なら先程から、
『日宮千歳さんですか?』
『いえ、違います』
『え? 本当ですか?』
『はい。でも彼女とは親戚なので、似ているんだと思います』
『あ、そうなんですか。……メアド交換しません?』
『しません』
と言うやり取りを何回も続けていて、千歳は飽き飽き、隣で見ている僕はハラハラしているのだ。これが現代の中高生ならもっと疲れる。
熱烈に注がれる視線に、二人揃って溜め息をついた。
「全く……。私は見せ物じゃないぞ」
今時な大きいサングラスを中指で上げる様は、雑誌の表紙モデル顔負け。日宮千歳だと気付かない人でも見とれている。そして僕に羨望や嫉妬を向ける者も少なくはない。そこにいる二人組の大学生ぐらいお兄さんなんて、虎視眈々と千歳を狙っているのがバレバレだ。僕がここから離れた瞬間、餌を見つけた肉食獣のように彼女に迫るだろう。それだけは断固阻止。
「……」
「ん? どうした、秋」
肩と肩が触れ合う距離にまで近付くと、千歳が訝しげに僕を見た。さて、どうしよう。まさか『他の男を牽制してます』なんて言えない。変な目で見られるのは嫌だ。こんな時はアレだろう。ベタなセリフの一つを使うか。それで納得してくれるかは微妙だけど。
「あ、えっと、はぐれちゃ大変だと思ったんだ」
「なるほど」
どうやら心配は杞憂に終わったらしい。何事もなく納得してくれました。
「人ごみは嫌いだ」
「そうだね。じゃあ、さっさと行こうか」
千歳の荷物を受け取り、歩き出す。後ろから、返せ、と言う声が聞こえた気がしたけど多分空耳だろう。
空を見上げれば、太陽が僕らを焼き焦がさんとして輝いていた。
○○○
「……」
「……」
言葉も出ないとはこの事だろうか。僕と千歳の目の前で繰り広げられる黄色い悲鳴の嵐。その台風の目は、何を隠そう我が従兄弟、里原武斗だった。店内の客は殆どが女性。タケちゃんが焼きそばを焼く一挙一動に、いちいち歓声が響く。そして調子に乗っているナルシストな従兄弟。
それを見た瞬間、自分と千歳の周りの空気だけに辟易オーラが発生した。もう十分疲れているのに、ここで働かせる気なのか。張り倒すぞ。
「あ、秋!」
やっとこちらに気付いたタケちゃんが、キラキラ光る汗を飛ばしながら満面の笑みで僕を見た。そして隣に立つ彼女を見て、更に嬉しそうな顔をする。
「なあ。何でお前の従兄弟はああも嬉しそうなんだ?」
「ああ。タケちゃん、夏になると精神年齢が退行するんだよね。去年は虫取りに無理やり連れて行かれたし」
「……まあ、いくつになっても純粋なのはいいと思うが……」
「少年のような心って言えば聞こえはいいけど、二十五歳の男が十五歳の従兄弟を連れ出して虫取りしてたら変だと思わない?」
「……うん」
千歳は非常に言いにくそうな顔をして頷いた。でも、しょうがない。僕が五歳ぐらいだったらそんな事なかったんだろうけど。
「秋、今から部屋に案内するからなー! 藤沢、ちょっとこれやってて!」
「分かりましたー!」
厨房にいた従業員らしき人に交替してもらったタケちゃんは、入り口で突っ立っていた僕らの元に駆け足でやって来た。本当に落ち着きがないなぁ。これで二十六歳かよ。そう言えば、タケちゃんは高校生の頃からこんな性格だったような気がする。
「よう、秋。一昨日は悪かったな。日宮――ぐむぅっ!?」
千歳のフルネームを言おうとしたタケちゃんの口を素早く塞ぐ。危ない危ない。危うくバレる所だったよ。名前ならまだしも、名字なんて出したら一発でバレてしまう。このバカで女たらしな従兄弟にも、釘を刺しておかなければならないだろう。
「いい? ここで千歳の名字は出さないで。もし呼ぶんなら――どうする、千歳?」
隣に目を移すと、彼女はちょっと首を傾げて言った。
「木崎。母の旧姓だ」
「じゃあ、木崎千歳って事で。分かった?」
首を縦に振るのを視認してから手を離した。
タケちゃんは基本的にいい人で、言い触らすような事はしないから信用出来る。だから一緒に行くのは日宮千歳だって正直に言ったんだ。
「部屋に案内してくれる?」
「あ、ああ。それにしても、世界的有名人とお前が付き合ってたなんて、ビックリだぜ」
「……」
隣の千歳には聞こえないような囁いてくるタケちゃん。とりあえず、軽く蹴っておいた。
○○○
店の二階は旅館風になっていて、全室冷房完備らしい。中々な設備に驚いていると、タケちゃんに笑われた。
「あのなあ。俺だって、結構稼いでるんだよ。これくらいで驚くなっつの。あ、ここがお前らの部屋だ。一応、一番いい部屋にしといたから」
そう言って、開けられた扉。
正直、驚いた。二人で使うのには広すぎだと思うぐらいのスペースがある。
「後で従業員を紹介するからよ。ああ、バイト中は水着が制服だから、ちゃんと守るように。パーカー、Tシャツの着用は許可する。じゃ、今の内にゆっくりしとけよ。一時間後また呼びにくるから。冷蔵庫の飲み物は好きにしてくれ」
言うだけ言うと、タケちゃんはさっさと部屋を出て行った。よっぽど忙しいのだろう。無理に引き止めるような事はしない。
閉められた扉から目を離すと、千歳がのんびりとお茶を飲んでいた。いつの間に冷蔵庫から取り出したんだか。
「いい天気だな」
「そうだね」
でもこの和やかな空気は、嫌いじゃない。
○○○
一時間後。僕は部屋の外に立っていた。水着を着ているが、上にTシャツを着ている。今は部屋で着替えている千歳を待っている所だ。
壁にもたれながら立っていると、部屋の扉が開く。
中から現れたのは、黒いビキニを着た千歳。所々にチェーンのアクセサリーが付いていて、スタイリッシュな水着だ。ソレは彼女の肌の白さを際立たせていて、スタイルがいい事を表している。
「悪い、待たせた」
少し眉を顰め、申し訳なさそうに言う彼女。
「……」
「? どうしたそんな怖い顔をして。眉間に皺が寄っているぞ?」
長い指が、僕の眉間の皺を伸ばそうとしている。ちょっと痛い……ってそんな事より。まだ眉間の皺を伸ばそうと頑張っている指を掴む。
「千歳、上に何か着てよ」
「? 何故?」
ああ、何でだろう。彼女と目が合わせられない。
「……秋?」
「っ! 何でもいいから!」
千歳の気遣うような視線に堪えきれなくなって、部屋に押し込んだ。
「秋!?」
「お願いだから、何か着て?」
数秒の沈黙。そして何故だか嫌な予感がした。
「――ははあ。なるほどな」
確証はない。だけど、千歳が扉の向こうでニヤリと笑っているような気がした。何がなるほどなんだ。
「ふふっ。分かった。秋の言う通り、パーカーを着る」
「そ、そう? ならいいけど……」
部屋の中から物音がして、その音が止んだと思ったら、白い薄手の半袖パーカーを着た千歳が出て来た。……前を開けているのはまあ良しとしよう。
「これでいいか?」
「え、あ、うん」
何だか気まずくて目を逸らしていると、腕を急に引っ張られる。
「早く行くぞ」
「ちょっ、ちょっと待って」
「ん」
「わっ。何でいきなり止まるの」
「お前が待てと言った」
「う……ごめん」
僕はさっきから何をやっているんだ。自分で自分が分からない。
理解不能な自分の行動に頭を悩ませていると、また腕を引っ張られた。
「どうしたの、千歳?」
「なあ、秋」
「うん」
「ヤキモチを妬いてくれてありがとう」
「んなっ!?」
……ヤキモチ? ヤキモチって、あの?
その言葉の意味に気付いた瞬間、どうしようもなく顔が熱くなる。
千歳がニヤニヤ笑ってたのは、それが原因か。
「ちが、ちが、違うっ! あ、あれはその――」
「ほほう? そこまで取り乱すとは、図星か?」
「ずぼっ!?」
ダメだ。慌てれば慌てる程、墓穴を掘っていく。穴があったら入りたい。出来ればその墓穴に入りたい。
それにしても、やっぱり千歳はドSだ。僕を苛めて楽しんでる。
「う、うぅ〜〜。ひ、酷いよ千歳」
「ははっ。本当、秋はからかい甲斐があるな」
「ううっ。もう嫌だ……」
「気にするな。さあ、早く行こう」
そう言って今度は、僕の手を取る。久しぶりに感じる、冷たくて柔らかい感触を懐かしく思いながら握り返す。
彼女もそう感じたのか、顔を見合わせて笑った。
平然とした顔で廊下を歩く僕の鼓動は、速い。
彼女に図星かと問われた時から、落ち着かないのだ。隣を歩く彼女を盗み見ると、更に鼓動が速くなる。
――まさか。
一瞬、脳裏に浮かんだ考えを、鼻で笑って打ち消した。
いつの間にか千歳がこちらを見ていたので、静かに笑い返す。
――何だか無性に、彼女の紅い双眸が恋しかった。