第四十五話:「触らぬ神に祟りなし」
あれから数分、委員長さんと裕太の口論は続いた。そしてそれを止めたのは菊花の言葉。
「次は体育ですから早くした方がいいですよ?」
鶴の一声。その言葉を聞いた委員長さんは素早く女子を統率して更衣室へ向かい、喧しかった教室には虚しくなるまでの沈黙が訪れた。
「秋兄ちゃん。次、男子と女子はどっちも体育館だから、先に行っててよ」
「あ、うん……」
この立ち直りの早さは父さん譲り。そう確信した。
○○○
体育館の中に入ると、中に誰かいた。その後ろ姿には、見覚えがある。
……あー。なんか嫌な予感。
僕がまだ中学の時、とても個性的な体育教師がいたのだ。
超が付く程の自己中心的で、バカ。横暴な所行を繰り返してきたが――その人柄の所為か――何故か問題にはならない野郎。
嫌な予感で背筋が寒くなる。そして、その原因が振り向いた。
「おおう! 向坂ぁ! 早速だが勝負しようぜ!!」
「今日は授業参観だよ! バカか! バカだな! そう言えばバカだったな!」
熱血教師、白戸穂純。
そいつは視界に入った生徒に片っ端から勝負を申し込む事で有名だった。
佑樹やら圭司やら穂純やら。僕の周りにはバカばっかりだ。
「僕の周りにはこんなのしかいないのか!?」
思わず床に額を打ち付けたくなった。
「向坂! お前、見ない内にデカくなったなー! 中学ん時はこんくらいだったのによー!」
人差し指と親指を見せる穂純。昔の僕はそんなにミクロじゃない。
「じゃ、早速勝負しようぜ!」
「やらないよ!」
「何でだ?」
「何でって……。そりゃ、僕スリッパだし」
「安心しろ。お前が置いていったバッシュ(バスケットシューズ)はオレが大切に保管してある」
何で持ってるんだよ。気持ち悪いな。保管せずに捨ててくれよ。
唖然として僕が何も言えないのを知ってか知らずか、穂純は、じゃあ決まりだな、と言って立ち上がり、どこかへ行ってしまった。
そうして、無駄な争いをやる事になってしまった。
「うわ。マジでめんどくせぇ……」
誰もいない体育館で一人、ポツリと呟いた言葉は誰にも聞かれる事なく消えた。
○○○
「今日は授業参観だからそう時間は掛けられねぇ。五分だ。五分でケリつけようぜ」
「分かった。分かったから、さっさと始めようよ」
菊花と裕太、そのクラスメート達は体育館の隅っこで見学中。そちらに視線を向けると、どうやら裕太も穂純の洗礼を受けていたようで、同情の眼差しで見られた。
「向坂次兄先輩、死ぬ程萌えさせてくださーい!」
菊花の隣にいる女の子に変な名前で呼ばれる。言動がちょっと危ないのはスルーしよう。うん。触らぬ神に祟りなしってね。
「おい、西園寺! オレを応援しろ、オレを! 委員長、皆に穂純先生を応援するように言ってやってくれ!」
「嫌です! 冷子、もっとやっちゃいなさい!」
「イエッサー!」
哀れ穂純。信用も信頼も何も無い。
「……」
靴底を押し付け、床の感触を確かめる。柔軟運動もしっかりと。
「……よし」
覚悟は決まった。菊花と裕太の前で恥は掻きたくない。
――五分で、ケリをつけてやる。
「さあ、始めようか。ね?」
嫌みったらしくニッコリと笑顔を向けると、穂純も笑った。
「きゃあぁ! 向坂次兄先輩のレア笑顔が見れたー!」
……触らぬ神に祟りなしだよ。うん。
○○○
始まりを告げる笛の音が鳴ってから、どれくらい経ったか。残り時間、数十秒。
点差は二点。僕が負けている。勝算は少ない。
だけどチャンスはある。今、ボールを持っているのは僕だ。
「お姫様、どうする? このままだと、負けちまうぞ?」
「……ちょっと、黙れば?」
酸欠に近い状態で出す声は掠れていた。視線を流し、相手の隙を探す。
「お姫様、そろそろ諦めたらどうだ? あと二十秒しかないぞ」
――隙がないなら、作るまで。
「穂純。黙ってないと、――舌、噛むよ?」
「はっ?」
一瞬の隙。その隙に、潜り込む。
「あ――チィッ」
横を通り抜ける瞬間、悔しそうな舌打ちが耳に入った。それを聞き流して、そのままシュート。
――そして、試合終了の笛が鳴る。
「あんまりナメてると、痛い目見るよ? 穂純センセ?」
振り返って言うと、穂純は困ったように頭を掻いて笑った。
「向坂次兄先輩、色っぽい! 超萌えー! あたしにも笑いかけてくださーい!」
……触らない。僕は触らないぞ。