第四十二話:「絶望」
変化を要求するのなら、何か対価を払わなければならない。相手が変わるか、自分が変わるか。決めるのは、自分次第。
『……』
病室の隅で蹴られる男と蹴る少女を、私は冷めた目で見ていた。
『ちょっ、ごめん! ごめんなさい! 許してぇ!』
『誰が許すかあああ! おかしいと思ったのよ! 今の日本にはハラキリなんてものは無いのに、お前が“チトセは文化を重んじる人だから、ハラキリ、ツジギリ、キリステゴメンは覚悟した方がいい”とか言いやがって!』
『ちょっとした出来心なんだって! まさか信じるとは思わなかったんだよ!』
『死ねぇ!』
『おごぉっ!』
サミュエルは鳩尾を蹴られ、気絶した。……どうやらやっと終わったらしい。中々の凶暴性を持った少女だ。その少女がスタスタとこちらへ歩いてくる。
『チトセ・ヒノミヤ。怪我をさせてしまってごめんなさい』
今度は土下座ではなく、頭を下げるだけ。私は切腹も辻斬りも切り捨て御免も望んでいないので、後でサミュエルを殴る事にして、少女には、気にしていない、と言うように首を横に振った。すると少女はあからさまに安堵の息を吐き、笑顔を見せた。その太陽のような笑みに、私は何も言えなくなった。
『……どうして、私の名を?』
『アメリカでも、貴女は有名よ。“氷の妖精チトセ・ヒノミヤ”ってね。だって、突然彗星のように現れて、優勝トロフィー掻っ攫って行っちゃったもん。それからは負けなし二位なし全て一位。有名にならない方がおかしいわよ』
『……じゃあ、次の質問。……どうしてリンクへ?』
私の言葉に、少女がはにかむ。
『チトセ・ヒノミヤが滑ってるってサミュエルが言っていたから、つい、気になっちゃって……』
『……』
『そこで見た貴女の演技が凄く綺麗で、無意識の内に声に出していたわ。今までに色々な選手の滑りを見てきたけど、感動したのは貴女が初めて』
――ああ。
少女の無垢な笑みに、絶望する。
解ってしまった。私はこの少女の近くにいたら、壊れてしまうだろう。
日陰に咲く花は、日の光を浴びれない。それは現実で。紛れもない事実。―――私には、眩し過ぎる場所。私に、暖かくて、綺麗な居場所は相応しくない。
胸が痛む度に、その答えを思い知らされる。
――所詮、私は太陽の下に出る事を許されない。
『……私は、私の存在を忌まわしく思う』
自分でも驚く程、冷たい声。今の私の顔に、表情なんてものはない。凍った空気が、私を追い詰める。訳が解らない、と言ったような表情をする少女を無視し、話を続ける。
『……壁に激突した時、心の奥のどこかで、このまま死にたいと願った』
自分の手のひらを握って、開く。その動作を何回か繰り返す。
その場にいる人間全員が青ざめているのが解った。それもそうだ。私だって、傍観者であったら青ざめているだろう。
『……目を開けた時、残念だ、と思った』
誰かが息を呑む音が聞こえる。
『……死の好機を与えてくれたのは感謝しよう。自分の深層心理が解った。……だが、それ以外はない。……これ以上、私に、近付くな』
これは自虐だ。自分への戒めだ。これ以上は、危険。私が私で、なくなる。
『……皆、出て行ってくれ』
全ての拒絶は、結果的に何もならない。意味もない行為に、笑みが零れる。――ああ。なんて滑稽。なんて惨め。なんて哀れ。
『私は、穢れている』
無知な私は、理解していても続ける。
『……これ以上、私の世界に入ってくるな……』
私が私で在る為に。
『私は、一人でも生きて行ける』
――ごめんね。ママ、お仕事なの。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがもうすぐお買い物から帰ってくると思うから、待っててね。
――ごめん。パパは、お外に出ちゃいけないんだ。パパを狙う怖い人たちがいるからね。
一人は慣れている。一人なのは解っている。
『私なんて――』
――いなくなってしまえば、いいのに。
そう言葉にする前に、頬に衝撃が走った。
『……なに、言ってんのよ……っ!』
『……』
先程まで笑っていた少女は、泣いている。何故、少女は泣いているのだろう。本来なら、泣くのは私の方ではないのか。
痛いと言うより、熱い叩かれた頬。私は少女を何の感情も籠もっていない目で見た。
『忌まわしいって何よ! 死にたいって何よ! 一人でも生きて行けるって、なんなのよ……っ!!』
少女が、私の胸倉を掴む。リンクでの出来事が今、ここで再現されているようだ。ただ違うのは、配役だけ。
『何でそんな事言うのよ……!』
間近で見る少女の顔。碧い瞳には生気が溢れていて、爛々《らんらん》と輝いている。
『悲しい事、言わないでよ……』
少女は私の胸に顔を押し付け、声を上げて泣き出した。私には、何故少女が泣いているのか、解らなかった。