第四十一話:「道化」
――滑稽で、惨めな貴女。
道化はそう言って、私の手を取った。
――孤独で、可哀想な貴女。
道化はそう言って、私の手を引いた。
――哀れで、救いようのない貴女。
道化はそう言って、私の涙を拭った。
――不幸で、神に愛されている貴女。
道化はそう言って、私の頭を撫でた。
道化は言う。
――願いましょう、貴女の幸福を。
悲しむように。
――認めましょう、貴女の過去を。
哀れむように。
――祈りましょう、貴女の未来を。
請うように。
――叶えましょう、貴女の希望を。
笑うように。
――誓いましょう、貴女の成功を。
捧げるように。
――いつか貴女に、神の祝福が有らん事を。
慈しむように。
そう言って道化は、私の背中を押した。
「――ん」
目を開けると、まず一番に目に入ったのは白い天井。続いて、鼻につく消毒液の匂い。この独特な匂いを持つ所は、一つしかない。
――病院、か……。
あれから、どれくらい経ったのだろう。
感情に任せて少女を怒鳴ったものの、幾らか後味が悪い。あの少女は日本語を理解出来ないようだし、あちらにして見れば、突然、見知らぬ女に訳も解らず怒鳴られたようなものだ。助けに来ようとして何回も転んだのに、その結果、助けようとした相手に怒鳴られるなんて、どんな気持ちなんだろう。自分がやった事ながら、少しばかり少女に同情してしまう。
「……まだまだ未熟だな」
ふう、と溜め息混じりに吐いた言葉は、自分自身に向けたもの。あれしきの事で、感情を制御出来なかった自分を恥じる。全く情けない。
怒った事を、悪いとは思う。怒る前にまず、心配してくれた事に対して感謝の言葉を言っておくべきだった。それが人としての最低限のマナーだった。
「ああ……しまったな。――ん?」
過去の行いを悔いているその時、突然病室の扉が開く音が聞こえた。扉の方を見ると、そこには――あの少女の姿があった。
「……」
『……』
お互いが硬直し、数秒後に口を開いたのは――私だった。
「あ――」
あの時の、とそう言おうとした次の瞬間――
『ごめんなさいっ!』
――病室の白い床に、土下座をしている少女がいた。
「ええっ!?」
無表情・無感動の私が、驚愕に目を見開いて、大声を出しているのは仕方がない。この状況で驚かない方がどうかしてる。
「えっ、ちょっ、ええっ?」
『この身を持って償うわ! ハラキリ、ツジギリ、キリステゴメン、何でもする!』
「いや、その、あの」
その間違った知識は一体どこから来ているのか問いたい。
『私的には生かして貰う方向で、奴隷辺りをお願いしたいわ!』
「……意外とちゃっかりしてるんだな」
『ごめんなさい。日本語が解らないから、私には貴女が何を言っているのか理解出来ないわ』
「……理解してくれなくていい」
『なになに? ハラキリなんてとんでもない? 奴隷なんていらない?』
「……言ってない。……都合よく解釈するな」
『許してくれるの? わーいやったー』
土下座されたまま喜ばれても……。それよりもまず、土下座を止めて欲しい。とりあえず、土下座を止めさせるには何らかの方法で驚かせるのがいいだろう。
……ふむ。数秒考え、この少女に、適した驚かし方を思い付いた。
『……いまいち自信がないみたいで棒読みだな。……それでは、騙せる奴も騙せない。……一つ言っておくが、日本語と英語では発音や口の形が違うから、……君が都合よく解釈しているその言葉は、私の実際の発言とは全くと言っていい程……違っている』
英語でそう言ってやると、少女は土下座から正座に変えて、私を驚いたような目で見た。
正座も嫌だが、土下座よりはマシだ。
『え、英語出来るの!?』
『……1ヶ月しか勉強してないから、心許ない。……不徳の致す所があったら、遠慮なく言ってくれ』
『いやいやいや! 貴女、完璧に喋れてるから! 不徳なんて見当たらないくらいに!』
『……お世辞はいい。……私は無口だから無言が多いが、……気にしないでくれると有り難い』
『お世辞じゃないんだけど……』
少女が困ったように笑う。
そしてまた、突然扉が開く。
『チトセ、具合はどうだい?』
ヘラヘラ笑ったサミュエルの登場。
……。何と言い表せばいいのかこの感情。何か解らないが、凄いムカつく。
リンクがあんなに広かったのは、サミュエルの所為だ。絶対そうだ。
『……死ね、ヘボコーチ』
『な、何でっ!?』
『……お前はもう解雇だ。……これからはミヤビ財閥の後ろ盾もないと思え』
『僕には家族がいるんだよ!?』
『……案ずるな。リカとユウリとリエさんは、お前の年収より遥かに贅沢な暮らしを提供させて貰う。……直々に、私がな』
『チトセ、君はまだ未成年なんだよ? そんな君に、三人も養える訳――』
『……お前の年収なんて、私にとっては月収。……つまりは、端金なんだよ。……それに、お前より私の方が慕われている』
『ぐ、ぐはぁっ!』
胸を押さえて倒れるサミュエル。そしてその後ろから、バタバタと慌てたように入ってくる里香と由里と理恵さん。
『チトセが起きたって本当なの!?』
『チトセー! 大丈夫ー!? ユウリがナデナデしてあげるー!』
『チトセ、林檎好きだったかな?』
『うぎゃあああ!』
三人は、サミュエルを躊躇なく踏んで私の元へ走ってくる。この事から、サミュエルより私の方が慕われているのだと解るだろう。
『チトセ、怪我は平気?』
里香にそう問われて、やっと気付いた。
『……私、どこか怪我をしているのか?』
『ええ。骨折はしなかったけど、全身打撲で擦過傷だらけの右足首を捻挫よ』
『……そうか』
骨折ではなかっただけ有り難いと思うべきだろう。
『チトセ、2日も寝たままだったから、死んだのかと思っちゃったよー』
『……ユウリ、不吉な事を言うな。……それにしても、2日も寝てたのか……』
『そうよ。リカとユウリ、チトセは大丈夫か、チトセはまだ目を覚まさないのか、って煩かったんだから』
『……リエさん、すみません。……ご迷惑をお掛けしました』
『わっ、私は別に心配なんかしてないわ。ただ、まだ本を読んでもらってないから……』
『ユウリはチトセ、心配してたよー。リカちゃんも、ずっとチトセを心配してたー』
『ちょっ、ユウリ! 勝手な事言わないでよ!』
『だってホントだもん』
ギャーギャー言い争い始める二人。その元凶は私なのだが、止める気にはなれない。
――あの少女はどこに行ったんだろう。
部屋を見回し、少女に目をやると、少女は部屋の隅で肩を震わし、怒りのオーラを背中に携えていた。何故か金髪がうねって見えて、少女がメデューサに見えてしまう。
そして、怒れるメデューサの咆哮が、私たちの耳を貫く。
『わっ、私を無視するなぁぁぁぁっ!』
その悲痛な叫びは、病院中に響き渡った。
『み、みんな……僕を忘れないで……なんて言っても、無駄だよね……』
サミュエルの呟きは、誰の耳に届く事なく消えた。合掌。南無。