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第四十話:「世界」



 氷の上は、私だけの世界。この世界では私が主役。が為に、この世界はある? それは勿論、私だけの為に。


 うつむけていた顔を上げて、一歩を踏み出す。冷気を含む風が顔に当たり、不思議と心まで冷え切るのを感じた。


 何も考えないで。世界にいるのは私一人だから。

 何も映さないで。他人ほかは存在しないから。


「……ふぅ」


 軽く息を吐く。準備は整った。ただの千歳わたしが、日宮千歳になる。


「――ッ」


 力強く踏み出す。それだけで、景色は変わる。この景色は、私だけの、私のもの。この瞬間が、堪らなく好きだ。流れていく景色。静寂がとても心地よく、私を癒してくれる。


 しなやかに、軽やかにステップを繰り返す。透き通った白いこおりに、線が入る。そして、跳ぶ体勢に入ろうとした時、有るはずのない人の声が聞こえた。


『凄いわ!』


「えっ!?」


 気を逸らし、声がした方を向いたのが間違いだった。驚愕で体勢が崩れ、転倒してしまった。


「あっ!」


 久々に感じる、氷の硬い感触。痺れのような痛みが全身を襲う。顔は腕でかばったが――顔を傷付けると、父と母がうるさい。体を傷付けても煩いが――その代償が全身打撲。こんな事なら、顔を庇わずに、手を着いて衝撃を最小限にすれば良かったかもしれない。

氷はキチンと整備されているようで、滑る速度は緩まない。これでは人間カーリング状態だ。


「いっ……あっ!」


 緩まないスピード。全く今更だが、このリンクが広い事に気付く。サミュエルの奴、無駄に金を儲けてるから、リンクも無駄に広い。これだけ速いと、私がどんな速さで滑っていたかが解る。滑る速さと転倒した際の痛みは、常に比例している。次からは、速く滑る事に恐怖をともないそうだ。


 さて、先程からのんびりと悠長に語っているが、そろそろ本当にマズい。目は開けられないが、背中に壁が迫っている事が解ったからだ。本能的にそう感じ取った。

 この速度のまま激突したら、打撲では済まないだろう。最悪の場合、骨折でも済まなくなるかもしれない。それだけは避けたい。


「く……っ!」


 右足のかかと(エッジ)を氷に突き立てる。左足は摩擦の痛みで動かなくなっており、片足だけの滑り止めは心許こころもとない。


 壁が迫る。だが、衝突は防げなかった。



「うあっ!」


 背中に走る、重い痛み。余りの衝撃に呼吸が出来ない。


「かはっ」


 吐血の際に漏れるような一息が出る。血は出ていないが、それ相応の痛みはある。


「げほっごほっ」


 何度か咳き込み、目を開けると、視界は白い。エッジで削れた氷が巻き上がり、白い霧のようにもうもうとリンクを覆っていた。

 そして何故か、その白い霧の向こうから、人が転ぶ音と、鈴の鳴るような声の悲鳴が上がる。暫くぼうっとその悲鳴と音を聞いていると、白い霧を腕で払いながらこちらにやってくる少女が見えた。


 流れる金髪は氷の霧を浴びてしっとりと白磁はくじのような肌に張り付き、空の色をした碧眼は転んだ所為か少しだけ潤んでいた。


 一瞬、里香かと思ったが、すぐに違う事に気付いた。里香はハーフで、顔の造形は日本人に近い。だが目の前にいる少女は、完璧なまでに異国の顔立ち。どことなくサミュエルに似た、可愛らしい少女だ。


『いたた……』


 少女はそう呟きながら、首を回して辺りを見る。そして倒れている私を見付け、駆け寄ってきた。


『だ、大丈夫っ!?』


 慌ててそう問い掛けてきた少女の顔色は悪い。それ程までに、私の転び方は凄まじかったのだろう。だが、今の私には返事をする気力も体力もなかった。


『ちょ、ちょっと……?』


 少女の心配を無視し、ゆるゆると視線を下げる。


 白いワンピースからスラリと伸びた足は転んだ所為で赤くなっていて、低めのミュールは少しだけ濡れていた。瞬間、怒りが沸き上がってくる。


『ど、どうしたの?』


 少女は私の怒りに気付かず――私の無表情が最大の原因だろう――氷の上に膝を着いて私を気遣う。それでも怒りは治まる事はなかった。


「……私の」


 冷たく、それでいて熱を含んだ声。それが自分のだと気付くのに、暫く掛かった。


『え? 何? 日本語?』


 首を傾げる少女が、憎くて憎くて、仕方なかった。


「……っ!」


『きゃあっ!?』


 気力を振り絞って、少女の胸倉むなぐらを掴み、顔を近付ける。近距離で見た少女の頬は、寒いのか赤く染まっていた。


「私の世界に、入ってくるな……!」


 私だけの世界が壊れた。私だけの、私のもの。


「私の居場所を、取らないで……!」


 世界ここは私が存在する理由。それを奪われたら、私はどこへ行けば――?


「い……っ!」


 無理をし過ぎたようで、体を激痛が襲った。意識が朦朧もうろうとしてくる。気力も底をつき、胸倉を掴んでいる事も出来なくなった私は、必然的に氷上に倒れる。


 目を開けているのも疲れて、目を閉じた。氷の上は、熱くなった頭を冷やすに丁度いい。


『サ、サミュエルを呼んでくるわ! 待ってて!』


 殆ど聞き取れなくなった耳に届いた声。そしてすぐに聞こえてきた人が転ぶ音と悲鳴。それを最後まで聞く事は出来なかった。






 ――これが、私とリリーの出会いだった。




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