第三十七話:「向坂家と平民Aの初恋」
視線が痛い。その原因は、僕の右腕に掴まっている菊花。さっきのあの、『父さん、溺死寸前?』事件がトラウマになったみたいで、ちょっと足取りが危なかったので、僕の腕に掴まらせているのだ。そして僕と菊花の両脇を歩く母さんと汐姉。……うん、どう見ても、僕が三人を連れている、みたいな構図になってしまったのだ。
「秋お兄ちゃん」
「ん?」
菊花を見ると――まだ怖いのか――潤ませた瞳で、こう言った。
「もう少し、このままでいいですか?」
カハァ、と、吐血に似たような音がした。発信源、僕の心。
「菊花……そう言うことは、今後3年間、誰にも言わないでね」
「? はい、わかりました」
うん。菊花は物分りのいい子で助かる。しかし、兄としては、無自覚にあんなことが言えちゃう菊花が心配でしょうがない。
○○○
家族みんなで昼食をとろうと、水着のままで入れる店に入る。流石ミヤビ財閥。設備充実だなあ、と思いながら、店内にあるテレビが目に入った。
そこには――
『行けば楽しいウォーターパーク。今ならチケットが八割引で手に入る。この夏はウォーターパークで決まりだな』
―― 千歳がいた。
……。
「えっええええええ?」
な、何で? え、え、ええええ? って言うかこれ、CMだよね?
僕の視線の先に気付いたのか、母さんが、ああ、と納得したような顔をした。
「和真のとこの姪っ子じゃないか。そういやあ、CM撮ってたなあ、この前」
「ち、ちと……日宮千歳が?」
千歳と友達だって言うと混乱が起きそうだったから、慌てて言い直した。だけど、無意識な内に呼び捨てに慣れていたのか、フルネームが言いにくい。って言うか、千歳、ミヤビ財閥がスポンサーだったんだ。姪っ子とか初めて聞いた。
「あら、千歳じゃない」
隣から聞こえてきた声。え? と、横を見る。
「し、汐姉、知り合い?」
「ええ、そうよ。去年のミスコンでね」
「へ、へえ……」
何だこれ。向坂家と日宮家、結構関わってるけど。なんか、今さら仲がいいなんて、言えなくなちゃったよ。ごめん千歳。今は他人のフリをします。世界は狭い。
乾いた笑いを零す僕を、みんなは変な目で見てきた。
○○○
父さん、母さん、菊花、汐姉が、どこかへ遊びに行ってしまい、取り残された僕と裕太と善也兄。
男三人、ぽつんと立っているのはなんだか寂しい絵である。でもまあ、騒がしくないから僕はこのメンバー好き。
「……秋兄ちゃんはさ、好きな人、いんの?」
「んにゃあ?」
やば。気を抜きすぎて、変な声が出てしまった。裕太が引いてる。善也兄、フォロープリーズ。
「秋に好きな人が出来たら、汐と菊花と母さんが嫉妬しちゃうだろうなあ」
ははは、と爽やかに笑う善也兄の歯は白く輝いてた。……いやいやいや。兄さん、そこは笑うところじゃないし。しかも、何で母さんが入ってるわけ? って言うか、フォローしてないよね、それ。
「って言うか、鈍感な秋兄ちゃんに、好きな人なんているわけないか」
「裕太もそう思うかい?」
「なんで僕が好きな人いないって決め付けちゃってるんですか御兄弟」
「「えっ? いるの?」」
「え………いない――」
よくわからないけど、一瞬、千歳の顔がちらつく。それを疑問に思う時間もなく、気付けば口にしていた。
「――わかんない」
いない、とは言えないし、いる、とも言えない。だから、わかんない。そもそも恋ってなんだ。――なんて、中学生が言うようなことを思ってみた。でも、本当になんなんだろう。
「善也兄ちゃん、このことはおれたちだけの秘密だから」
「わかってるよ。絶対誰にも言わない」
思考に耽る僕の隣で、こんな会話がされていた。
○○○
中学生ってのは、色々と大人ぶりたくてしょうがないんだと思う。好きでもない彼女、好きでもない彼氏――いや、中には真剣に好きって人もいただろうけど――を作って、友達に自慢して、数ヶ月もしない内に別れる。僕が知る中での最短記録は半日。十二時間だけの恋人って言えば聞こえはいいけど、要は遊びだったってことだ。
悪ぶりたくて、タバコを吸ったり、お酒を飲んだり、先生に反抗したり。言っておくけど、菊花はその中に含まれない。あの子は純粋な酒好きだ。それもどうかと思うけど。
みんな、とにかく悪くなりたくて、しょうがない。一歩でも早く大人になりたくて、背伸びをしている。まあ、中学生みんながそうじゃないんだけど。
僕はそれが理解出来なくて、いつも不思議でしょうがなかった。
「向坂くんが、好きだよ」
そう僕に告げたのは、誰だったっけ。今はもう、名前も顔も思い出せない誰かがそう言った。
「優しい向坂くんが好き。人の為に泣ける向坂くんが好き。笑ってる向坂くんが好き」
随分、好き好きと軽く言う人だった。放課後、屋上に行くと、彼女はいつもそこにいた。
「時々、向坂くんを私だけのものにしたいなあ、って思うんだ。あんまり、他の女の子と喋らないで欲しい。他の女の子に優しくしないで欲しい。でも優しくない向坂くんは嫌。そんなの向坂くんじゃない」
独占欲が強くて、ワガママな人だった。僕と彼女は付き合ってさえいないのに。手を繋いだこともなければ、デートしたこともない。
「ねえ、向坂くん。わたしのこと、好き?」
上目遣いで聞いてくる彼女を悲しませたくはなくて、好きです、と嘘をついた。そう言うと、決まって必ず、
「嘘つき」
と彼女は言った。
「ねえ、向坂くん。今日、転んだ女の子を保健室まで連れてってあげたんでしょう?」
頬を膨らませながら言う彼女。僕はなんだかばつが悪くて、頬を掻いた。
まだ寒い、三月。凍えそうな空の下。いつもの屋上で、彼女は言った。
「向坂くん、わたしのこと、忘れないでね」
彼女の胸にある、紅い花が、別れの時を告げていた。僕は笑って言う。
――さようなら、先輩。またいつか、どこかで会えたらいいですね。
彼女とはそれっきり会ってない。
今思えば、あれが僕の初恋だったのかもしれない。でも確かめる術がなくて、よくわからない。
だけど、今でも心に残っている、彼女との会話。顔も名前も思い出せないけど、それだけは覚えている。
「これから先、もし向坂くんに好きな人が出来るとしたら、その人は、優しい人だよ」
僕は笑った。先輩は超能力者ですか、なんて冗談を言った。彼女はそんな僕を無視して、話を続けた。
「優しくて、強くて、だけど弱くて」
彼女の様子がおかしくて、僕は心配になった。
「向坂くんは、その子を、守ってあげたくて、しょうがなくなる」
ぽたり、と落ちる雫。僕はやっと、彼女が泣いていることに気付いた。
「だから、向坂くんが、私のことを好きになるなんて、有り得ないんだよねぇ……」
それから堰を切ったかのように泣きじゃくる彼女を、僕はどうすることも出来なくて、ただ隣に座って彼女の頭を撫でるだけだった。
―― 先輩。僕は貴女のことを忘れてしまったけど、今なら言えるよ。
僕は貴女のことが好きでした。それが恋と呼べるものだったのかはわからないけど、先輩のことが大切でした。
「優しくて、強くて、弱くて、守ってあげたくなる……」
呟いた言葉は、じんわりと僕の心に沁みてゆく。
「え? 秋兄ちゃん、何それ」
「どうかしたのかい? 秋」
心配そうに僕を見る二人に向かって、僕は笑ってこう言った。
「僕の好きな人は、優しくて、強くて、弱くて、守ってあげたくなる……そんな人だよ」
――そうでしょ? 先輩。