第三十六話:「向坂家と大滝にて」
家族全員で、やたらと注目を浴びながら歩く。
「おい、秋! お前、あそこに飛び込め!」
母さんがそう言って指したのは、『大滝』と言うプールで、上から水が落ちてくる、まさに滝のようなプールなのだ。
「嫌だよ! 死んじゃう!」
泳げないと言う訳では無いけど、上から落ちてくる水の重圧で水面に上がれなくなることは確実だ。だって、立て札にも『危険。注意して泳いでください』って書いてあるし。って言うか、それなら作るなよって話なんだけど。
「つまんねぇなぁ。――よし。ナナ、行け」
ガシッと父さんの腕を掴む母さん。
「えぇぇ!? ヒロさん、ちょっと待って! 手を離して! ちょっ―――」
「おらぁ! 行ってこい!」
「いやあああああ!」
投げ飛ばされた父さんは、まるで狙ったかのように滝プールの中心へ。
「がぼぼ! ぐばば!うぶぶぶぶ!?」
『飛び込まないでくださーい』
「ナナー! お前なら出来る! お前はハーレムラブコメのお約束体質『不死身』だろ!?」
お約束なのかは知らないが、確かに父さんの体は頑丈だ。
「大丈夫かしら……」
「汐、父さんは大丈夫だよ。きっと生きてるって」
いや、善也兄。きっとはマズイって。それ、多分ってことじゃん。
「お父さん……苦しそうです……」
「菊花、父さんは大丈夫だよ、絶対に」
裕太、なんでそんな自信満々なの?
すると誰かさんの大爆笑が聞こえて、そっちに視線をやる。
……あれ? よそ見してた隙に、父さんが見えなくなった。首を回して辺りを見回してみるけど、見当たらない。再びプールに目を戻すと――
ぷかり、と。
――父さんが浮いていた。
「……えええええええ!?」
びっくりして腰が抜けた! って言うか、父さん死んだ!
「よっ、善也っ、どうしよう! 父さん、死んじゃった!?」
「と、とりあえず、葬式しなきゃ!!」
「バカ! 違うでしょ! 救急車よ! 話が飛躍しすぎ! って言うか私、嫌よ!? 父さんがプールで溺れて死んだなんて、恥ずかしくて外歩けないわ!! マヌケすぎる!! 冗談じゃないわよ!! 断固拒否!!」
「おっお父さん……ふぇ……ひっく……」
「マジかよ……これからの生活どうすんだ……」
い、色々ツッコみたいけど、腰が抜けて力が出ない! って言うか、なんで母さんはまだ笑ってんの!?
そうして僕たち兄妹があたふたドタバタしている内に、父さんがこっちまで流れ着いてきていた。母さんは、その死体と化した父さんに近付く。そして、手馴れていますと言わんばかりに、父さんをプールサイドに引っ張り上げ、頬をペチペチと叩いた。
「か、母さん何やってんの?」
「ん? まあ、見てろ。今からナナが不死身なとこ見せてやるから」
そう言うと、父さんの頬を叩きながら、こちらがぞくりとするような低い声で、言い放った。
「ナナ――起きないと、和真、呼んじゃうぞ?」
それはそれは、楽しそうに。そして、
「ダメですっ! ぼくは許しません!」
ぴょん、とまるで体にバネがあるかのように跳んで立ち上がった死体、もとい父さん。
「ええええええ!?」
また腰抜けた! 治りかけてたのに!
「いやああああ!?」
「はあああああ!?」
「きゃああああ!?」
「うおおおおお!?」
誰が何を言ったかは、言わなくてもわかるだろう。汐姉、善也兄、菊花、裕太の順だ。
「いい!? ヒロさん! あんな男と二人でいるのはダメ!」
「はいはい。わかってるっつーの」
「ヒロさんは、絶対に渡さないからね!」
「へえへえ。私はナナの物ですよ」
「ヒロさんは物じゃないよ!」
「あーそーだなー」
呆然としている僕らをよそに、二人は言い争う。
「ほら、見ろよ。お前がさっさと上がってこないから、菊花が泣いちまったじゃねぇか」
おーよしよし、と菊花の頭を撫でる母さん。菊花は涙で濡れた瞳を目一杯に開いて、父さんを見ている。
「よっ、良かったです……お父さんまで、死んでしまうんじゃないかって思って……」
「菊花……お父さんの胸に飛び込んでおい――」
「私の菊花に触るな! っつうか、お前は誰にでも抱きつこうとするな!」
そう叫んだ母さんが、父さんに強烈な回し蹴りを一発ガツン。
「ぎゃふぅ!?」
「あ」
華奢な父さんは、そのまま―――大滝へ。
「ゲボガボゴボ!?」
『飛び込まないでくださーい』
監視員の声が、虚しく響く。
「もう……何もかもがめんどくさい……」
ツッコむことさえ拒否した僕だった。
○○○
『裕太の独白』
秋兄ちゃんは、おれの憧れだ。
秋兄ちゃんのように、自分より他人のことを考えられるようになりたい。そうしたら、みんな、おれが守ってやれると思うんだ。いつでも正しい善也兄ちゃん、プライドが高い汐姉ちゃん、どこまでも優しい秋兄ちゃん、脆そうで誰よりも強い菊花、がさつだけど意外と泣き虫な母さん、いつも母さんにベッタリな父さん。
おれが守りたいのは、それだけ。
ただそれだけが、おれの存在する意味。一年前のある日――そう秋兄ちゃんに言ったら、叱られてしまった。
『誰かを守る為の人生なんて、悲しいよ。裕太の人生なんだ。僕は裕太に、楽しく生きてもらいたいし、自分の人生を生きてもらいたい。でも、そこまで人を思える裕太は、凄いと思う』
――それは秋兄ちゃんだよ。そう言ったのだけど、秋兄ちゃんは笑って否定した。
『僕はそんな凄い人じゃないよ。みんなを守れるような力もない。平々凡々、人並み月並み。あの日宮千歳と比べたら、月とスッポン。ちっぽけな僕は、誰かを守れる力なんてない』
――その顔で、平凡なのか?
秋兄ちゃんは、いつも自分に自信がない。それに、あの日宮千歳と比べる方が間違ってると思う。
秋兄ちゃんは、何でそんなに自分を卑下するんだろう。おれの中学には、秋兄ちゃんを好きな子だっている。
何でも話を聞くと、登校中に自転車がパンクして困っていた所を、秋兄ちゃんに助けてもらったらしい。他の子にも聞くと、大体そんな感じ。自分の顔も名前も知らないはずなのに、プリントを持ってもらった、とか、転んだ時に絆創膏もらった、とか。
話を聞く限り、誰にでも優しくしてる。
秋兄ちゃんの恋人になる人は、きっと大変だ。でもその人も、秋兄ちゃんの優しさに惹かれたんなら、理解してくれると思う。
秋兄ちゃんの優しさは、秋兄ちゃんにとっては普通なことだってことを。
おれのクラスの委員長も秋兄ちゃんが好きなんじゃないかなぁ、多分。今年の学園祭は、大変だ。委員長が、張り切っちゃうだろうから。
秋兄ちゃんは、おれと菊花の中学校の学園祭、汐姉ちゃんと善也兄ちゃんの大学の学園祭には必ず来る。こう言うイベント事は欠かさない人だ。だから、今年は大変だ。
秋兄ちゃんを知らない一年生と二年生は、三年生の女子の浮かれっぷりに驚くだろう。それに、今回はおれと菊花の最後の学園祭と言うことで、善也兄ちゃんと汐姉ちゃんも来るだろうから、更に浮かれる。汐姉ちゃんと善也兄ちゃんは、おれの中学校では有名。
って言うか、この地域で、二人を知らない学生はいない。もう情報も流れているだろうから、今年の文化祭は人が集まってくるだろう。写真部の連中なんて、いまからフィルムを買い漁っている。
『向坂兄妹を全員見られるなんて、幸せっ! 菊花、裕太、学園祭は目一杯萌えさせてね!』
とは、おれのクラスの変態、西園寺冷子の言葉である。別名、ヒヤコ。美少女のクセに、萌え萌えうるさいから、困り者である。
話は変わるけど、中学生にとって、大学生は恋愛対象外。っておれは思ってる。
まあ、汐姉ちゃんは中学生なんか眼中にないだろうし、善也兄ちゃんは彼女がいるから興味なし。汐姉ちゃんを頑張って落とそうとしている奴が一杯いるけど、絶対無理だ。だって、汐姉ちゃんの好みのタイプは秋兄ちゃんだから。秋兄ちゃん以上にいい男なんて、中々いない。少なくとも、おれの学校には。
――中学生にとって、高校生は恋愛対象内。おれは、そう思っている。
だから、今年の学園祭は大変だ。
秋兄ちゃんは女顔で、男にも女にもモテる。
学園祭。そこは戦場となるだろう。
――秋兄ちゃんは、おれが守る。
そう胸に誓う。決戦は、九月だ。
「よし、後で菊花と相談しよう」
風呂場で呟いた言葉は、思ったより響いた。