第二十七話:「手を繋ぐ」
忘れていた。もう、すっかり。学校を出るまでは覚えていたのになあ。あは、あは、あはははは。
視線を千歳から逸らす。後ろめたい、もの凄く。
「……忘れていたのか?」
君は心理学でも学んでいるんですか。だが図星。そう、図星なのです。千歳の顔をチラッと見てすぐ戻した。……半眼だった。ううう……怖いよ。
「……はあー」
ううっ。溜め息つかれた……。呆れられたよ、確実に。
「まあ、いい。奢ってもらったから、許す」
「ありがとうございます……」
840円で許してもらえるなら、安いもんだ。ホッと安心の一息を吐き出し、千歳に笑って見せた。
「……まあ、あれだな。それは別にいいけど……」
千歳は眉を寄せて、困ったような顔をした。なんだかほのぼのとした空気が漂う僕と千歳の半径1メートル。
だけどやっぱり、邪魔者はいるもので――
「あれぇ? 日宮さん?」
鼻につく甘ったるい声が、横から聞こえた。彼女に声を掛ける人間がいた事に少し驚いて、声がした方向に振り向く。
そこには、他校の女生徒が、同じ制服を着た男女数人を連れて立っていた。その内の何人かは、千歳に携帯を向けて写メを撮っている。
「えー、何々? ありぃ、日宮千歳と知り合い?」
「うお! マジすげぇな、ありぃ! 日宮千歳と知り合いかよ!!」
「同中なんだぁ。ね? 日宮さん?」
ありぃ、と呼ばれたその女生徒の言葉が、僕の頭の中で反芻される。
同じ……中学? それって……!
ハッとして、彼女に視線を移す。
「……」
彼女は顔を少し俯かせて、下唇を噛んでいた。眉は辛そうに、歪んでいる。その苦汁を嘗めたかのような表情に、凍り付く。
千歳にこんな顔、して欲しくない――!
左手で鞄を持ち、肩に掛け、席を立つ。僕の突然の行動に、千歳は驚いたように顔を上げた。実は自分でも驚いてる。
「千歳、出よう」
「え……」
目を見開く千歳。僕はその様子に気付かぬ振りをして、千歳の手を取った。そのまま引っ張って歩こうとすると、誰かに右手を掴まれた。途端に、激痛が走る。
「いっ……!」
「ちょっと待ってよっ」
金切り声が、頭の中で響く。吐き気がしてくる。僕は痛みと吐き気で顔を歪められるのを何とか我慢し、ありぃと呼ばれた女生徒に笑顔を向けた。
「ごめんね。僕達、用事があるから」
「あ……」
何故か顔を赤くしたありぃさんは、僕の右手を掴んだ手を離した。
幾分か、マシになった痛み。だけど、やっぱり痛いものは痛い。やばい、泣きそう。僕って、こんなに涙腺弱かったかな……。
それじゃあ、とありぃさんに言いたくもない別れの言葉を口にし、僕は千歳を引っ張って店を出た――
○○○
足早に歩いて、辿り着いたのは川沿いの遊歩道。僕達は川と道を分ける柵に背中を預けて、空を見上げていた。
「なあ、秋……」
「ん? 何?」
僕は空を見上げたまま、千歳の呼び掛けに応えた。
「三人から聞いたのか? ……私の、事」
「うん」
「そう、か……」
そうだよ、と言って、視線を彼女に向けた。彼女は、僕の顔をジッと見ている。
「本当は、千歳から聞きたかったけどね」
ビクッと少し肩を揺らし、僕から視線を逸らす彼女。僕がまだ怒っていると思っているのか、少し勘違いをしてるみたいだ。
「でも、もういいんだ」
不安そうな彼女に、笑顔を向ける。きょとんとした顔を僕に見せる彼女。無防備な彼女の表情に、笑みが抑えられない。頬が緩みきってるだろうな、今の自分。
「どうして?」
驚きで少し口調が変わってる千歳に、僕は諭すような笑みを向ける。
「千歳を、信じてるから」
「……」
「僕は待てるから。千歳が、話したくなった時でいい。その時まで、待ってるから」
左手で、俯いてしまった千歳の頭を、菊花や汐姉にするように、優しく撫でる。左手は使いにくいなあ。ぎこちないや。
「さ、帰ろうか。あまり遅くなると、怒られちゃうからね」
「……て」
柵から背中を離して、歩き出す僕。
「待て!」
「うわあっ!?」
千歳に後ろから足払いをされた僕は、受け身もろくにとれず、コンクリートに尻餅を思い切りついた……かと思ったら、鞄が下敷きになっていた。それでも痛い事には変わりないよう……うう。
痛みに堪え、上を見上げると、そこには仁王立ちした千歳が。
えーと……僕、何か気に障る事言ったかな?
「……ありがとう」
「え?」
千歳は僕と目線を合わすように、膝を地面につけた。スッと彼女の手が僕の頬に触れる。なんだか、彼女と初めて会った時の逆バージョンみたいだ。
「千歳、どうしたの……?」
「不安だった。怖かった。私の過去を知れば、秋は去っていくかもしれない。私の事を嫌うかもしれない。それに、同情で、優しくされるのは嫌だった。――でも、違った。秋はいつでも、さっきも、今も優しかった」
彼女は、弱々しく笑う。
「ありがとう」
彼女の潤んだ瞳に、心拍数が上がるのを感じる。
「仲良くしてくれて、ありがとう」
笑う彼女から、目が離せなくなる。
「こんな私に、笑って見せてくれて、ありがとう」
彼女の目から、涙が溢れ出してきた。
「優しくしてくれて、ありがとう」
それでも彼女は、笑っている。
「待ってくれて、ありがとう」
泣きそうになるのは、何故だろう。
「ありのままの日宮千歳を受け入れてくれて、ありがとう」
千歳が泣いているのは、何でだろう。僕は何で、泣いているのだろう。胸が苦しくなるのは、何で――?
「ずっと、認めてほしかった。誰かに、見て欲しかった。私と言う人間が、存在していると言う事を。日宮千歳はここにいると」
千歳の悲痛な呟きが、僕の胸に刺さる。
「昔みたいには、泣けないけど、怒れないけど、――秋は、私の傍にいてくれる?」
ポス、と胸に彼女の額が当たる。頬に触れていた彼女の手は、いつの間にか、僕の手に重ねられていた。
「いる、いるよ。僕は、千歳の傍にいる」
彼女の頭を、優しく撫でる。
「――私、秋の傍にいてもいい?」
「いいに決まってる」
そう言って僕は、笑って見せた。そして、疑問が湧く。
僕は千歳を、どう思っているのだろう――と。
○○○
彼女と手を繋いで歩く。何だか自然とそうなっていた。
――告白じみた事を言い合ったけど、これからも、僕達の関係は変わらない。
まだ自分の気持ちが分からないから。彼女の事をどう思ってるのか――そう問われると、面と向かって、ハッキリ言う自信がないから。
だからまだ、今は友達のままでいたい。
まあ、もし僕が、彼女を好きだとしても、彼女が僕を好き、なんて事は有り得ないんだよなあ……。それだったら、友達のままが気楽だったりして。
そう考えていると、グイッと、左手が引っ張られる感覚。
「……? どうしたの、千歳?」
「言い忘れてた事がある」
首を傾げる僕。千歳は微かに笑う。
「いつも助けてくれて、ありがとう」
はにかむように笑う。
「ぶつかったのが、秋でよかった」
懐かしむように笑う。
「秋にぶつかったのが、私でよかった」
ああ――今更だけど、本当に、思う事がある。
彼女にぶつかったのが、僕でよかった。
僕にぶつかったのが彼女でよかった。
本当に、そう思ったんだ。
「私は、あまり笑えないけど、それでも秋は、この手を離さないでいてくれる?」
「……離さないよ」
にぃっ、と笑う。
「って言うか、笑っても笑わなくても、千歳は千歳でしょ?」
千歳は一瞬、驚いたように目を見開き、すぐに笑う。
「ああ、そうだな。……私は、私だ」
月明かりの下、手を繋いで歩く。
恋を知らない僕らは、少し疎いのかもしれない。手を繋ぐと言うのは、恋人同士がするもの。それを知らない僕達は、その重要さに気付いていない。
本気で他人を好きになるのを知らない僕らは、周りから見ればとても子供だと思う。
だけど、子供のままで良かった、と思うんだ。
紅い瞳を持った少女は、穢れなき真っ白な心を。
白い翼を持った少年は、何も知らない純粋な心を。
何色にも染まっていない僕らだから、理解し合える。知らない僕らだから、手を繋いでいける。
僕の一歩は、彼女より大きい。彼女の一歩は、僕より小さい。
歩幅を合わせて歩くのは大変だけど、彼女となら、苦じゃないって思える僕がいる。彼女となら、歩いて行けるって思う、僕がいる。
少し距離を開けて歩く。友達以上恋人未満な僕らには、この距離が丁度いい。
月明かりの下、手を繋いで歩く。僕には、この距離が、とても愛しくて、心地良いと感じたんだ――