第二十三話:「僕の嫌いな僕」
軽蔑、と言う言葉が耳に残る。
「何、それ」
自分でもビックリする程の、低い声が出た。
分かってる。千歳に苛立つのは、お門違いだってこと。頭では分かってるんだけど、止まらない。
「え……?」
「まだ付き合いの浅い僕は、千歳を軽蔑するかもしれない? だから、一ヶ月間だけ様子を見て、事実を伝えて、僕が千歳を軽蔑しないか試してたの? 僕が軽蔑したら、離れるつもりだった?」
一生懸命描いた絵を、下手くそ、と言われ、認められなかったかのような敗北感。それを今、僕は味わっている。
「ち、違う。私は――」
「まあ、それもそうだよね。僕なんて、何の取り柄もない凡人だし。それに、つい最近知り合っただけで、その前は他人だったんだ。千歳が信用できないってのも、頷けるけどさ」
それは、千歳には全く関係のない自嘲だった。
「違う。違うんだ、秋。私は――」
「違う? 一体何が?」
ハッ、と、鼻で笑う。これは嘲笑。余りにも、惨めでちっぽけな自分に贈る嘲笑。
「ああそうさ。僕は千歳のことを何一つ知らない。知らなかったんだよ。千歳に言われるまで、知らなかったんだよ!」
何をムキになってるんだ。落ち着け。冗談だよって、言うんだ。今なら辛うじて、戻れるから。
今なら、今なら。
「違う!!」
千歳が声を張り上げる。その声に引かれるように、逸らしていた視線を千歳に向けた。そして――
「あ……」
愕然とした。
僕の目に映ったのは、紅い瞳を潤ませて、僕を睨む彼女。その顔は、今にも泣きそうで。こんなに感情を表した彼女を見るのは初めてで。それは、僕を混乱させ、正気に戻すのに十分な威力を持っていた。
やってしまった。僕は、なんてことを。気付いても、今さら遅い。僕は、取り返しのつかないことをしてしまった。自分のエゴで、千歳に怒鳴るなんて最低だ。
「ごめん、千歳」
「――出て行ってくれ」
千歳は顔を俯かせ、掠れた声で僕に退室を命じる。
「でも――」
「出て行ってくれ、頼むから」
僕の手を掴み、引っ張る。僕はそれに促されるように立った。
「……ごめん」
そう言うしかない。千歳は何も言わずに僕の胸を押す。……仕方ない。帰ろう。
「ホントに、ごめん」
そう言い残し、千歳の家を出た後も、暫くは扉にもたれて佇んでいた。
「参ったなあ……なにやってんだよ、僕」
泣かせるつもりじゃなかったのに。泣き顔なんて、見たくなかったのに。少し乱暴に頭を掻いて、ズルズルと、扉にもたれたまま腰を降ろしていく。
「バカ野郎……」
結局、千歳の家の前から立ち去ったのは、一時間後だった。
○○○
ただいまも言わずに、足早に自室へ向かう。途中、汐姉に会った。汐姉は何かを言おうとしたけど、すぐに口を閉じて黙ってしまった。僕はその様子に何も言わずに階段を駆け上がる。背中に痛いほどの視線を浴びて。
コンコン。
自室の扉がノックされる。
「汐だけど、入ってもいい?」
いつもはノックなどしないのに。それほどまでに、今の僕の顔は酷いのか。
「どうぞ」
「ん……」
そろりそろり、と入ってくる汐姉を見て、苦笑した。だってまるで、怒られた子供のような顔をしてる。汐姉のこんな顔、見たことない。
その汐姉は、僕の顔を見ると、明白に溜め息をつき、僕の横に座った。
「愚痴聞いてもらおうと思ったんだけど、やっぱいいわ。だってあんた、相当酷い顔してるんだもの」
「そんなに酷い?」
「うん。何か今にも泣きそうって感じ。どうかした? お姉ちゃんに相談してみなさい」
こんな時だけ、お姉ちゃんの特権を持ち出すんだから……ずるいなぁ、もう。でも、それが汐姉なんだよね。
「友達を、怒らせちゃったんだ。僕がつまらない事でキレちゃってね。その友達は何にも悪くないのに、僕が勝手に怒った」
「……ほほう。そりゃまた、青春ね」
「真面目に聞いて。でね、その友達には、まだまだ秘密がありそうで、それで、僕だけが知らなくて、僕以外の友達が知ってて……えと、その、何て言うか、僕は――」
「嫉妬したのね」
嫉妬? え? これって、嫉妬なの? ………ええ?
「……嫉妬かどうかは分かんないけど、そんな感じなの、かな?」
「何で疑問系なのよ。って言うか、友情の嫉妬なんてあったんだ。知らなかったわ」
僕も知らないよ。
「……でさ、僕はどうしたらいいと思う?」
「知らないわよ。自分で考えなさい、愚弟。って言うか、あんたに出来る事なんて、ないでしょ」
即答。一刀両断だ。しかし、愚弟って酷くないか?
「そうね……でも、五つだけあるわ、あんたに出来る事」
そ、そうか。僕に出来る事が五つ……。……って、ちょっと待て。
「多っ! 今気付いたけど、五つだけとか多いよ! 普通そこは一つだけでしょ! だけの用途間違ってる!」
「これでも少ない方だわ。私だったら、二十はあるのよ?」
「それは多すぎだろ!」
「いい? 一つしか言わないから、よく聞きなさい」
「結局一つだけなんだ!」
そんな僕のツッコミを無視し、汐姉は人差し指を僕に突きつける。目は至って真剣。その様子に、僕も黙らざるを得ない。
「待ってあげなさい。ただ、それだけよ。分かった?」
汐姉の言葉が、頭の中で反芻される。待つ、か……。
「うん。分かった。ありがと、汐姉」
「ふふっ。いいわよ、今度、愚痴を聞いてくれたらね」
「うん。何時間でも付き合う」
「じゃあ、来週はどこかに奢りで連れてってくれるかな?」
「いいともー! ……ん? あれ? え?」
「はい決まりー!」
いえーい、と汐姉はベッドに飛び乗り、跳ねるわ飛ぶわの狂喜乱舞。しまいには、奢り奢り、と歌い出す。……この人、来年には成人なんだよな……。
「じゃ、私は下に行ってるわ!」
なんて事を言いながら、この自称・永遠の十七歳は、
「おやすみ。私の財布もとい、愛しき弟くん♪」
なんて事を言いながら、僕の頬に唇を当てて去って行った。
て言うか、財布て。愛しき弟くんて。何してんの、自称・永遠の十七歳……。
僕は両手で、汐姉の唇が触れた頬を呆然としながら押さえるのだった。
「と、取り敢えず、今日の事を壱に電話して相談しよう………」
ああ、電話って素晴らしい。メールじゃ伝わりにくい事が伝わるし、なんて言ったって、顔が赤いのがバレないのだから。