第十話:「黒い瞳の敵意」
何だか食欲が無く、三人には『千歳が来るまで待ってる』と言い訳して数分後。
千歳が食堂の入り口に現れた。どうやら三人も気付いたようで、琉が大声を上げて千歳を呼ぶ。
「千歳! こっちだ!」
千歳が振り向いた。自然と目が合う。何故だか、目が離せなかった。
だって。僕と目が合った瞬間、千歳は少し、目を細めて。微かに、笑ったのだから。
その瞬間、僕の心にあった霞は跡形も無く霧散していて、その代わりに、爽快感にも似た感覚を覚えていた。
千歳がこっちにやって来て、当然のように、僕の隣に座る。不思議と鼓動が速くなるのを感じて、落ち着かない気持ちになった。
だけど、僕の意に反して、額から冷や汗が出た。極めて不可解。何だコレは。
「秋、食べてないけど、どうかしたのか?」
「い、いや、千歳が来るまで待ってた」
千歳に感づかれないように笑って答える。だけどそれは、余りにも頼りなく、弱々しい笑みだったのだろう。
フッと千歳の手が、僕の頬に触れる。その手は、冷たかった。前、握った時も冷たかったけど、それよりも、ずっと。
告白場所は、屋外だったのかもしれない。季節は春。しかし今日は風が強く、肌寒い1日だと言う事を思い出した。
「秋、顔色が良くない。大丈夫か?」
僕を気遣う無表情の少女。その紅い瞳は心配そうに揺れていた。嬉しい、と言う気持ちと同時に、しっかりしなきゃ、と言う確かな思いが沸き上がってくる。
――心配、させたら駄目だ。手を自分の頬に引き寄せ、千歳の手に重ねた。ビクッと驚いたように手を動かす千歳。その反応が面白くて、僕は冷たい手をそっと握り、暖めるように、包み込む。
「? ……?」
「……ぷっ」
訳が分からない、と言ったような千歳の顔に、笑いが抑えきれない。だって、あの日宮千歳が、僕の一挙一動でこんなに狼狽えているんだから。
「秋ちゃん大胆ー」
「秋、悪い事は言わん。イチャつくなら場所を選べ」
「俺達は構わないけど、後が怖いよ? 例えばファンクラブとか親衛隊とか千歳のことが好きな男子生徒とか。……ある意味怖いよ?」
三人の声は無視。
「千歳こそ、手、冷たいよ。大丈夫?」
薄く微笑み、手を僕の頬からそっと剥がす。千歳の手は僕の手と繋がったままだ。
ふいに。そう、ふいに。
「――っ」
背筋の凍る感覚が襲う。その感覚の発生源を振り向いた。
そこは、食堂の出入り口。――男が、僕を睨んでいた。
強烈な敵意。圧倒的な視線。黒い瞳に映るのは、憎悪。今まで向けられた事のない感情に、身が竦む。
「……秋?」
「あ……ご、ごめん」
無意識に千歳の手を強く握っていたらしい。痛みからか、千歳が顔を歪めながら僕を見ていた。
「秋、本当に大丈夫か?」
「ああ、大丈夫……大丈夫だよ」
千歳に向かって言うのと、自分に言い聞かせるように。僕は、大丈夫を繰り返した。異変に三人も気付いたのか、気遣うような言葉を、壱が三人の代表者として僕にかける。
「秋ちゃん、マジで大丈夫? 顔が青いよ」
「ああ、大丈夫……」
僕を心配そうに見る琉が、何かに気付き、顔を向けた。そこは、食堂の出入り口。
「おい、アイツ、さっき千歳に告った奴だろ? 何かこっち睨んでるぜ」
琉の言葉に、環が反応した。
「千歳、そう言えば、今日は遅かったね食堂来るの。そんなに告白、長かった?」
「……あ、いや、断ったのだが、中々引き下がってくれなくてだな。屋上から出ようとしたら腕を掴まれたから投げた」
僕に気を取られていたのか、千歳がワンテンポ遅れて返事をする。
投げたって……可哀想に。同情はしないけど。
「ねぇ、琉……その人、もうどこか行った?」
怖くて振り向けない僕は、恐る恐る琉に聞く。琉は僕をチラリと見てから、どっか行ったぞ、と答えた。僕はその言葉に肩を落とし、安堵の息を吐く。それと同時に、硬直していた手から、スルリと千歳の手が抜けた。
「秋、どうかしたのか? 体調が悪いんなら保健室に――」
「いや、大丈夫だよ。ありがと、千歳」
まだ緊張感は抜けないものの、笑い返す僕を見て安心した千歳は、いつの間にか環が買ってきてくれた日替わり定食を食べ始めた。
「環、ありがとう」
「どういたしまして。早く食べなよ? 秋が待っててくれたんだから」
「ああ」
環にお礼を言う千歳を見ながら、考えていた。この事、言った方がいいのかな……。
「秋ちゃん、本当に、大丈夫?」
壱の確認するかのような口調に、少し戸惑う。けど僕は、必死に平生を装って、
「あ、ああ、大丈夫だよ」
そう答えるのが精一杯だった。僕を見る壱の目は、怪しく光っている。まるで僕が隠していることを、見つけ出そうとしているかのように。でも、まだ、何かが起こったワケじゃない。そう。まだ、何も起こっていないんだ。
この時、僕は自分が冷静な判断力を失っている事に、気付いていなかった。何かが起こってからでは、遅い。その誰もが思う事を、僕は、思わなかったんだ。
その判断に後悔するのを、この時、僕はまだ、知らない。