恐怖で縛る
掌で男の顔を打つ。男の意識が飛ばないよう、手加減はしていた。
両腕で上げて、男が頭部をガードする。
その瞬間、がら空きになった胴体に、拳を叩き込んだ。たまらず、男の体がくの字に曲がった。
腹を抱えたまま、男が前に倒れ込んだ。
倒れた時に額を擦り剥き、そこからの血が流れる。
両目は腫れ上がり、まだ止まらぬ鼻血と吐しゃ物で、上着が汚れていた。
「や……やめ……」
這いつくばったまま、男が言う。
多分『やめてくれ』と言いたかったのだろうが、最後まで言わさずに、後頭部をブーツで踏みつけ、顔面を地面にめり込ませた。
そのまま、抉る。
屈辱だろう。最後の力を振り絞って、反撃してくるはずだ。
一歩下がって待つ。
男が、ゆっくりと立ち上がった。
その手には、ナイフが握られていた。
こいつが、ナイフを隠し持っていることは、最初から分かっていた。
手強い相手には、ナイフをちらつかせることによって、この男は優位を保とうとしてきたのだろう。
そろそろ抜く頃合いだと思っていた。
だが、ナイフの使い方はなっていない。
私なら、ナイフを見せずに体ごとぶつかって刺す。
男は、ナイフを振り回すばかりで、刃物の使い方としては、ズブの素人だ。
私は、一歩踏み込んで間合いに入り、手刀で男のナイフを持つ手の急所を打った。
男が、ナイフを取り落とす。
一瞬手が痺れて、力が入らなかったはずだ。
私は、地面に落ちたナイフを蹴り飛ばした。
その隙に、男が地面に放り捨ててあるライフルに飛びつく。
銃弾はまだ支給されていないので、棍棒代わりに使うつもりだろう。
私は、男がライフルを構えるまで待ってやり、おもむろに間合いに踏み込む。
男は、喚きながら、横殴りにライフルをぶん回してきた。
上体を反らしてそれを躱し、男の不恰好に大きな鼻に拳を叩き込む。
そして、そのまま一歩深く踏み込んで、鳩尾に体重をかけた肘をめり込ませた。
このカウンター気味に入った肘の打撃で、大柄な男の体は宙に浮き、二メートルほど後方に飛ばされた。
男は、無様に尻もちをついた。
今度こそ、男の眼に『負け犬の怯え』が走った。
「立て」
この一方的な暴力が始まってから、ようやく発した私の言葉だった。
「い……いやだ!」
立ち上がれば、また殴られるとでも思っているのか、男が座ったまま後ずさる。
私は、足早に男に近付きながら、殺気を放った。
殺してしまおうか? と、本気で思ったのだ。
「ひぃ!」
殺気に打たれて、男が悲鳴を上げる。
股間がじわじわと濡れてゆく。男は、失禁していた。
私は、構わず男の髪を掴んで引きずる立たせ、掌で男の顔を殴りまわした。
「ここは、軍隊だ」
男が血反吐と一緒に白い物を吐きだす。歯が折れたようだった。
「一人の勝手な行動のせいで、ここにいる全員を危険に晒すことになる」
男は、泣いていた。
ふてぶてしく、自信満々で、時分だけは特別と思いあがっていた態度が、まるで嘘の様に。
規律など屁とも思わないということを態度で示し、自分が特別な存在であることをアピールしたかったのだろうが、今は叱られた子供のように、
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
と、泣きわめくばかりだった。
最初は、嫌われ者と余所者のエキシビジョンマッチでも見ているつもりだった、義勇兵たちも、この凄惨な光景に顔色をなくし、言葉を失っっていた。
何人かは、列を外れ、口を押えて物陰に走り、げぇげぇ吐いている。
私の行動の意図を読んでいるはずの商隊の隊長ベルズも、嫌悪感を隠すことが出来ず、あらぬ方向を見て私を視界から締め出していた。
鍛冶頭のボウモアとゴードリー王は、ぽかんと口を開けて、何か理解のできないものを見ているかのように、この光景を見ていた。
唯一、表情一つ変えずにこの惨劇を見ていた治安官のタラモアデューが、ゴードリー王に近付き、何かを耳打ちしていた。
私は、私の暴力を自分で止めることはできない。
悪役を演じているのだから。
私を止めるのは、ゴードリー王であるべきだ。
そうやって、信頼感を醸成する。
ゴードリー王は若い。国民から好かれているが、軽視される可能性もあるのだ。
タラモアデューは、そのあたりの呼吸を理解してくれているらしい。
ベルズといい、彼といい、ゴードリー王の周囲には優秀なスタッフが多い。
そろそろ止める頃合いだと、タラモアデューに囁かれて、我に返ったゴードリー王は、咳払いをして声が震えていないかを確かめ、
「ダーハ君、やりすぎだ」
と言った。
ボウモアが走り寄ってきて、振り上げた私の腕を掴み止める。
鼻がでかい不遜な男は一秒ほどその場に立っていたが、くたくたと魂が抜けたかのように、蹲った。
そして、前後に体をゆすりつつ
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
と、うわごとの様に繰り返している。
ショックが大きかったのだろう。一時的な退行現象を、男は起こしていた。
精神に深い傷を負ったのである。
心が折れた証拠だ。もうさっきまでの男ではなくなってしまった。
これからのずっと。
もちろん、兵士としても役に立たないだろう。
私は、わざと乱暴にボウモアの腕を振りほどき、その『ついで』といった風情で、男の顎の先を蹴った。
男の眼がくるりと白く反転する。
そして、気を失った。そうなるように、蹴ったのだ。
この一幕で、私が男に与えた最後の慈悲。
割り当てごとに集合した義勇兵たちに、もう私語はなかった。
男たちの楽しいキャンプという雰囲気も、完全に払拭された。
壇上で、今後の訓練を説明する私に向けられたのは、嫌悪と恐怖の感情。
それでいい。互いが互いの顔を知っている、こうした小さなコミュニティでは、どこかに『甘え』が出てくる。
極限にまで追い詰められても、持ち場を離れないような戦が要求される今、その甘えは致命的なことになりうるのだ。
「我々はここから出て、敵を迎撃する。ラルウは守りやすい地形だが、籠城策は援軍が来ることが前提になっている。我々には援軍などない。だから、我々は相手の進軍ルート上に伏兵となって奇襲をかけ、敵を殲滅することにした。他に、選択肢はない」
これは、義勇兵募集の際に説明した事柄である。
本来は、軍事機密に類する事柄なのだが、敵のブルーナン騎兵団は我々を侮りきっている。
わざわざ密偵を出すことなどすまい。
そして、情報統制を敷かなくても、この小さなコミュニティでは、敵に通じる者などいない。万が一いても、すぐにわかる。
これは、小さな集団であることの利点。意思統一が容易なのだ。
「我々は、職業軍人ではない。そして、今から訓練しても、熟練の兵士になれるわけではない。ならば、何をすべきか?」
私は、ここで言葉を切り、一名減った義勇兵を見回す。
誰も私と目線を合わせる者はいなかった。無理もない。
「相手の動きを想定し、それに対応する動きをひたすら反復して、体に覚え込む。これが、この訓練キャンプで行う事だ。これから、諸君らに行わせる事柄は、全て意味があると思って頂きたい。疑問も反論も受け付けない。ただひたすら、命じられた事を忠実に実行すること。以上だ」
訓練開始前の私のこの訓示は、反感を買っただけだろう。
だが、面と向かってサボタージュする気はないはずだ。そうでなければ、人身御供にされた、拳闘家くずれの鼻デカ男が哀れすぎる。
これから成すべきことは、各隊の隊長に伝えてある。
斜面上から街道を撃ち下ろすベルズ隊に求められるのは、部隊の退路を断ち、騎兵を足止めすること。
狙撃と、陣地に接近させない連続射撃が要求される。斜面や堀などに拠った銃陣は、騎兵に勝るという弟の戦術書の証明にもなる。
街道と河川の間の平地に忽然と現れ、迂回してくるだろう騎兵を食い止める役目のボウモア隊に求められるのは、新式の連発銃の特性を十分に生かした、分厚い連射。
精密な射撃より、規律正しい斉射による『面の射撃』が求められる。
常識では、銃兵は騎兵と平地で殴り合わない。
しかし弟は、連発銃があれば、間断ない銃撃で騎兵の突進が止められると考えていた。
『弾幕防御』と名付けられた戦法は、連発銃なくして発想できないものだった。
ボウモアは、世界で初めてその戦法を使うことになる。
作戦の要となる、小さな砦である山車櫓隊の役目は敵を引きつけること。
敵の攻撃が集中するはずなので、パニックにならないことが求められる。
それゆえ、指揮官がゴードリー王なのだ。
兵力差を考えると、白兵戦は避けたい。
接近を許さない『弾幕防御』と、他の二拠点をカバーする『遠距離狙撃』に加え、素早く山車櫓を砦に換装する作業の訓練と、万が一のための近接戦闘用の拳銃の訓練も必要だった。
おそらく、銃剣やナイフなどの訓練は無理だろう。これは、『人を殺す』という罪悪感が希薄になりがちな狙撃と違って、手に人を刺した感覚が残るのがキツい。
ラルウ市民には耐えられないだろう。
ならば、使い慣れている拳銃の方がマシだ。
まぁ、山車櫓が白兵戦になるほど追い詰められたら、負け戦なのだが……




