ラルウへの遥かな道
傍目には、二人が馳違って、一合、二合と撃ち合っただけに見えただろう。しかし、あと一瞬私がエペを弾くのが遅かったら胴を刺し貫かれていたし、毒蜂も私の横殴りの一刀を辛くも躱さなければ、肋骨の間に刀身が滑り込んでいたはずだ。
紙一重の攻防だった。毒蜂は、噂にたがわぬ手練れだった。
じりじりと彼我の距離を詰めてきた毒蜂が、一足一刀の間合いを出入りする。『一足一刀の間合い』とは、一歩踏み込んで剣を振るえば相手に届く距離のこと。
私が刀使いの定石通り、中段正眼に構えておらず、相手の刀身を『払う』『巻き落とす』といった刺突剣使いのテクニックが使えないので、牽制と幻惑を繰り返し、私の構えを崩そうとしているらしい。
私が非合法組織『ドルアーガ』を抜けることを決めた時から、毒蜂が刺客として送り込まれてくることは予測していた。
それゆえ、対・刺突剣の策も練ってきている。だが、刺突剣使いのなかでも、毒蜂は一流の腕利きだ。私の付け焼刃の策など、通用するのは一回のみ。
私は、私が何かを狙っているのを悟られないため、下段の構えを堅持したまま、ひたすら殺気を測っていた。
不意に、私の狙っていた好機が訪れたのは、三度毒蜂の攻撃を躱したあとだ。私は、わざと隙をみせるため、小石に躓いたように見せかけたのだが、それは決して上手な演技ではなかった。
しかし、長引く対峙に毒蜂は焦れていたのだろう。彼はその機に乗じようとしたのである。
毒蜂は、ダンサーがステップを刻むかのように、浅く半歩踏み込むと、その直後地面の上を飛ぶかのように大きく踏み込んで来たのである。
突きが来た。
エペの剣身が霞むほどの鋭い一撃。
ピュンと鋭い笛の様な空気を裂く音が聞こえる。
私は、その突きをギリギリまで引き付けておいて、その切先を潜るようにして回避する。
低い姿勢から、踏み込んで来た毒蜂の横をすり抜けざま、脇腹を斬り払う動きを見せたのだった。
毒蜂の反応は早い。
サイドステップをして私と距離を取りながら、素早くエペを引き戻して私の無防備な胴を突きに来たのだ。
私は、体を反転させて、毒蜂の方に向き直り、低くした姿勢を伸び上がるほど高く構え、天に突き差すが如く真っ直ぐ上にランリョウ刀を構えた。
わが流派では、これを『上段雷刀』という。どこに落ちるか分からない雷のように素早い斬撃という意味らしい。
私は狙っていった。
この一瞬。斜めの角度から、私の方に突きを放ってくる瞬間。
この一点。突き出してきた、エペの剣身の鍔元。
柔軟にして強靭なエペの剣身は、撓うことによって剣身を叩き折ろうとする破壊エネルギーを分散させえしまう。
だが、唯一鍔元だけは、その負荷を逃がすことが出来ないポイントなのだ。
突っ立ったような高い構えから、ズンと重心を下に落として、ランリョウ刀を叩き下ろす。喰いしばった私の歯の間から、鋭い吐気が漏れる。
私の狙い澄ました斬撃は、過たずエペの鍔元を捉えていた。
甲高い金属音とともに、エペの剣身が根本から折れ飛ぶ。
間髪入れず、私は肩で毒蜂に体当たりを喰らわせてよろめかせると、その間に返した刃を逆袈裟に斬り上げる。
肉と骨を断つ感触が、ランリョウ刀を通じて私の手に伝わる。
私は、返り血を避けて一歩後ろに下がり、ランリョウ刀の切先を、膝から崩れ落ちる毒蜂に向けて残心する。
『残心』とは、例え首を刎ねてもその首が転がってきて噛みついてくるかもしれず、勝負が決した後でも備えを怠らない心構えのことを言う。
毒蜂から流れる血が、地面にどす黒い血だまりになり、彼の体の痙攣が徐々に収まってゆく。
やがて、ため息の様な吐気が一つ。
毒蜂は、それきりピクリとも動かなくなった。
これで、私と非合法組織ドルアーガを繋ぐものがなくなった。
そして、これは同時に私が生まれ育ったナカラとの縁も切れたというとこでもある。
懐紙で、ランリョウ刀の刀身を丹念に拭う。血が付いたまま鞘に納めると、錆びが浮き、刀身を痛めるのだ。出来るだけきれいにして鞘に納めるのがランリョウ刀の手入れの基本だ。
放り捨てた鞘を拾う。鞘を下に向け、靴の上でトントン叩くのは、鞘の中に虫などが入ると、収刀した時に潰れ、その体液で刀身に錆びがういてしまうからだ。
儀式の様な一連の動きを終え、やっと鞘に刀を収める。今になって、細かく手が震えはじめた。緊張が解れたからだろう。それほど、際どい勝負だった。
「風鳴り!?」
そう気が付いた時には、私は大きく跳び下がっていた。
脇腹に灼熱の痛みが走る。
刺されたのだ。肌で殺気を感じ取っていなければ、正確に急所を抉られているところだった。
奇襲を受けてしまった。毒蜂一人と思いこんでいた私のミスだ。
気を抜いた一瞬を衝かれた。そして、刺される瞬間まで殺気に気が付かなかった。この人物もまた、腕のいい暗殺者だ。何者かと思ったのだが、覆面をしていて、目だけしか見えない。何人かは、ドルアーガの暗殺要員は知っているが、こうした殺しのスタイルの持ち主はしらない。
あるいは『毒蜂』とは、二人組だったのかも知れない。
奇襲者は、細かくエペを使いながら、鋭い突きを放ってくる。だが、この人物は、潜み隠れて不意を突くことに特化していたようで、剣技は毒蜂ほどではない。
相手が大きく踏み込んで来たのに合わせて、私も前に出る。半身になって、エペの切先を躱すと、手にしたランリョウ刀の柄頭を突き上げる。
相手の顎の骨が砕けるのがわかった。
覆面から覗く目が白目に反転するのが見えた。
糸の切れた操り人形の様に崩れかかる相手とは逆の方向に、腕を抱えて捻り上げた。肘関節が外れる乾いた音と、ミジミジと靭帯が切れる湿った音が聞こえる。
私は、この人物をその場に捨て置き、灌木につないだ馬に近づく。
血臭に脅える馬を宥めながら、脇腹の傷を見た。
咄嗟に相手の暗殺の突きを躱したので、まるで銃弾が擦過したような、浅く長い刺し傷だった、
肝臓を狙ったのだろう。そこを刺されれば、数呼吸で死ぬ。重要臓器を狙ったということは、毒は使っていない可能性は高い。毒を使っているなら、当てるのを優先させるはず。掠っただけで死ぬのだから。
強い蒸留酒とガーゼと軟膏と晒をサドルバックから取り出す。
蒸留酒で傷口を洗い、ガーゼに傷薬の軟膏をしみこませて傷口に当てる。そのうえで晒をきつく巻いた。圧迫止血という方法だが、単独の応急処置ではこの程度が限界である。
ジワリと晒に血が滲む。鞍に跨ろうとすると、鋭い痛みが脇腹に走った。
痛みは生きている証拠。
痛みを感じなくなった時の方が、危険だ。
―― 北へ ――
紺碧の天空にそびえる遥かなるラルウの山へ。
ただだた北へ。痛みを頭の隅に追いやるため、私はそれだけを念じていた。