ゴードリー・ブラスコー
「おかえりなさい、ベルズさん」
「お給料が貯まってますよ、引き取りに来てくださいね」
「今回の収支報告書、提出は三日以内ですよ。忘れないでくださいね」
かつて、劇場の歌姫が喝采を浴びながらしずしずと降りてきた階段をゆくベルズに、酔客をもてなしていたカウンターから次々と声がかかる。
彼はその一つ一つに、にこやかにそしてユーモアを交えながら答えていた。
若い女性ばかりの職場なので、つつましやかな笑い声が上がる。ベルズは個々の女性たちに人気があるようだった。
オーケストラ・ピットがあったと思しき、階段途中の踊り場を抜け、カーテンで隠された中二階の廊下に向かう。
ここは、かつて、歌姫や役者の控室だった場所だそうだ。
主役級の控室なので、大きくて、彼ら彼女らの自尊心を満足させる程度には豪華な造りだったらしい。
今は、単なる事務室に過ぎないが。
ベルズは三つある扉の真ん中をノックした。
そして返事を待たずに「失礼します」と声だけをかけ、ノブを回す。
部屋は十メートル四方ほどの広さがあった。
北側が窓になっていて、南側が扉のある壁。東西の壁には、天井に届くほどの大きなスライド式の書庫が作られていて、びっしりと書籍が収納されていた。
入り口の扉の脇には、小さなバーカウンターが作られていて、ミニキッチンの機能を果たしているらしかった。
壁には、大きなシャチの絵。荒れた海面から、空中に飛びあがったシャチの巨体が、躍動感たっぷりに描かれた絵だった。
窓際には、どっしりしたオークらしき素材の机。
その机の上には、書類が山積みにされている。
車輪のついた大きな掲示板が机の脇にあって、ラルウを中心とした地図が横幅二メートルもありそうな掲示板一杯に貼られていた。
さまざまな色をした付箋がその地図にピンでとめてあり、赤い糸で繋がった補足資料が、掲示板の余白に封筒に入れられてぶら下がっている。
私はここが書庫か倉庫だと思ったのだが、山積みの書類の陰から、ぬっと巨漢が顔を出したことで、ここがその人物の執務室なのだと分かった。
その人物はかなりの長身だった。おそらく百九十センチは優に超えているだろう。しかし、長身な者にありがちなヒョロリとした貧弱な印象はない。
分厚い胸。めくり上げたシャツの袖から覗く腕は松の根のようにゴツゴツと太く、まるで古代の闘神像を思わせるバランスのとれた偉丈夫だ。
「やあ、あなたが『軍師』殿か。私は、ゴードリィ・ブラスコー。ここの親玉さ」
バリトンのオペラ歌手のような声。聞く者に不快感を与えない、良く通る声だった。
まず、私が驚いたのは、圧倒的な肉体の迫力をもっているにもかかわらず、私に気配を感じさせなかったことだ。
肉体に自身を持っている人間は、無意識に威圧の気を放つ。
人間が凶暴な猿だった頃からの習性のようなもので、自分ではいかんともしがたい現象なのだが、闇試合で鍛えた私の感覚察知にひっかからないほど、彼は気配を感じさせなかったのだ。
武術や隠行術を極めれば、気配を消すことは可能だが、そういう感じでもない。
強いて言うなら『究極の自然体』を素で行うことが人物とでも言おうか。
顔つきは、決死で美男子ではない。むしろ無骨な顔つきと言えた。威圧を感じさせない自然体と相まって、どっしりと大地に根を張った巨木と向き合っているような、安心感を感じてしまう。
おそらく、意識してのことではなかろう。
生まれ持っての才能だ。
『あたかも危険な獣がうずくまっているかのような』と、言われた私とは正反対の才能である。
私はナカラの作法に基づき、手挟んだランリョウ刀を背中に回し、片膝をつこうと身をかがめた。
小国とはいえ、相手は国王である。
「いやいやいや、ここでは堅苦しい事はなし」
若き王はそういって、私に手を差し伸べてきた。
私には、相手に利き腕を預ける『握手』の習慣はない。
相手の握力が強ければ、一瞬で指骨を砕かれてしまうかも知れないし、徒手戦闘が得意な相手なら、関節を極められて自由を奪われるかも知れない。指輪に毒針を仕込んだ暗殺者かも知れないからだ。
しかし、私は無意識に若き王ゴードリー・ブラスコーの大きな手を握ってしまっていた。
筋力自慢がやるような、力比べは無し。
王族らしからぬゴツゴツした肉体労働者風の掌の感触を残して、通過儀礼はあっさりと終わった。
用心棒時代の私の事を知っている者がいて、今の場面を目撃したならば、かなり驚く光景だろう。なによりも、私が私自身に驚いている。
まぁ、今後は『握手』と言う習慣にも慣れておく必要があるだろう。もう、私は一瞬の気の緩みで落命する、非合法組織の用心棒ではないのだから。




