前編
共通プロローグ企画参加作品となります。
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
・・・・・・・・・・
「ありがとうございました!」
今日最後の客に頭を下げ、店のベルをからんと鳴らしながら店内に戻る。
既に金額計算に入っていた店主のハーリーンが顔を上げた。チョコレート色の健康的な肌に真っ白な髪。ダークグリーンのつり目がちの印象的な瞳がこちらに笑んだ。
「ご苦労様リサ。ちょっと早いけど今日はもう上がりにしましょ。品物が無いんじゃどうにもならないものね」
「また随分と沢山売れましたね。でも日陰トカゲの燻製ばっかり大量に売れるのは何かの呪いですか?」
ハーリーンが経営するこの店は乾物屋だ。しかもトカゲ肉専門の。何故かこの地方は世界各地のトカゲが集まる不思議地帯らしく、トカゲ肉専門店だけでも数店が軒を連ねている。
トカゲにも種類があって、一番人気は日照りトカゲ、二番目は雨やりトカゲ。ここからずらずら~とトカゲのオンパレードが続き、見事アンカー突っ走りなのが日陰トカゲだったりする。いつもは在庫として肩身狭く、ひっそりと積まれているだけの日陰トカゲ。だと言うのに今日に限って売れる、売れる!
何なんだろう、トカゲ記念日? いや、日陰記念日?
「何言ってるの、御山に初冠雪の知らせが入ったからに決まってるじゃない……て、ああ。この風習もリサは覚えてないのねー」
「はぁ」
彼女がすまなそうな顔をするので、曖昧に笑って返事をする。他にどうすればいいのかなんて分からないから。
――私には一年より以前の記憶が無い。
一年近く前、御山ジリエの忘れの森で倒れていた所を救助された。
見つけ出してくれたのはルフトこと、ロー・ルグルフト。言葉すら失った私にリサという名前まで付けてくれた。
昔々、この地域一帯は年中雪に覆われ人の住める場所ではなかった。
そこにジリエ・ミュラとジリエ・リサシュという夫婦神が舞い降りた。
春夏秋冬が出来上がり冬期の雪深さは相変わらずだけれど、沢山の恵みが降り注ぎ人々が暮らし始めた。
神の降り立った山は色々な物を引き寄せる。
ある時豊かな土地に目を付けた強欲な男が山を我が物にしようとした。でも彼の心は一晩の吹雪で洗い清められ、後には別人のようにまっさらな心根の男が残った。
ある日邪な魔女が貴重な薬草を取ろうと山に踏み入った。途端に一晩で雪が降り積もり、彼女の知識をその降りしきる重みで潰し消したという。
いつの頃からか御山ジリエの裾野に広がる森は<忘れの森>と呼ばれ、森に降る雪は全ての記憶を白く覆い尽くすと言い伝えられるようになった。
そもそも神の存在自体が眉唾な伝説だけど、ここに生き証人が居るのだから『忘れの森』もあながち全てが作り話でもないのかもしれない。
私は長いこと雪に晒されたせいなのか言語さえ忘れ、今は魔法具の腕輪に頼る始末。もちろん自分の素性なんて覚えていないし、常識であるはずの火の熾し方も獣の捌き方も忘れてしまっていた。
何より残念なのは、獣の本性を失ったこと。
人はみんな二つの姿を持って生まれてくる。人としての姿と、完全な獣としての姿。
ハーリーンなら雪豹。真っ白な毛並みに淡い斑点が散る様は見惚れてしまうほど綺麗だ。
ルフトは雪狼。人の姿の時は灰色の髪にアイスブルーの瞳をした大柄な種族。獣化すると光り輝く銀の毛並の、狼種の中で最も大きな種族になる。確かに獣化すると頭を丸かじりしそうに大きい。
私だってハーリーンのようにしなやかに木から飛び下りてみたい。ルフトのように力強く大地を蹴りあげ、森を巧みに駆け抜けたい。記憶と共に獣の性を失った私は、自らが草食獣なのか肉食獣なのかも分からず、勘や身体能力、嗅覚だっていまいちだ。
「ほらほら! リサ達の分。ルフトに見せれば意味も教えてくれるわよ」
気分を切り替えるように明るい声を出したハーリーンに、問答無用で布袋を押し付けられた。「むふふ」という鼻息の荒い含み笑いが本気で怖いのでやめて頂きたい。
「こんなに……」
袋いっぱいの日陰トカゲに頬が引きつる。想像してもらいたい。袋にギッチギチのトカゲ……。どの客もこんな大物買ってなかったよね、ハーリーン!? 残しとかないで売ろうよ、こんなに要らないから!
流石にここに勤め始めて半年。各種トカゲにも慣れてきたし、生きてないのだからその触り心地もまあ皮衣と遜色ないよねー、くらいには図太くなった。
しかし! この店は乾物屋、トカゲはすべからく食用なのだ。
つまり袋いっぱい平らげろと仰るわけですね、ハーリーン姐さん。しかも尻尾まで入れるとちょっとした抱き枕くらいの大きさのそれは、すでに可愛いと言えるサイズからは外れている。育ち過ぎ!
「あらあらなぁに。相変わらず料理するのは苦手なの? まあでも、ルフトなら大喜びでリサに代わって料理してくれるでしょうね。だって……ぐふふ」
「問題はそこじゃない! ハーリーン……口押さえても鼻息で台無し。そりゃあ、料理も火熾しもルフトの方がはるかに上手いですけどね」
ぐふぐふ言うハーリーンに別れを告げ、私は燻製と呼ぶにはリアリティ残しまくりな日陰トカゲ入り袋を覚悟を決めて持つ。抱っこするように抱えてフラフラしながら店を出た。袋には入ってるけど、顔がみんな外にこんにちはしてるんだよっ。くそう!
トカゲのつぶらな瞳……があったらしき両目の空洞を意識しないように、顔を逸らしてジリエを眺めると、今日も空の青と山の木々の色合いが美しい。
雪が降れば一気に葉が落ちて、途端に白く染まるのだろう。山から吹き下ろす風は乾燥していて肌に痛い筈なのに、頬をそっと撫ぜてくれる優しさを含んだ風に感じるから不思議。
きっと私の名前がこの山の女性神、リサシュから取られてるからかもしれない。不思議と山に親近感を抱いてしまう。
……まあこの地域では数十人に一人はいる定番の名前ですがね!
いつもは店番が終わる頃にルフトが迎えに来てくれるけれど、こちらから迎えに行ったらどんな顔をするだろう。職場である兵士の詰所は、町の中で山から一番近い場所にあるから、山を目指すように大通りを進む。
御山ジリエの麓にあるこの町で、雪解けの間は兵士達に剣の稽古を付けるのがルフトの仕事。彼は雪狼の優秀な戦士だ。
そして雪が降り始めると、ジリエの中で最も危険な忘れの森を見廻るのが彼の仕事になる。
だからこそ、ルフトは私を見つけてくれた。
雪解けから町に降りられるようになって早半年、随分知り合いも増えた。
顔なじみにちょいちょい声を掛けられながら大通りを歩く。
何故かみんな日陰トカゲをひいひい言いながら持つ私を、微笑ましいものでも見る様な顔で見てくる。重いんだよっ! こんなに要んないよっ。
そもそも私トカゲ料理好きじゃないから。仕事と嗜好は別だからっ!
道行く知人にお裾分けを試みるも、何故かにやにや顔で遠慮されて五連敗くらいで諦めました。日陰トカゲの意味、嫌な予感しかしない。役人に見つかったら速攻で牢屋コースとかのヤバい物だったらどうしよう!?
いや流石にそれは……と言い切れないのがハーリーンの怖い所です。スタイル抜群、妖艶な流し目、そして三人の子持ちのハーリーンは悪戯大好き小悪魔姐さんだ。人里離れた山小屋で、ひたすら燻製と乾物作りに精を出す鹿獣人の旦那様とは常に仲良しだけど。豹と鹿で大丈夫? とか当初は思ったけれど、そういう事ではないらしい。
でもたまーに噛みつきたくなって、それも二人の関係だなんて言われたら、土下座で逃げるしかないじゃないですか。
ガチの肉食系女子怖っ!
胸元でトカゲを隠そうと無駄な抵抗をしながら詰所を目指して道を進む。まだまだ夕刻と呼ぶには早い時間帯、市も並ぶこの道は夕飯の買い出し客で賑わってる。今日は買い物はしない。もちろん両手がトカゲで塞がってるからだ。
日陰トカゲ(五匹)をよいしょと抱え直し顔を上げた所で、思わず変な声が出た。
「ぐおっ」
「相変わらず鼻も利かない駄目っぷりだねリサ。こ~んなに近づかれて気付かないなんて! それに何、ぐおって。もう少し可愛い声出せないの?」
腕を組み顎を上げる様にして、しかめっ面を作っているのは雪狼のジェダだ。
私よりほんの少しだけ高い位置の瞳は、零れ落ちそうなほど大きい。卵のようにつるんとした肌はニキビの一つもないぴかぴかだ。残念だねー女の子だったらモテモテだったのにねーって、皆が頷いちゃうくらいに美人さんな十五歳(男)。
何故こんなに事細かに観察しているかというと、鼻先が付きそうな近くに立っているからです。
相変わらず人との距離の近い子だ。
「いや、近すぎてびっくりしたんだよ。その口の悪さ、毎回ブレてなくて良いと思うよジェダ」
「何で嬉しそうに親指立ててるの。気持ち悪いよ」
そう言いながらもジェダは、私から日陰トカゲ(五匹乱れ咲き状態)をひったくるように受け取り並んで歩きだす。……うん、小言が煩いけど行動は良い子だ。本当は髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜてかまってやりたいけど、やるとすごく冷たい目をされると思うので控えてる。こんな感じのやり取りを、昔誰かとしたことがある気がする。
いつも記憶の尻尾は上手く掴めずに逃げていくのだけれど。
――もしかして記憶を失う前の私には、弟が居たんじゃないかって思ってる。
「はあー、前で抱えてたから結構肩が凝ったわ」
ぐりぐりと自分の肩を揉んでいると、「ばばくさっ」と小さな声で言ったジェダがいつもの話を始めた。
「いい加減ルフトに迷惑かけるのやめてうちの村に来ればいいのに。こんな荷物も軽々持てないリサみたいなのが側に居たら、ルフトが大変でしょ。あの小屋だって本当は忘れの森を守る選ばれた番しか住んじゃいけない場所なんだよ」
私はその小屋に救助当初からちゃっかり居候させて貰ってる。
「それにルフトはメリーチェお姉ちゃんと番になるべきだしー?」
「そうだよ! この辺りの雪狼の女で一番強いのは姉貴なんだから。弱っちい内なる者のリサなんて、全然人気無いんだからさぁ。住む所が心配なら、と、特別に僕の家で引き取ってあげてもいいし……」
早口で捲し立て、若干頬を染めながら語る姿は可愛らしい。相変わらずのシスコンっぷりもブレてなくて、それでこそジェダだ。
彼等は町の近くに雪狼の群れで集落を形成して暮らしている。リーダーはジェダ達姉弟の父親。赴任してきた当初から一匹狼のルフトを群れに招き入れたいと思っているみたい。ルフトは御山ジリエの見廻りを任される程の実力者だから。
群れで一番強いペアが番うのが狼種の常識。ところがどっこい記憶の無い私が傍に居るせいで、彼らは焦れているらしい。この辺りでは敵無しのルフトにがっちり保護されているから、私に対して直接声をかけては来ないけど、伴侶でもない子供でもない存在に戸惑っている。
だから私に直接近づいて文句を言うのも交流するのも、雪狼ではジェダくらい。
「それに森で一人の時に何かあったらどうするのさ」
「それは俺の匂い付けがまだまだ足りないって意味?」
後ろから声を掛けられ吃驚して振り返る。
「ルフト!」
「ルフトっ!?」
私とジェダの声が見事に重なった。
そこには私の大好きな人が立っていた。
雪狼の特徴である灰色の髪は短めに切られ、後ろへ撫でつける様にして流されてる。瞳は虹彩まではっきり見えるくらいの透き通ったアイスブルー。彫りの深さで窪んで見えるから一見すると怖そうな印象だけど、どこまでも穏やかな瞳。顔に走る細かな傷と日に焼けた肌は戦士の証し。
そんなルフトが無防備に笑いかけるのは特別な事なんだって、私は最近になって漸く気付いた。いつもみんなに愛想がいいから違いが分かってなかった。
今日もルフトは私にだけ無防備な笑顔を見せる。
「お疲れ様ルフト。今日は私が迎えに行って吃驚させようと思ったのに。どこに行ってたの?」
「お疲れ。山の冠雪具合を役所に報告だ。そのまま迎えに行ったらもう店を出たって聞いたから」
「だから詰所じゃなくて、街の方からだったんだね」
「うん。流石に初冠雪の噂が広まるのは早いなあ。日陰トカゲも良く売れただろ」
「そうそう! だから今日は早上がりだったの。ずっと気になってたんだけど、初冠雪に日陰トカゲが売れるのってどうして?」
「んージェダがちょっと可哀相だから、あとで教えてあげる」
意味深な答えと笑いを一つ寄越して、ルフトはジェダが持ってくれていた日陰トカゲをひょいと肩に担いだ。肩にトカゲを担いでも絵になるってすごい。でも後ろから見ると肩口にトカゲが五匹こんにちは……これは回り込んで見てみないとっ!
私がルフトの背中に回り込んでその姿に噴き出してる間に、ジェダはルフトを睨んで、無意識なのか喉から唸り声を上げている。燻製のトカゲみたいにピンと身体を固くして、今にも飛び掛かりそう。
私にはルフト尊敬オーラを出してくるくせに、ジェダはルフトに対面するといつもこうやって突っかかる。聞いたところによると、成長期の狼種は自分より強いものに挑もうとするのが普通らしい。だからなのかルフトの方は慣れたもので、ちょっと片眉を上げる程度の反応だ。
「……風上じゃなかったら絶対気付いてたっ」
ジェダが拗ねたように言う。それに対してルフトは「ああそうだな」と苦笑いで答えてる。
でも二人ともボールの取り合いみたいにトカゲで攻防戦を繰り広げてます。うん、何で? 頭一つ分は背の高いルフトが両手にトカゲを持って掲げると、私と変わらない身長のジェダは歯が立たない。ぴょこぴょこ飛び跳ねる様に奪おうとしてる姿は、狼というより猫の子。本人に言ったら絶交されそうで言わないけどね。
「日陰トカゲ、そんなに欲しいならお裾分けするよ?」
「やる訳ないだろ」と、真顔のルフト。
「いらないよっ!!」何故か涙目のジェダ。
あの、貰ったの私なんですけどね? ますます日陰トカゲの意味を知るのが怖い。
・・・・・・・・・・
内なる者。
それは獣の本性を様々な理由によって外側に出すことが出来なくなってしまった者への呼び名。ある者は生まれた時から。ある者は大怪我を負って。そしてある者は記憶を失くして。
私は記憶を失くしただけ? それとも――。
「リサ?」
「んー……何でもない。匂い付け終わった?」
「もうちょっと」
獣化したルフトに鼻と身体を擦り付けられながら、ぼんやり考え事をしてた。緊張感が無いとか言わないで欲しい。だって毎日の事だし、歯磨きと同じくらい必要な事なんです。
獣化した時特有の光輝く銀色の毛並みは、既に冬毛に生え換わっている。表面は硬く艶やかな長めの毛が覆い、皮膚に近い辺りは白くてふんわりとした、熱を溜め込む柔らかな細く短い毛がみっしりと生えている。
ルフトの匂いがする私には、獣も人も不用意には近づかない。
例外はチキンレースでもしてるように近づこうとするジェダくらいのもの。
お返しにルフトの眉間辺りから頭、首にかけての筋を指の腹で揉むようにする。最後に首の皮をギュッと引っ張るように揉み解すと、びよんと口元の皮が引っ張られて牙と歯茎が見える。怖いのに可愛い。
ルフトは気持ちよさそうに鼻を鳴らした。今日のマッサージはお気に召したみたいで何よりです。
「最近は匂い付けが周到だね」
「雪は匂いも消すから」
「ああ……そっか」
もうすぐ一年。
ルフトが私を見つけた冬がやってくる。
忘れの森なんて恐ろしい場所、離れたがるのが普通だという。ましてその森で記憶を失ったなら尚更。
でも私は何故だかここから離れちゃいけない気がしてたし、ルフトも思い出すまで森から一番近いこの家に居て良いって言ってくれた。流石にずっとは申し訳ないので、一年間期間をくださいとお願いをした。
その期限がやってくる。
何も思い出せない私は、身の振り方を考えなきゃいけない。
いつだってルフトは側に居てくれた。
雪深い冬真っ盛りの中、弱った私を毎日看病し獲物を取って来てくれた。私は雪解けまで、殆どルフトの家から出なくても済んでしまったくらいだ。
高価な翻訳の魔法具まで用意してくれたし、働きたいという私の我儘にもハーリーンと話を付けてくれた。狼種と豹種はあんまり仲が良くなくて、交流なんてない筈なのに。
言葉も風習も獣の性さえ思い出せない私に、根気強く付き合ってくれた。
優しくて強い人。
私が惹かれ絆されるのも、刷り込みなんかじゃない。
人としても、獣としての実力も、雪狼の群れを率いるのに申し分ない人。
だからこそ思う。
――中途半端な私がこのまま側に居て良いはずない。