雨見礼子
「……何しに来たんですか、紫堂さん?」
「ん? 見て分からないか?」
分かるはずが無い、と雨見礼子は思った。
平日深夜、自宅でもう寝ようかと思っていたら、ずぶ濡れの少年を抱えた同僚が転がり込んで来た、なんて、いかに雨見の職場が少し特殊といっても、そうそうある事態ではない。
「いやなに、そう大したことじゃない。少し仕事を頼まれてほしいだけだ」
少年をフローリングの床に放り投げ、自身は無遠慮にソファーに腰掛けた同僚、紫堂のあまりにも非常識な発言に、思わず雨見は天井を仰いだ。
「…………紫堂さん、これ、ホントに言わなきゃいけないか疑問というか、絶対分かってはいる事だと思いますが言わせてください――それ、明日じゃだめですか?」
「ああ、駄目だ。早急に、というよりむしろ今じゃなきゃいけない。人がほとんどいない時間じゃないとな」
軽い調子で放たれた紫堂の言葉に雨見は眉をひそめる。
鮮やかな金髪にサングラス。ホストのような、と良く形容される派手なシャツとジャケットを着こなす、ホストというには人の扱いが雑な男、紫堂光雲。
しかし……その外見以上に警戒を抱かせる響きが、今のセリフには含まれていた。
「……私に何を、させるつもりですか?」
「文書偽造、いや文書というよりはデータか。具体的に言えば、コレの精神鑑定結果を捏造してほしい」
不安げな雨見に全く悪びれる様子なく語りながら、少年を指差す紫堂。
それを見て雨見は盛大に息を吐くと、頭に手をやった。
「……勘弁してください、紫堂さん。今なら聞かなかった事にしますから」
「……他ならぬ俺の頼みでも?」
「…………別にそこまで仲が良いわけでも無いでしょう。いえ、例え仲が良かったとしても、そんな真似が出来るわけないじゃないですか」
雨見のもっともな言葉に紫堂はふむ、と顎に手をやると不思議そうに尋ねた。
「それはつまり……道義にもとる、ということかな?」
「道義としても、規約としても、常識としても、です。本当に言わないと分かりませんか?」
「いや、言っている事は分かるんだが……君のセリフとも思えなくてな」
「…………どういう意味ですか?」
本気で分からない、といった表情の雨見に紫堂は事も無げに告げる。
「いやなに、連盟から三百万円以上も着服している人間の言葉とは、とても思えないというだけさ」
「…………は?」
予想外の言葉に雨見は一瞬呆けた後、何を言っているか分からないというように苦笑した。
「あの……紫堂さん。どなたかと間違えてませんか? 私、全く身に覚えが無いんですが」
「とぼけるなくていい。俺にそんな手は効かない」
「――いい加減にしてください。根拠も無く……怒りますよ?」
「ん、根拠はこれだ。よーく見て確認してくれ」
抗議の声を軽く流し、紫堂はジャケットから取り出した封筒を雨見へと差し出した。
それを怪訝な顔で受け取り中身を確かめると、雨見は目を見開いた。
「……これ、送金記録……? な、何で私の口座にこんな!?」
「……経理の連中に聞いたんだが、この日、君は資金管理用のパソコンの前に長時間座っていたらしいな? おそらくはその時に――」
「部署の経費の申請をしてただけです! 大体こんなすぐバレる悪事、私がする意味がないでしょう!?」
「すぐバレる、か。残念ながらそうじゃあない。俺は専門外だから良く分からないんだが、この送金には何重にも偽装が施されていて、並の専門家程度じゃ送金された事実に気付く事も出来ないようになっているらしい。今渡したのは、何十時間も解析した末に判明した、端的な結果の部分だ」
「なっ……」
「ついでに意味が無い、ってこともないだろう。金なんてのは不足はあっても過剰は無い。老後の蓄えになるかもしれないし、自分へのご褒美だって買えるかもしれない。隠し通せる自信があったなら、少し小遣い稼ぎがしたい、なんて、誰でも考えうる事じゃないかな?」
あまりの事に言葉を失った雨見は、それでも絞り出すように反論する。
「ま、待ってください! そんな……そんな技術、私にはありません。これは、私を陥れようとする誰かの策略です!」
「ほ〜、そんな高度な技術を駆使して、わざわざ他人に金をくれてやる人間がいるかねぇ。というより、あの職員用精神鑑定システムを作った才女様なら、これくらいの事は出来てもおかしくないんじゃないのかな? ん?」
「そんな、そんな、の」
今にも泣きそうになっている雨見。
当然である。連盟の活動資金からすればほんの一部とはいえ、横領をしたとされれば懲戒は免れない。
どころか、この組織の性質から考えれば、もっと凄惨な目にあう可能性すら容易に考えられた。
「と……言う訳だ。このネタを本部にたれ込まれたくなければ――」
「ちが、私……違うんです! 私、そんな事、本当に、してない! 知らないんです!」
「……あー、ちょっと落ち着け、話が――」
「違うんです! してないんです!! 紫堂さん、紫堂さん!! 信じて……お願いします! 私、わたし――」
「…………チッ」
混乱し、会話が成り立たない雨見に舌打ちすると、紫堂はいきなり、猫だましの要領で強く手を鳴らした。
「ひっ、な、何……?」
「……そんな事は知っている」
「……は?」
「……お前が横領なんてしていない事も、そんな真似をするほど馬鹿じゃあ無い事も知っている。重要なのは、俺が、今、提示したカードを持っているということだ」
「…………えっと、その……?」
何を言っているか分からないといった表情の雨見に、紫堂はぐっと顔を近づけ、告げる。
「……簡単に言えば、実際にこの手口で横領を行った人間を抱き込んで、お前に送金をさせたのは俺だ」
「は、なん、え?」
「落ち着いて考えれば分かることだ。これは、俺がお前に言う事をきかせるために仕組んだ策略だ。お前はそれに既に首まで浸かっている。もし指示に従うならば、この送金した金は報酬としてお前の物になる。断ればさっきまでの話が匿名の通報者によって全て本部にタレ込まれる。好きな方を選べ」
「…………はぁ……その…………はぁ、なる、ほど」
なんとか事態を把握し力が抜けた雨見は、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「……紫堂さん、そんなこと本人に言って大丈夫なんですか? 私が本部に通報したらどうするつもりです?」
「そんな事にはならないさ。だってあんたは賢いだろう」
「……はぁ…………」
疲れたようにため息をつく雨見。
たとえ通報したとしても、この紫堂という男がそう簡単に尻尾を掴ませるとは思えなかった。
「……分かりました。何をすればいいんですか?」
「さっきも言ったようにコイツの精神鑑定結果の偽造だ。明日の十時四十三分に鑑定結果が本部のシステムに追加されるようにしてくれ、あんたになら出来るだろう?」
「………………ええ、まぁ……案は、あります…………その半端な時間の訳を訊いても?」
「明日のシステム起動時刻、十時から三十分の試験を受ける予定だったが、試験方法の説明に若干手間取った結果こうなった、というイメージだ」
「……なるほど」
細かいですね、とは口に出さず、雨見はパソコンへと向かった。
こうなってしまった以上、完璧に仕事をこなすしか乗り切る方法はないだろう。
ふと、この騒動の原因だろう少年が目に入った。
死んだようにフローリングに横たわる姿からは、紫堂がここまで――違法な手段に頼ってまで、肩入れする理由が分からなかった。
特徴と言えば髪の毛の色くらい――とまで考えた所で、根本的な疑問に行き当たった。
「……紫堂さん、精神鑑定偽造って事は、もしかしてその子……?」
「ああ、連盟職員に加入させる。執行官としてな」
紫堂の言葉に、雨見は驚きで目を見開いた。
「まさか……こんな子が……!?」
「ああ、実力は確認済みだ。採用基準からすれば凶暴すぎる事だけが問題だが、俺が使えば問題ない。上手く扱いさえすれば、最高の駒になりうる」
紫堂の言い様に苦笑を返すと、雨見は再びその凶暴だという少年を見る。
その髪の毛は――まるで花のように白と紫のグラデーションで彩られ、水で反射した光が、その美しさを更に際立たせていた。
――この世界には「物理法則から外れた生物や現象」が存在する。
人のそばに存在し、けれど人とは異なるもの、妖魔。
それらと人の間を取り持ち、共存共栄を成す為の互助組織を「退魔連盟」と呼ぶ――