神の住まう森(4)
「そうした平穏な日々も永遠には続かず、次第に時代の流れに飲み込まれていきました。
ただ森を追われるだけなら、それでもまだ幸せだったのかもしれません。
ですが、この森に住んでいた民には、それ以上の悲劇が待っていました」
少年は片方の腕を高く掲げると、淡い光を放つ腕越しに、私に視線を向けた。
「この森の民、特に女性は誰もが非常に美しかったのです。
加えて、透き通るような白い肌は、月光のような淡い光を帯びていました。
そのような特異な民を捉えた権力者が、どのような行動にでるか、想像するのは容易でしょう」
遠くの空が白み始め、夜に沈んでいた霧の粒が目を覚ましたように渦を巻き始めた。
「その時から、この森は神の森にされてしまいました。
この国の秘密をその身に抱えた、帰らずの森に。
連れ去られた女たちの子孫は、今もこの森を征服した王国の奥深くに囲われ、他国の賓客へのもてなしの道具にされているでしょう」
遠くを見つめる少年の額には、長い年月を刻んだ年輪のように深い皺が浮かんでいた。
重苦しい沈黙が、言葉の隙間に滑り込む。
「それでは、君とその狼はこの森の番人というわけか。
確かに君たちの様子を見れば、普通でないことくらいは私にも分かる。
だが、百年以上もこの森を守ってきたなんて話をどう信じればいいというんだ。
それに、今の話が真実だとしても、なぜ自分たちを滅ぼした国のため、森を守るようなまねをする。
今、この状況がすべて私の夢というほうが、まだ信憑性があるように思えるよ」
私は少年の目を見ることができず、視線を足元の影に落とした。
「この狼が神にされてしまったことと、私がこの森にとらわれていることとは、まったく別のことなのです」
少年は視線を狼へ向け、それから振り返り、森のどこかを眺めているようだった。。
「大勢の兵士が森を荒らし、人々を傷つけた時、もちろん只やられていくのを黙って見ていたわけではありません。
しかし元来、森の民は争いを好まない性質であったため、小さな獣を仕留める道具は持っていても、争いを仕掛けてくる人間を殺すための武器を持っていませんでした。
多くの人間と多くの狼が倒れ、森中に焼けた木々の匂いや冷たい鉄の匂い、吐き気を覚えるような血の匂いが充満しました。
幾人かは森の奥へと逃げ込もうとしましたが、逃げ惑う人を追うことに慣れた兵士たちから逃げ切れるものはありません。
そんな中、息をひそめ、少女とともに茂みに潜んでいたこの狼は、一瞬の隙をつき、敵の大将に深い傷を負わせました。
この森を包む霧が狼を形どり、不意に喉元に牙を突き立てた、敵方の人々にはそのように映ったようです。
誰かが言いました、『この森には恐ろしい獣がでる、神に仕える獣が守る森だ』。
手に余るほどの戦利品を抱えた兵士たちは、重症を負った大将を連れて急いで森を降りていきました。
その時から、この狼は、森を守だけの神になりました。
人々の恐怖が形を持ち、この子の存在を縛っているです」
少年が強い口調で言い終えると、怖い程の静けさが辺りを包んだ。
僅かに差込み始めた朝の光は、いく筋もの線となり、土の香りのしない地面を斑に浮かび上がらせる。
少年の目に始めて感情の火が灯ったように見えた。
「この子も、神になど、なりたくなかっただろうに。
この子には、我が身を呪い、苦しみの声を上げることさえ出来ない」
クッと噛まれた下唇から、真っ赤な血が一筋流れた。
「それでは君は、どうしてこの場所にとらわれているんだ」
流れる血を拭うこともなく、少年は私に視線を返した。
「私の存在の半分はこの狼と同じであり、もう半分は人としてこの場所にあります。
それゆえに、私は人としての苦しみを抱えたまま、森の一部として生き続けなければならない。
いや、生き続けるというのとも、また違います。
私の中の人であるために必要な精神や心というものは、擦り切れてしまい、どれだけ残っているのか分かりません。
私はもう人ではないのでしょう。
しかし、人ではなくなってもなお、この場所にあり続けることは苦痛でしかありません。
もう終わりにしようと思うのです」
独り言のようにつぶやく少年の姿を、霧が徐々に覆い隠していく。
消えそうになる姿をつなぎ止めるように、私は声を上げた。
「待ってくれ、それはどういうことなんだ。
君の言っていることは、私にはまったく理解ができない。
ちゃんと説明をしてくれないか」
少年は意味ありげな笑みを浮かべると、身体の前で軽く手を振った。
手の動きに合わせて、少年を覆っていた霧に裂け目ができる。
その裂け目は、私の前を通り過ぎ、遥か先まで霧の道を作り上げた。
「あなたになら、それは追々、分かるでしょう。
それに、もう帰ったほうがいい。
この子が大人しくしていられるのも、あと少しだから」
それまで黙って佇んでいた狼の姿が、霧を纏い、一回り大きくなり始めていた。
敵を威嚇するような低い音が、喉の奥から漏れ出している。
私は走り出したい衝動を必死に抑え、狼の目を見つめたまま、少年の示した道を後ずさりするような格好で歩き出した。
狼は相変わらず、低い唸り声を発しているものの、今にも飛びついてきそうな雰囲気でもない。
私は目線を少しだけそらし、少年のいたあたりを探りみた。
濃い霧に包まれ、少年の姿は見えなくなっていた。
霧はさらに深さをまし、狼の姿も霧にほどける様にして、次第に薄くなっていった。
少年の指し示した霧の道は、もとの霧深い神の森に戻ろうとしていた。
(もう帰った方がいい)
少年の声が耳の奥でこだまする。
私は向きを変えると、僅かに残された霧の道を見失わないよう小走りに走り出した。
どこまで走ればいいのか検討もつかないが、今は足を止めることはできない。
(もう終わりにしようと思うのです)
斑に差し込む陽射しに、朝の訪れを喜ぶものはなく、静寂は一層深くなる。
先を急ぐ私の道具袋の中では、歩調に合わせて一輪の花が揺れる。
揺れるたび、花びらからは、月の雫を思わせる銀色の光がこぼれた。




