神の住まう森(2)
足音は私のすぐ後ろ、手の届きそうなほどの距離を通り過ぎる。
私の視界の隅を通り過ぎる人影は、私が想像していたものより随分と小さく、幼いようだった。
上質な白い衣に包まれた身体からすらりと伸びた手足は、どう見ても10代中頃のそれであった。
空気の揺らぎに合わせて、ふわっと花の匂いが僅かに香った。
その幼い人影は、私の横を通り過ぎると、歩調を緩めることもなく、真っ直ぐに狼の方へと進んでいく。
透き通るような白い肌は、狼と同じように淡い光を放ち、ぼんやりと闇に浮かび上がって見えた。
少年は狼に手が届くほどの距離まで近づくと、ゆっくりとこちらに振り向いた。
整ってはいるが、幼さを残した顔立ちの中に揺れる、感情を伴わないひどく老練した瞳が印象的だった。
少し耳にかかるくらいに伸ばされた髪が風にサラサラと揺れ、銀色に輝いている。
私を見据える瞳も、かすかに銀色の光を帯びていた。
「百数十年前までは、この辺りも緑が深いだけの普通の山でした。
今のように生き物も住まず、昼間でも陽射しの届かない濃霧に覆われているような土地ではありません。
四季折々の花が季節を告げ、僅かですが人も住んでいました。
この子は、その頃の面影をあなたに見ているのかもしれません」
少年は闇に沈んだ空を見上げ、狼の胸元を優しく撫でている。
「なぜ私に。
私は、この土地とはまったく関係がありません。
もちろん、その狼を見たのも初めてだ」
少年は私の言葉をゆったりと受け止めると、僅かに微笑んだようだった。
「分かっています。その子が見ているのは、遥か昔の記憶ですから。
あなたからは、生命に満ちた森の香りがするのです。
森へ射し込む陽光や、堆積した腐葉土、むせ返るような草いきれ、そんな生と死の混ざり合った混沌とした生命の香りです」
少年は視線を狼へと移し、つぶやいた。
「ここには死しかありません」
少年の言葉は、ひとつひとつ解けるようにして、森の奥へと消えていった。
「君は一体、何者なんだ。
こんな山奥に君のような少年が一人でいられるわけはないし、その狼も普通ではない。
それに、この血の匂い」
私は自分の言葉に思わず息を飲んだ。
狼の口元からは、相変わらず赤い液体がポタリポタリと滴っている。
表情を読み取ることはできないが、底光りする銀色の瞳は、私を捉えたままだ。
背筋に冷たい汗がつたう。
「あなたは、森の民なのですね。もしくはその血を引く人間。
そうでなければ、この森のこんな深くにまで足を踏み入れられるはずがありませんから」
人を落ち着かせようとする、ゆっくりとした穏やかな声色だ。
『森の民』その言葉に、遠い昔に聞いた祖母の声が頭の裏で響いた。
深い海の底、岩の下に眠っていた気泡のような記憶だ。
目の前の無機質な森が、一瞬、生気に満ちた海風の香りのする懐かしい森に見えた。
「確かに、私にはその血が流れているようだ。
大昔にその一族から離れ、人々の中で生きることを選択した一族だと聞いている。
しかし、なぜ君にそんなことが分かるんだい」
私の視線と少年の視線が交錯する。
少年の瞳には、森に射し込む陽だまりのような、親しみの色が浮かんでいた。




