神の住まう森(1)
夜がピンと張り詰めている。
月明かりの差さない新月の夜。
意味ありげに生ぬるい風がひとつ吹いた。
深い森の薄暗がりの中で、淡い闇と濃い闇が揺れている。
風に揺られ葉先の擦れあうサワサワとした音が、むき出しの地面に降り注いでいた。
周囲に生き物の気配はなく、形を持った濃い霧が、森の呼吸のようゆったりと流れている。
緑の芳香も、霧に濡れた土の香りもどこか遠く、私は生々しさを伴わない夢のような感覚に支配されていた。
どこかで水の流れる音がした。
この場所で唯一、生命を感じさせる音だ。
私は行く手を遮るように生えた背の高い草を掻き分けて、音のするほうへと足を進めた。
草の角はナイフのように鋭く、手で払うたび私の肌を薄く裂いた。
青白い闇の中に薄っすら滲んだ血の赤は、この森の他のどんな色よりも鮮やかだった。
絡みつく緑を振り払いながら足を進めると、小さな川に出た。
くるぶしが少し被るくらいの本当に小さな川だ。
私は片方の手の平にくぼみを作り、小川の水をすくってみる。
小川の水は冬の星空のように冷たく、しばらくすると右手が、水の冷たさにひどく痛んだ。
私は手の平をさすりながら、小川の流れる元へと目を向けていく。
下流から上流へ視線を進めていく途中、思わず視線を止めた。
夜そのものの様な質量をもった森を背後に、大きな獣が小川の水を飲んでいた。
その獣は、月明かりの差さない森の中にあって、月光のような銀色の澄んだ光を放っていた。
狼と呼ぶにはあまりに大きい、熊ほどもありそうな身体を屈め、大きく裂けた口で水を飲んでいる。
口元の毛には赤黒い液体が滴っていて、それを洗い流しているようでもあった。
風に乗って、濃い血の匂いが漂ってくる。
巨狼は私に気づいたのか顔を上げると、感情の起伏の見られない平坦な視線を私に向けていた。
私を見つめる狼の目は、しかし私を見てはいなかった。
いや、私を通してどこか遠い風景を眺めているとでもいったらいいだろうか。
口元からポタポタと血の雫を垂らしながら、時が止まったように佇んでいる。
小川の流れる音と断続的に吹く風の音だけが、時間の流れを証明していた。
私は身動きひとつとることもできず、ただ狼の視線を受け止めたまま、時間の流れに取り残されていた。
「その子は、あなたに懐かしい故郷の匂いを感じたのでしょう」
突然、背後から竪琴の音色のように澄んだ声が響いた。
私は反射的に声のするほうへ意識を向けた。
「勢いよく振り返ってはいけません。その子に、あなたを傷つける意志はありませんが、急な動きをすると、私にもどう動くかわかりませんから。
今、そちらに行きますので、少し待っていてください」
そう言うと、土を噛む小さな足音が動き出した。
獣道すらない真っ暗な山の中を、足音は真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
足音がひとつ進むたび、地面を覆っている草や木々が身を反らせるような音を立てた。
私は目線は狼から離さず、耳だけで足音が近づいてくるのを感じていた。




