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槙子の枝毛

作者: 長谷川透明

槙子さん、ぜひ読んでください。

月曜日の五時間目、体育の授業をサボった。

槙子まきこは体育が嫌いなのだ。しかも、月曜の五時間目はいつも眠くなってしまうから、この時間割にはすごく不満だった。

体育館の四つの扉のうち二つは開け放たれていてそこから風が吹き込んでくる。ジャージのチャックを全部閉めて槙子は体育座りの膝を抱え込んだ。

今日の体育はバスケットボールの試合らしく、みな赤い手をして一生懸命ボールを奪い合っていた。休憩に入った生徒は口々に「手が痛い」だの、「寒い」だのと愚痴を垂れた。冬の乾燥しきった風を受けながらだからそりゃあ手も痛くなるだろう。あんなの、馬鹿げている。痛さを思って槙子は身震いした。

興味がないバスケットボールはルールもあまり分からないため、しばらく試合を見ていると飽きてきた。そこで槙子は自分の髪を触りはじめた。冬の乾燥は女子にとって大敵である。念入りに枝毛がないか、チェックをする。小学三年生から伸ばしている槙子の長い髪は、おろすと毛先が腰辺りまであった。それを耳の下で二つに結わえている。いつも丁寧に手入れしているからよく人からは綺麗だねと褒められた。それが嬉しくて、また長く伸ばす。そして褒められる。それを繰り返し、槙子の髪はこんなにも伸びたのだ。


体育館の外からする鳥のさえずりと、上履きと床が擦れる音を交互に聞きながら槙子は毛先に目をやった。この間かけたストレートパーマのせいでやはり少し傷んでいるようだ。毛先にかけて茶色掛かっており、パサパサしている。今日は帰ったらすぐトリートメントをやろう、そんなことを考えていると、一本の毛が目についた。

それは他のどの髪よりも明るい髪だった。もともと黒い槙子の髪の中ではその一本だけが異様に思われた。一瞬、フランス人形の毛でも混ざっているのかと思うほどだった。

髪がこういう色だということは傷んで枝毛になっているかもしれない。切ってしまおうかとも思ったが、急に気が変わった。ゴムで結ってあるところから毛先まで指で髪をすくっていくと、それだけが他とは比べものにならないほど長いことに槙子は気付いたのだ。長いという表現では足りない。これだけ長ければ、距離があるといってもいいかもしれない。なんたって長すぎて先が見えないのだ。もはや、人間が一生髪を切らないでいてもこの長さにはなりうるまいという、とてつもない長さだった。

たぐり寄せても、たぐり寄せても先は近づいてくる気配がない。それでしょうがなく毛の伸びている方向まで視線を走らせた。その髪はとんでもないところまで伸びていた。

こんなことってあるのだろうか。槙子は他人の目も気にせずにだらしなく口を開いて驚いた。なんとそれは体育館の出口にまで続いていたのだった。出口からは日が差していて床と槙子の長い金髪が光を反射してきらきらしている。そこでふと、槙子は疑問に思う。さきほど体育館に入ってきたときにはたしてあちら側の扉をくぐったか。

いいや、入ってきたのは北の扉だ。ではなぜ髪はあちらに伸びているか。

槙子はどうしようもない衝動にかられた。この髪はその先、どこまで続いているのだろう。先をたどりたい。自分の髪なのに知らぬ間にこんなに伸びていて、しかも自分の行った覚えのない方向へと繋がっている。もう一度その髪が頭に繋がっているか根元に近いところを引っ張る。

「いたっ」

どうやらしっかりと自分のもののようだ。槙子は先生がこちらを見ていないかちらりと見てからその髪の先をたどった。幸い先生は得点板を見るのに必死でこちらには全く気付いていない。

槙子は静かにそろりそろりと体育館を抜け出した。


こんなに長い髪、途中で途切れたらもったいないと慎重にたどる。体育館を出るとすぐ校庭となっていて桜の木が何本も生えている。冬の桜の木には当然花も葉もない。ただ堅い幹がそそり立っているだけだ。髪の毛は桜の木々を縫うようにして地面を這ってどこまでも続いている。

「もう、どこまであるのよ」

ついには校庭を五周した。それでも髪はまだ続いている。中腰姿勢のままだとこの若さでも腰がえらいことになっている。槙子は校庭のど真ん中で立ち尽くした。もう、授業が終わるまでに髪を集めきれないかもしれない。そうすると急に不安になった。いつになったら髪の全貌が見えてくるのだろうか。もしかしたら町内を一周しなくてはならないかもしれない。もしかしたら、町外にも続いていて日本中を回らなければならないかもしれない。下手したら「毛先を探して三千里」になってしまうではないか。三千里って、一里はどのくらいの距離なのだろうか。中学生の槙子には、はかりしれない恐怖だった。

ただ、一度決めたことはやめたくないと槙子は自分を奮い立たせた。もうこの時点になると、使命感というか責任感のようなものが芽生えてきて、何が何でも髪の先を見つけえやらなければならない気がしてきていた。傍から見れば随分おかしなことをしているように見えるが槙子にとっては重要なことのように思えた。意味がなくてもいいじゃない、そう心でつぶやいて槙子は探し続けた。

しかし、いくらなんでも日本一周は無理だ。わがままを言えば、町内一周もしたくない。校門まで行って、学校外に続いていたら諦めよう、そう思った。

「よし、そうと決まったらさっそく校門よ」

槙子の髪は運よく校庭の真ん中からまっすぐに校門の方へと向かっていた。やはりそちらへ続いていたか。あそこまで進めば、きっと学校の外に続いているのだろう。そうしたらやっとこの苦しみから解放される。不意に笑みがこぼれてしまった。一歩一歩と近づく“終わり”に槙子は微笑みを浮かべ、ここまでの苦労に別れを告げる。しかし、事態は思わぬ展開に転んだ。

「あ」

短く発した声は晴れ渡る空に消えた。槙子は校門の少し手前に立ち尽くした。次に彼女の口から洩れたのは感嘆の「ああ」という声だった。








髪は町へと続くのではく、校門の前にある大木に繋がっていた。正確に言うとその木の一本の枝となっていた。

その大きな木は先生の話によると確か、学校の創立記念の木だったはずだ。立派な幹にはたくさんのこの成長を見届けてきた貫禄がある。そっと近づき、槙子の毛がその幹を上って上の方に繋がっているのを確認した。どうやら、槙子のゴール地点はここらしい。呆気ないが結果は悪くもない。

なんだか今まで気にもしなかったが、この木を突然いとおしく感じた。近くで見ると枝の一本一本は細く、今にも崩れそうで、もろい。幹も乾燥して剥がれ落ちている。それもそうだ。この木はもう老木で、随分長くここに立っている。切り倒そうという話が校内の先生方の中で持ち上がっているししょうがないのかもしれない。いやだなあ、と槙子は思った。

そっと幹をさすって、頬を寄せた。心が落ち着いて、疲れと苛立ちと、その他もろもろを槙子の体内から一掃してくれるようだった。槙子がふう、と深呼吸をすると幹も同じように風に吹かれ、枝を揺らし音を立てる。

ふと、槙子は大木を見上げた。枝の先に先まで気づかなかった赤いものがついていた。何だろうと見上げていると、それは風に吹かれて、槙子の上へ真っ逆さまに落ちてきた。

「あぶないっ」

ぱっと手でそれをつかむ。うまくつかめたようだが手にはじんじんと痺れが伝わってくる。しっとりとした皮の感触と十分な柔らかさ。勢いよくつぶった眼を恐る恐る開くと、槙子の手のひらには赤い実が収まっていた。りんごのようで、すもものようでもある、不思議な実だった。赤い色はまるで赤面しているようで可愛らしい。

私は躊躇なくそれに噛り付いた。







 ベッドの上ですっと目を覚ます。やはり夢だったか、とため息をついた。カーテンを閉め切った部屋で時計を見ると朝六時ぐらいを差していた。部屋の外では慌ただしく弟や母親や父親が朝の身支度をしている。まるで私とは別世界の人間だなと舌打ちした。部屋とその外では次元が違うのだと、槙子は自分に言い聞かせた。

 床には飲みかけのお茶とスナック菓子が散乱している。ぼさぼさの髪の毛をかき分け頭をかきながら、再びベッドの上に腰を下ろす。

 櫛が通らないような私の髪を誰が褒めるんだ。ずっと学校にも行ってないくせに都合良い夢を見やがって。槙子は自分に腹が立って、唾を床にはいた。

 しかし、そこで違和感があった。口の中にいつもと違う感覚がある。スナック菓子の味じゃない。お茶やコーラの味でもない。これはなんの味なのか。そうだ。

 これは新鮮な香りと甘酸っぱい酸味。

「ああ」


再び、槙子は感嘆の声を漏らした。


長かったですがいかがだったでしょうか。ご感想・アドバイス等いただけると嬉しいです。

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