終電の後、君の声
終電を逃した駅前は、雨上がりの匂いがしていた。
アスファルトは黒く濡れ、街灯の光をぼんやり反射している。
閉まりかけた居酒屋から酔った笑い声が漏れ、遠くでタクシーのドアが乱暴に閉まる音が響いた。
悠真はコンビニの横にある自販機の前で立ち止まる。
ネクタイを少し緩めると、首元に汗が張りついて気持ち悪かった。
缶コーヒーのボタンを押す。
ガコン、と落ちてきた缶は思ったより熱く、指先が少しだけじんとした。
スマホを見る。
23:48。
通知は一件だけ。
『今日、電話できる?』
短い文なのに、その文字を見るだけで胸の奥が少し軽くなる。
悠真は駅前のベンチに座り、通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音。
そのあと、小さく布が擦れる音と一緒に声が聞こえた。
『……もしもし』
少し眠そうな声だった。
たぶん風呂上がりだ。
後ろでドライヤーの音が遠くに聞こえる。
「おう」
『お疲れさま』
耳に届いた瞬間、張っていた肩の力が抜ける。
東京に来て一年。
仕事には少し慣れた。
満員電車にも、怒鳴る上司にも、終電ギリギリの生活にも。
でも、慣れなかったものが一つだけある。
会いたい時に、会えないこと。
『また帰れなかったの?』
「終電いった」
『最近ずっとじゃん』
「まあ、忙しいし」
嘘だった。
忙しいのは事実だが、帰れない理由は別にある。
先輩たちが誰も帰らないからだ。
モニターの光だけが残るオフィスで、「お先です」が言えない。
ただそれだけ。
紗季は少し黙ってから、小さく笑った。
『高校のときさ』
「ん?」
『毎日チャイム鳴った瞬間帰ってたよね』
「あー……帰宅部だったし」
『毎回、校門で待ってた』
その言葉で、景色が浮かぶ。
夕焼け。
自転車置き場。
マフラーに顔を埋めながら待っていた紗季。
白い息を吐きながら、「遅い」と文句を言っていた顔。
「懐かし」
『ね』
電話越しに笑う声。
その声だけで、冷えた夜風が少し柔らかく感じる。
会いたかった。
声だけじゃなくて、ちゃんと隣に居てほしかった。
でも言えない。
紗季も働いている。
疲れている。
自分だけ寂しいみたいで、格好悪かった。
『ねえ』
「ん?」
『次、いつ帰ってくる?』
悠真は口を閉じる。
来月のシフトはまだ出ていない。
出ても急に休日出勤が入る。
前みたいに、「絶対行く」と簡単に言えなくなっていた。
「……まだわかんねぇ」
『そっか』
短い返事。
でも、その二文字の奥にある寂しさくらい分かる。
沈黙が落ちた。
コンビニから出てきたサラリーマンが、ビニール傘を揺らしながら横を通る。
缶コーヒーを開ける。
ぬるくなった甘い匂いが、夜風に混ざった。
『私さ』
紗季の声が少し小さくなる。
『たまに不安になる』
「……うん」
『東京って可愛い人多そうじゃん』
「まあ、多いな」
『そのうち、私じゃなくてもよくなるのかなって』
悠真は思わず顔をしかめた。
そんなこと、一度も考えたことがなかった。
むしろ逆だった。
街を歩けば人は沢山いるのに、紗季じゃない。
電車で隣に座る誰も、仕事で話す誰も、違う。
だから余計に、会いたくなる。
「それはない」
『なんで言い切れるの』
「好きだから」
言った瞬間、自分でも少し照れくさくなる。
電話の向こうが静かになった。
数秒後、小さく息を吐く音。
『ずるい』
「何が」
『そういうの普通に言うところ』
「思ったから」
すると、向こうで小さく笑う気配がした。
『……私も好き』
その瞬間、胸の奥に溜まっていた疲れが少しだけ消えた気がした。
遠距離恋愛は、綺麗じゃない。
会いたい日に会えない。
触れられない。
声だけじゃ足りない夜もある。
それでも。
たった数分の電話で、明日を頑張れる日がある。
『ねえ悠真』
「ん?」
電話の向こうで、少しだけ布が擦れる音がした。
たぶんベッドに寝転がり直したんだろう。
『……次会ったらさ』
「うん」
一瞬、間が空く。
その沈黙のあと、紗季が少しだけ笑う気配がした。
『駅でちゃんと……してね?』
「何を」
『っ……わかるじゃん』
声が小さい。
たぶん今、顔を隠している。
悠真は口元が緩むのを抑えられなかった。
「言わないと分かんねぇなぁ」
『悠真ほんとそういうとこ嫌い』
「嫌いじゃないだろ」
『……嫌いじゃないけど』
小さく拗ねた声。
そのあと、観念したみたいにため息が聞こえた。
『だから、その……駅でちゃんと、ぎゅーして』
最後の方はほとんど消えそうなくらい小さい。
でも、ちゃんと聞こえた。
悠真は濡れた駅前を見ながら、少しだけ笑う。
「任せろ」
『……あと』
「ん?」
『できれば、そのまま離さないでほしい』
今度こそ、悠真は吹き出した。
『笑った!?』
「いや、ごめん。可愛いなって」
『もういい!』
恥ずかしくなったのか、向こうでバサッと布団に潜る音がした。
その様子が目に浮かんで、悠真は缶コーヒーを握ったまま静かに目を細める。
会いたかった。
今すぐ抱きしめられる距離に、居てほしかった。
駅のホームでも、 改札の前でも、 人目なんて気にせず抱きしめたいくらいに。
すると布団の奥から、くぐもった声が聞こえる。
『……悠真』
「んー?」
『ちゃんと会いに来てね』
冗談っぽく言っているのに、少しだけ不安が混ざっている声だった。
悠真は視線を落とす。
濡れた地面に、コンビニの光が滲んでいる。
「行くよ」
『ほんと?』
「ほんと」
『……絶対?』
「絶対」
すると、小さく笑う声。
安心したみたいな、柔らかい笑い方だった。
『じゃあ頑張れる』
「何を」
『仕事』
その返事に、悠真は少しだけ胸が痛くなる。
頑張っているのは、自分だけじゃない。
紗季も同じだった。
寂しいのを我慢して、 不安を飲み込んで、 会えない時間を耐えている。
自分だけが辛いわけじゃない。
悠真は背もたれに寄りかかり、夜空を見上げた。
ビルの隙間に、小さく月が浮かんでいる。
「……俺も頑張る」
『うん』
「次帰ったら、いっぱい抱きしめる」
『っ……ばか』
照れた声。
でも、その声は少し笑っていた。
終電のない駅前を、冷たい夜風が静かに吹き抜けていく。
それでも今だけは、不思議と寒くなかった。
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