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終電の後、君の声

作者: 紅茶伝
掲載日:2026/05/26

 

 終電を逃した駅前は、雨上がりの匂いがしていた。


 アスファルトは黒く濡れ、街灯の光をぼんやり反射している。


 閉まりかけた居酒屋から酔った笑い声が漏れ、遠くでタクシーのドアが乱暴に閉まる音が響いた。


 悠真はコンビニの横にある自販機の前で立ち止まる。


 ネクタイを少し緩めると、首元に汗が張りついて気持ち悪かった。


 缶コーヒーのボタンを押す。


 ガコン、と落ちてきた缶は思ったより熱く、指先が少しだけじんとした。


 スマホを見る。


 23:48。


 通知は一件だけ。


『今日、電話できる?』


 短い文なのに、その文字を見るだけで胸の奥が少し軽くなる。


 悠真は駅前のベンチに座り、通話ボタンを押した。


 数回の呼び出し音。


 そのあと、小さく布が擦れる音と一緒に声が聞こえた。


『……もしもし』


 少し眠そうな声だった。


 たぶん風呂上がりだ。


 後ろでドライヤーの音が遠くに聞こえる。


「おう」


『お疲れさま』


 耳に届いた瞬間、張っていた肩の力が抜ける。


 東京に来て一年。


 仕事には少し慣れた。


 満員電車にも、怒鳴る上司にも、終電ギリギリの生活にも。


 でも、慣れなかったものが一つだけある。


 会いたい時に、会えないこと。


『また帰れなかったの?』


「終電いった」


『最近ずっとじゃん』


「まあ、忙しいし」


 嘘だった。


 忙しいのは事実だが、帰れない理由は別にある。


 先輩たちが誰も帰らないからだ。


 モニターの光だけが残るオフィスで、「お先です」が言えない。


 ただそれだけ。


 紗季は少し黙ってから、小さく笑った。


『高校のときさ』


「ん?」


『毎日チャイム鳴った瞬間帰ってたよね』


「あー……帰宅部だったし」


『毎回、校門で待ってた』


 その言葉で、景色が浮かぶ。


 夕焼け。


 自転車置き場。


 マフラーに顔を埋めながら待っていた紗季。


 白い息を吐きながら、「遅い」と文句を言っていた顔。


「懐かし」


『ね』


 電話越しに笑う声。


 その声だけで、冷えた夜風が少し柔らかく感じる。


 会いたかった。


 声だけじゃなくて、ちゃんと隣に居てほしかった。


 でも言えない。


 紗季も働いている。


 疲れている。


 自分だけ寂しいみたいで、格好悪かった。


『ねえ』


「ん?」


『次、いつ帰ってくる?』


 悠真は口を閉じる。


 来月のシフトはまだ出ていない。


 出ても急に休日出勤が入る。


 前みたいに、「絶対行く」と簡単に言えなくなっていた。


「……まだわかんねぇ」


『そっか』


 短い返事。


 でも、その二文字の奥にある寂しさくらい分かる。


 沈黙が落ちた。


 コンビニから出てきたサラリーマンが、ビニール傘を揺らしながら横を通る。


 缶コーヒーを開ける。


 ぬるくなった甘い匂いが、夜風に混ざった。


『私さ』


 紗季の声が少し小さくなる。


『たまに不安になる』


「……うん」


『東京って可愛い人多そうじゃん』


「まあ、多いな」


『そのうち、私じゃなくてもよくなるのかなって』


 悠真は思わず顔をしかめた。


 そんなこと、一度も考えたことがなかった。


 むしろ逆だった。


 街を歩けば人は沢山いるのに、紗季じゃない。


 電車で隣に座る誰も、仕事で話す誰も、違う。


 だから余計に、会いたくなる。


「それはない」


『なんで言い切れるの』


「好きだから」


 言った瞬間、自分でも少し照れくさくなる。


 電話の向こうが静かになった。


 数秒後、小さく息を吐く音。


『ずるい』


「何が」


『そういうの普通に言うところ』


「思ったから」


 すると、向こうで小さく笑う気配がした。


『……私も好き』


 その瞬間、胸の奥に溜まっていた疲れが少しだけ消えた気がした。


 遠距離恋愛は、綺麗じゃない。


 会いたい日に会えない。


 触れられない。


 声だけじゃ足りない夜もある。


 それでも。


 たった数分の電話で、明日を頑張れる日がある。


『ねえ悠真』


「ん?」


 電話の向こうで、少しだけ布が擦れる音がした。


 たぶんベッドに寝転がり直したんだろう。


『……次会ったらさ』


「うん」


 一瞬、間が空く。


 その沈黙のあと、紗季が少しだけ笑う気配がした。


『駅でちゃんと……してね?』


「何を」


『っ……わかるじゃん』


 声が小さい。


 たぶん今、顔を隠している。


 悠真は口元が緩むのを抑えられなかった。


「言わないと分かんねぇなぁ」


『悠真ほんとそういうとこ嫌い』


「嫌いじゃないだろ」


『……嫌いじゃないけど』


 小さく拗ねた声。


 そのあと、観念したみたいにため息が聞こえた。


『だから、その……駅でちゃんと、ぎゅーして』


 最後の方はほとんど消えそうなくらい小さい。


 でも、ちゃんと聞こえた。


 悠真は濡れた駅前を見ながら、少しだけ笑う。


「任せろ」


『……あと』


「ん?」


『できれば、そのまま離さないでほしい』


 今度こそ、悠真は吹き出した。


『笑った!?』


「いや、ごめん。可愛いなって」


『もういい!』


 恥ずかしくなったのか、向こうでバサッと布団に潜る音がした。


 その様子が目に浮かんで、悠真は缶コーヒーを握ったまま静かに目を細める。


 会いたかった。


 今すぐ抱きしめられる距離に、居てほしかった。


 駅のホームでも、  改札の前でも、  人目なんて気にせず抱きしめたいくらいに。


 すると布団の奥から、くぐもった声が聞こえる。


『……悠真』


「んー?」


『ちゃんと会いに来てね』


 冗談っぽく言っているのに、少しだけ不安が混ざっている声だった。


 悠真は視線を落とす。


 濡れた地面に、コンビニの光が滲んでいる。


「行くよ」


『ほんと?』


「ほんと」


『……絶対?』


「絶対」


 すると、小さく笑う声。


 安心したみたいな、柔らかい笑い方だった。


『じゃあ頑張れる』


「何を」


『仕事』


 その返事に、悠真は少しだけ胸が痛くなる。


 頑張っているのは、自分だけじゃない。


 紗季も同じだった。


 寂しいのを我慢して、  不安を飲み込んで、  会えない時間を耐えている。


 自分だけが辛いわけじゃない。


 悠真は背もたれに寄りかかり、夜空を見上げた。


 ビルの隙間に、小さく月が浮かんでいる。


「……俺も頑張る」


『うん』


「次帰ったら、いっぱい抱きしめる」


『っ……ばか』


 照れた声。


 でも、その声は少し笑っていた。


 終電のない駅前を、冷たい夜風が静かに吹き抜けていく。


 それでも今だけは、不思議と寒くなかった。

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!

もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!

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