基盤テクノロジーが倫理的対立を深化させる様態
2060年代の基盤テクノロジーは、この意図主義倫理と感受主義倫理の対立を、かつてないほど複雑かつ多層的なものへと深化させた。
AIは、意図主義と感受主義のどちらにバイアスを持つかで、倫理的判断が分かれるようになった。
AIの倫理フィルターがどちらかの倫理観を強化する可能性があるかはOSのセッティングに委ねられた。
AIは、過去のSID裁判所の判例や、社会における倫理的議論のログを学習することで、意図主義と感受主義の双方の倫理モデルを学習する。
しかし、その学習データにどちらかの倫理観に偏りがある場合、AIは特定の倫理観を「正義」として自動的に適用し、その判断をアルゴリズムとして強制する。
量子コンピューターのコモディティ化は、AIが、意図主義と感受主義の双方の倫理モデルを高速でシミュレートし、社会に最も「安定」をもたらす倫理モデルを提示した。
正義感が自動化されたと言ってもいい。
しかし、この「安定」が、人間の自由や多様性を犠牲にするものではないかという問いも生まれた。
AIが判断する「安定」が、必ずしも人間の「幸福」や「自由」に直結するとは限らないからだ。
なによりも「幸福」や「自由」の定義そのものが困難だったからだ。
霊子(Quanon)は、意識の深層、無意識の意図や感情を捕捉する能力を持つ。
この技術がSIDと結合したことで、意図主義と感受主義の議論はより複雑になった。
霊子レベルで人間の「真の意図」が可視化された場合、意図主義倫理は強化される。
それは同時に、人間の無意識に潜む「闇」や「逸脱」までをも晒すことになり、個人の精神的自由を脅かすようになる。
無意識の「罪」に対する責任が、霊子によってより明確に問われることになるからだ。
霊子技術は、他者の「感受性」の深層を読み取ることで、感受主義倫理をより強力なものにするようになる。
他者が感じる「不快感」が霊子レベルで明確に可視化された場合、その感受性の侵害は、より重い倫理的責任を問われることになるのだ。
これは、個人の表現の自由が、他者の感受性によって極限まで制限されることを示唆する。
2060年代以降、遺伝子技術によって、人間が意図主義者または感受主義者として「設計」され、倫理的対立の様相は根本から変わった。
社会が、特定の倫理観(例えば、感受主義)を持つ人間を多数派として設計するならば、倫理的対立は表面上は解消される。
しかし、それは、人間の倫理的多様性を根絶し、特定の価値観への標準化を強制するものであり、きわめて優生学的な介入となるものだった。
倫理的対立が、遺伝子レベルでの「設計された格差」へと転化するという現実もあった。
特定の倫理観を持つ遺伝子群が優遇され、そうでない遺伝子群が排除されるという、新たな差別を生み出す結果に繋がった。
サイコソニックやインセプトロンといった技術は、倫理的対立を解消するために、特定の倫理観を人々に強制的に植え付ける能力を持つ。
倫理的議論が「説得」ではなく「操作」になるという現実に人は耐えられなかった。
これは、人間の自由な意志、そして倫理的な選択の自由を根源から奪うものだからである。




