意図主義倫理(Intentionalist Ethics):自由な思考の擁護者
一つ目、「意図主義倫理」は、SID社会において、個人の内面の自由と創造性を最大限に保護しようとする思想である。
その核心は、「思考の中身や、それが引き起こしうる結果よりも、その思考の背後にある動機、文脈、そして意図こそが倫理的評価の対象である」という主張にある。
意図主義倫理のルーツは、イマヌエル・カントの義務論的倫理学や、個人の内面の自由を尊重するリベラルな思想に深く根差している。
カントは、行為の道徳的価値を、それが普遍的な道徳法則(定言命法)に従う「意図」と「動機」に求めた。
意図主義倫理は、このカント的な自由意志の尊重を、SIDによって可視化された「思考」の領域にまで拡張する。
個人の内心は、たとえそれが社会的に「不適切」に見える思考を含んでいたとしても、その思考が「意図的な悪意」や「他者への危害」に結びつかない限り、不可侵であるべきだと主張する立場だ。
意図主義倫理は、SIDによって可視化された「内心の闇」に対して、以下のような判断基準を適用する。
あなたが街中で不快な人物に遭遇し、一瞬「殴りたい」という暴力的な思考がSIDを通じて共有されたとする。
意図主義倫理は、その思考が単なる一過性の衝動であり、実際に暴力を実行する「意図」がない、あるいはその思考が「自傷的」なものであれば、倫理的な責任は問わないと判断する。
他にも、あなたが特定の「けしからん」性癖を思い描き、それがSIDを通じて共有されたとする。
意図主義倫理は、その性的な連想が、現実の他者への危害や搾取を目的とするものではなく、あくまで「創作のための表現欲」や「個人的な妄想」の範囲内であれば、倫理的に問題はないと判断する。
第1章で論じた「美少女がお茶漬けを食べている画像」に対する性的興奮も、それが現実の誰かを傷つける意図を持たない限り、個人の内面の自由として擁護されるわけだ。
あなたの社会の主流とは異なる、あるいは「危険」とみなされうるような社会的に逸脱した思想がSIDを通じて共有されたとする。
意図主義倫理は、その思想が単なる思考実験や、社会批判のためのものであり、実際に他者を扇動したり、危害を加えたりする「意図」がない限り、思想の自由として保護されるべきだと主張する。
そのメリットは、個人の自由と創造性を最大限に保護し、多様な思考や表現の可能性を維持するという点。
すなわち、内面の自由を尊重することで、自己検閲による萎縮を抑制し、人間の精神的な豊かさを守ろうとする方向へ倫理的に定義される。
デメリットとしては、思考が可視化される世界において、「意図」の判断はきわめて困難であるという点だ。
悪意ある意図が巧妙に隠蔽されたり、無意識の衝動と意図的な思考の境界が曖昧になったりする可能性が大きい。
また、結果として他者が不快感を覚えた場合でも、意図が「善」であれば許されるという点で、被害者からの批判や社会の安全維持との間で軋轢が生じる。
(その善悪を判断するのもまた社会なのだ)




