思想史的視座からの「無意識の責任」:哲学の問い直し
「無意識の責任」という概念は、哲学や心理学の歴史における長年の議論を、新たな技術的文脈で再燃させることとなった。
ジークムント・フロイトが提唱した「無意識」の概念は、人間の行動や思考が、意識的な自己認識の外にある深層的な力によって動かされていることを示していた。
フロイトの時代において、無意識は精神分析の対象であり、倫理的な責任の範囲外とされてきた。
しかし、SIDは、この無意識の領域の一部をデータとして可視化するようになった。
SIDがフロイト的な「イド」や「超自我」の活動を捕捉し、それが社会的に「不適切」と評価される場合、私たちはその「内なる獣」にまで責任を負うべきなのだろうか?
これは、無意識が本当に「責任外」であるのか、あるいはテクノロジーによって「責任の対象」へと変容するのか、という根源的な問いを突きつけることになった。
イマヌエル・カントの義務論的倫理学は、行為の「意図」と「動機」を重視し、普遍的な道徳法則(定言命法)に従うことを求めた。
カントにとって、倫理的行為は理性的な自由意志に基づくものだった。
しかし、SID社会において、意図そのものが可視化され、無意識の衝動が「意図」と混同されうる場合、カント的な倫理学はどのように機能するのだろうか?
SIDが人間の内心を「透明」にする中で、本当に「純粋な動機」に基づく行為は存在するのか、あるいは全ての思考が「無意識の汚染」に晒されるのか、という新たな課題が生じたのである。
エマニュエル・レヴィナスは、倫理が「他者の顔」との出会い、すなわち他者の脆弱性や超越性に対する応答から生まれると論じた。
しかし、SIDは他者の「顔」だけでなく、「内心」までをも直接的に見せるのだ。
他者の最も個人的で、ときにグロテスクな思考や性癖が、SIDを通じて強制的に共有される場合、倫理的な応答はどのように変化するのだろうか?
「他者の顔」が「他者の内心のログ」へと変容したとき、倫理は「共感」の義務を負うのか、それとも「視ない自由」を求めるのか、という新たな問いが生じるようになった。
20世紀のポストモダン思想は、統一された「主体」の概念を解体し、主体が社会的な言説や権力によって構築されることを示していた。
SIDは、この主体の解体を物理的に加速させた。
個人の思考が、ネットワークに接続され集合的な意識やAIによって、再構築されることで、主体の統一性や自律性は揺らいだ。
この状況において、「無意識の責任」という問いは、もはや「個人の責任」に留まらず、「集合的な意識が個人の無意識にどこまで責任を負うのか」という、より広範な問題へと拡大したのだ。




