「無意識の責任」の発生メカニズム:SIDが捕捉する「内なる衝動」
20世紀以前の社会において倫理は、人間の自由意志に基づく「行為」や、それが社会に与える「結果」を評価の対象としてきた。
例えば、殺意を抱いても、実際に殺害行為を行わなければ、法的な罪に問われることはなかった。
性的連想も、それが表に出なければ、個人の内的な自由として許容されるのが一般的であった。
しかし、SIDは、この前提を根底から覆した。
SIDは、人間の言葉になる前の思考、すなわち意識的なコントロールが及びにくい「無意識の瞬間」までもをリアルタイムで読み取り、データとしてログ化する能力を持つ。
あなたが街中ですれ違った人物に一瞬抱いた「嫌悪」や「性的関心」、あるいは刹那的な「暴力衝動」といった、内的な感情の連鎖は、SIDを通じて即座にデータ化され、「SID共振インデックス」として記録されるのだ。
このとき、倫理的な葛藤が生まれる。
「思考を制御できなかった」ことに罪があるのだろうか?
人間の思考は、意識的なコントロールが及ばない無意識の領域から湧き上がる部分が大きい。
生理的な反応、過去の記憶、文化的な刷り込み、あるいは純粋な妄想として、特定の思考が脳裏をよぎることは避けられない。
もしその思考がSIDによって捕捉され、社会的に「不適切」と評価された場合、その思考を「制御できなかった」こと自体が、倫理的な責任を問われる対象となるのだろうか?
それとも「SIDを通じて受け取った側が不快に感じた」ことこそが問題なのだろうか?
SID社会では、他者の思考が直接共有されるため、意図せず他者の内心の「不快な」思考を受け取ってしまう現実があった。
この場合、倫理的な責任は、思考を発した側にあるのか、それとも受け取った側の「感受性」に帰属するのか、という問題が生じたのだ。
この「無意識の責任」という問いは、かつての「言った/言ってない」論争を遥かに超越し、人間の自由意志の範囲そのものを再定義することを迫る、きわめて根源的な問いとなったのである。
倫理は、もはや「表に出された言葉や行動」に対する評価ではなく、「内心のデータ」に対する評価へとその対象を拡大していった。




