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「思考の開示社会」の到来と倫理の崩壊:内面の聖域の喪失

2058年が終わる頃には、SIDは社会の生命線とも呼べる基盤インフラとして完全に普及した。


都市の隅々までSIDネットワークが張り巡らされ、多くの人々がSIDを日常的に装着する「プラグド(Plugged)な生活」を送るようになった。


「思考が通信となる時代」が現実のものとなり、私たちの心の中は、もはや私的な領域ではなくなったのである。



かつて、私たちの心の中は、最後の私的な領域であり、他者から完全に遮断された「思考の聖域」であった。


どれほど親密な関係であっても、言葉にされなければ、行動に移されなければ、その内心が他者に直接伝わることはなかった。


倫理とは、その「言葉」や「行動」といった表に出された行為に対する責任を問う体系であった。


しかし、SIDは、この根源的な前提を破壊したのである。



SIDによって、人間の言葉になる前の思考がリアルタイムで読み取られ、ネットワークに共有される「思考の開示社会」が実現した。


これはもはや、単なるテレパシーの科学的実装に留まらない。


私的な内面の最後の砦であったはずの心の中すら、通信網を通じて他者に届くようになったことで、「考えたこと」「思ったこと」が「表明されたこと」と同義になってしまったのである。



この衝撃は、従来の倫理体系を根本から崩壊させ、人間の責任の構造を根底から揺さぶった。


なぜなら、倫理の対象が「行為」から「内心」へと、強制的にスライドしたからである。


この変化は、思想史における倫理の議論、すなわち「意図と結果」や「自由意志と決定論」といった長年の問いに、新たな、そしてきわめて実践的な側面をもたらした。


従来の倫理は、例えば「殺意があっても殺さなければ罪ではない」というように、行為の結果や、それが社会に与える影響を重視する「行為ベース」の倫理であった。


しかし、SIDは、あなたが街中ですれ違った人物に一瞬抱いた「嫌悪」や「性的関心」、あるいは刹那的な「暴力衝動」といった、無意識下の思考や感情の連鎖を、SIDを通じて即座にログ化し、SID共振インデックスとして記録するようになってしまった。


このとき、問題となるのは、「思考を制御できなかった」ことに罪があるのか、それとも「SIDを通じて受け取った側が不快に感じた」ことこそが問題なのか、という倫理的葛藤である。


倫理が内心にまで及ぶことで、私たちは「無意識の責任」という、これまでほとんど問われることのなかった問いに直面してしまった。


人間の思考は、意識的なコントロールが及ばない無意識の領域から湧き上がる部分も大きい。


SIDは、その「無意識の瞬間」までをも他者に晒してしまう。


このとき、人間は自身の無意識に対して、どこまで責任を持つべきなのか?

これは、かつての「言った/言ってない」論争を遥かに超越し、人間の自由意志の範囲そのものを再定義することを迫る、根源的な問いとなってしまったのだ。


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