中央集権型プラットフォーム・ガバナンスの限界と課題
21世紀初頭から中期にかけて、インターネットの主要なサービスは、Google、Apple、Meta、Amazon、そしてVISAやMastercardといった、ごく少数の中央集権型プラットフォーム企業によって支配されていた。
これらの企業は、自社のサービスを運営するために、独自の「利用規約」や「コミュニティガイドライン」を策定し、そのプラットフォーム上で何が許され、何が許されないかを一方的に決定する権力を持っていた。
このガバナンスモデルは、その効率性と利便性において一定の成功を収めたが、同時に深刻な課題を抱えることとなった。
ガイドラインの策定プロセスは、多くの場合、企業の内部で閉鎖的に行われ、外部からの検証や民主的な合意形成のプロセスを欠いていた。
これにより、ガイドラインの判断基準が不透明であり、恣意的に運用される可能性が常に存在したのである。
クリエイターは、自身の作品がなぜ、どのような基準で「不適切」と判断されたのか、明確な説明を得られないまま、アカウント凍結やコンテンツ削除といった制裁を受けることが多々あったのだ。
プラットフォーム企業は、自社のプラットフォームを「私的空間」であると主張し、憲法上の表現の自由の保障は適用されないと考える傾向にあった。
しかし、彼らのサービスは、現代社会において情報流通のインフラとして極めて公共性の高い役割を担っており、その判断が社会全体の表現の自由に大きな影響を与えることは明らかであった。
企業は、自社の企業イメージや株主価値を守るために、法的基準よりも厳格な「自主規制」を敷き、結果として多様な表現、特に性的な表現や社会的に議論を呼びやすいコンテンツを排除した。
これは、表現の自由が、特定の企業の倫理観によって私的に管理されるという、新たな権力構造を確立したことになったのである。
ユーザー生成コンテンツ(UGC)の増加に伴い、プラットフォームが「中立的な場」であると主張しながら、一方でコンテンツに対する責任を問われるというジレンマに直面した。
しかし、具体的な問題が発生した場合、誰が最終的な責任を負うのか、その所在は曖昧なままであった。
これらの課題は、中央集権型プラットフォーム・ガバナンスが、現代社会の多様な価値観と表現の自由を包摂しきれないという限界を示していたのである。




