「倫理」が「怖い」と感じられる理由の深層:表現の自由の窒息
このような倫理の変容は、私たちクリエイター、そして表現の自由を愛する人々にとって、深い不安と恐怖を呼び起こす。
なぜ「倫理」という「善」の概念が、これほどまでに「怖い」と感じられるのだろうか?
その深層には、倫理が持つ「曖昧性」「不透明性」「非民主性」といった本質的な問題が横たわっている。
「公序良俗に反する」「社会的に不適切」「ユーザーに不快感を与える」といった倫理的基準は、しばしばきわめて曖昧であり、その解釈は恣意的である。
この曖昧性が、特定の表現を排除するための「便利な口実」として用いられ、結果的に表現の自由を不当に抑圧するツールとなる。
特に、性癖のような多様で個人的な領域においては、この曖昧な基準が、表現の多様性を窒息させる。
企業倫理やAIの倫理プロトコルは、多くの場合、外部からは見えないプロセスで策定され、その判断基準は不透明である。
誰がその倫理を定義し、誰がその基準を決定するのか、クリエイターや一般市民には知る術がない。
この非民主的性格は、倫理が特定の利益集団や多数派の価値観を反映したものであるにもかかわらず、「普遍的な善」を装って強制されるという不信感を生む。
国際的なプラットフォームやAIが適用する「グローバル倫理」は、地域固有の文化や社会規範と衝突する。
例えば、日本の漫画・アニメ文化におけるデフォルメされた性表現は、欧米の倫理観では「児童ポルノ」と見なされ、一律に排除されることがある。
これは、倫理が特定の文化圏の価値観を他者に押し付ける「文化帝国主義」の側面を持つことを示しており、文化的多様性を損なう。
最終的に、「倫理」は、個人の思考や感情、そして存在そのものを管理するための強力な道具となる恐怖を私たちに与える。
SIDによる内心の可視化、AIによる欲望の最適化、霊子技術による意識への介入は、倫理が、人間の自由な意志や逸脱の可能性を排除し、社会を「健全」な状態に管理するための、究極のシステムへと変貌した。




