戦いの本質:存在論的抵抗としての表現
私たちが語る「最前線」とは、単なる物理的な場所を指すのではない。
それは、経済的支配の網、AIのアルゴリズム、SIDの集合的良識プロトコルといった、多層的な権力の圧力に抗い、人間の欲望と存在の自由を主張する、精神の内面における戦いである。
ここで、私たちは再び、本書の根源的な問いを提示しなければならない。
あなたの性癖は、誰の許可を得て存在しているのか?
この問いは、単なる修辞ではない。
それは、国家の法律、企業の倫理ガイドライン、社会規範、そしてAIの学習モデルやSIDの「集合的良識プロトコル」が、私たちの性癖の存在そのものを規定し、許容範囲を定めようとする試みに対する、明確な異議申し立てである。
かつては、国家が公序良俗の名の下に、性表現を法律で規制した。
これは直接的な権力による検閲であり、多くの表現者が逮捕や処罰の対象となった。
21世紀に入ると、決済インフラやプラットフォーム企業が、その経済的・市場的支配力を行使し、「企業倫理」という名の下に、表現の流通経路を断ち切ることで、間接的な検閲を行った。
これは「金にならなければ存在しない」という、資本主義的検閲の原理を確立した。
AIの登場は、この企業倫理をアルゴリズムとしてコード化し、自動的・大規模に表現を検閲するシステムを構築した。
AIは、特定のプロンプトや出力結果をブロックすることで、クリエイターの創作活動に直接介入し、表現の「健全性」を強制したのだ。
そして2058年、SIDの普及は、検閲の対象をコンテンツから個人の思考、感情、そして潜在的な欲望へと拡大させた。
SIDの「集合的良識プロトコル」は、私たちの内心の性癖をリアルタイムで評価し、「倫理スコア」を付与することで、自己検閲を内面化させ、社会からの同調圧力を強化する。
これらの多層的な支配に対し、「性癖が個人のものである」という主張は、単なる趣味の擁護ではない。
それは、人間の「自己決定権」と「自由な意志」の最終防衛線であり、存在そのものへの不当な介入に対する、存在論的抵抗となったのである。