2060年代の基盤テクノロジーが「萎縮」を加速させる様態
2060年代に普及した基盤テクノロジーは、この「萎縮」のメカニズムを、かつてないほどに加速させ、その影響を個人の思考や存在そのものにまで及ぼすようになった。
これは、単なる「表現の制限」を超え、「人間の自由な意志」を根源から蝕む、きわめて深刻な問題であったのだ。
SIDの普及は、ユーザーの内心の思考や感情、さらには潜在的な欲望までもがリアルタイムで可視化され、評価される「思考の開示社会」を到来させた。
これにより、クリエイターは「考えただけで評価される」という極度のプレッシャーに晒されるようになってしまった。
SIDは、ユーザーの思考フローを匿名化・分散処理し、「集合的感情AI」を通じて「倫理的共感マップ」を生成する。
このマップに基づき、個人の思考パターンや性癖は「倫理スコア」として評価される。
倫理スコアが低いと判断された場合、それはユーザーのSIDデバイスに直接フィードバックされ、社会的な評価の低下や、特定サービスへのアクセス制限に繋がる。
このシステムは、クリエイターに自己検閲を意識的・無意識的に強化させ、本来描きたかった衝動を内側から抑制する状況を生み出した。
SIDが構築する「集合的良識プロトコル」は、多数派の共感や規範をリアルタイムで反映し、個人の内面に同調圧力をかける。
性癖が「共感されないことへの孤独」という新たな「恥」へと変質することで、クリエイターは社会から孤立することを恐れ、自らの表現を「健全な」範囲に調整しようとする。
これは、「透明なパノプティコン」の実現であり、クリエイターは自身の内心に「見えない監視者」を常に意識せざるを得ない。
AIは、ユーザーの過去の行動履歴やSIDデータから、その「潜在的性癖」を予測し、最適化されたコンテンツを提示する。
このプロセスは、クリエイターに「自分の欲望がAIによって『誘導』されているのではないか」という疑念を抱かせ、自身の性癖が本当に純粋なものなのかという問いを突きつける。
遺伝子技術の進歩は、人間の「創造性」そのものが遺伝子レベルで最適化された。
AIが提供する「設計された創造性」という概念は、クリエイターの「自発性」や「説明不可能性」といった人間固有の創造性を侵食し、創作の魂を奪ってしまうのだ。
遺伝的に「倫理的に適合した」あるいは「効率的に創造的な」能力を持つ人間が優遇される社会では、そうでないクリエイターは精神的な疎外感や諦めを感じ、創作意欲を喪失する方向へ向かう。
AIが生成する完璧で無菌状態の表現に囲まれる中で、クリエイター自身の不完全な、しかし魂の篭った創作があったとしても、それは「意味がない」と感じる無力感が増幅される。
AIは、倫理フィルターによって特定の表現を排除する一方で、それ以外の表現については、人間を凌駕する品質で大量生産していた。
これにより、クリエイターは「AIが作れるなら、自分が作る意味はないのではないか」という存在論的な問いに直面し、創作意欲が根底から減退せざる状況に陥ったのだ。
霊子技術やサイコソニック、インセプトロンといった技術は、感情や思考に直接介入する。
これにより、企業や組織が、クリエイターの創作意欲そのものを操作したり、特定の倫理基準に合致するような思考パターンを強制したりする危険性が浮上した。
SIDネットワークからあえて外れる「アンプラグド」な人々が利用する電子ドラッグは、一時的に創造性をブーストする一方で、精神的な依存や破壊をもたらし、結果的に魂を蝕んでいった。
この肉体性と非同期的な刺激を求める行為は、精神の健全性を損ない、創作意欲を減退させた。
意識が外部から操作されうる状況下では、「自由な意志」という概念そのものが希薄化する。
クリエイターが「自らの意志で描いている」という確信を持てなくなったとき、創作は単なる外部からの命令の実行へと堕落し、最終的には「自己放棄」に繋がっていった。
プラグド/アンプラグド、正規SID/シャドウSIDといった格差は、創作の機会と自己表現の範囲を直接的に制限した。
経済的・存在論的排除が、表現者自身のアイデンティティを揺るがし、萎縮を加速させた。
アンプラグドはAIの恩恵を十分に受けられず、シャドウSIDユーザーは倫理的リスクを負う。
この格差は、創作の多様性を損ない、社会全体の文化的な豊かさを失わせた。




