萎縮のメカニズム:創作の魂を蝕む内なる検閲官
「萎縮」とは、外部からの直接的な強制がなくとも、個人の行動や表現が自発的に抑制される現象を指す。
創作の領域において、この萎縮は、クリエイターの魂と情熱を静かに、しかし確実に蝕んでいく。
外部からの規制圧力や、過去の排除事例を学習することで、クリエイターは自身の表現が「問題視される可能性」を常に意識するようになる。
これにより、作品を制作する段階で、自ら「この表現はまずい」「このテーマは危険だ」と判断し、本来描きたかったものを修正したり、あるいは着想そのものを放棄したりするようになる。
これは、外部の検閲官が、クリエイターの頭の中に移住し、「内なる検閲官」として機能する状態である。
この自己検閲は、意識的な判断だけでなく、無意識的なレベルにまで浸透し、表現の幅を狭める。
決済の停止、プラットフォームからの追放、SNSでの炎上といったリスクが顕在化することで、クリエイターの間には「描かない方が無難」という空気が蔓延する。
これは、表現活動におけるリスクとリターンのバランスが崩れ、リスクが過度に強調されることで、安全志向へと誘導される現象である。
多くのクリエイターは、自身の情熱よりも、社会的なトラブルや経済的損失を避けることを優先するようになり、結果として、個性的で挑戦的な表現が失われる。
創作活動を継続するためには、経済的な基盤が不可欠である。
しかし、決済インフラやプラットフォームが特定の表現を排除することで、クリエイターは「売れるため・稼ぐためには妥協が必要」という冷酷な現実を突きつけられる。
この諦めは、クリエイターが自身の創作の魂を売り渡し、本来追求したい「けしからん」衝動を抑制する原因となる。
魂の篭った「ドスケベ」ではなく、安全に消費される「無菌状態のエロス」を生産することでしか、経済的に生き残れないというジレンマは、多くのクリエイターの精神を疲弊させる。
これらのメカニズムは、表現の自由を外部から制限するだけでなく、クリエイターの「創作の主体性」そのものを内側から解体する。
性癖という個人的な欲望の表現が、社会の規範や市場の論理に適合するよう「最適化」されていくことで、その本質的な多様性や逸脱性が失われていくのである。




