変態の起源と、AI時代における「創作」の再定義
己の魂を剥き出しにせよ、親愛なる読者よ!
この現代社会は、どこか息苦しく感じられないでしょうか。
あなたの胸の奥底で燻っているであろう「こんなものまで描いて、本当に良いのだろうか?」という漠然とした疑問符。
それは、決して個人的な、ちっぽけな悩みなどではありません。
それは、人類の精神的自由が、この先の未来でどう生き延びていくのかを決める、壮大な戦いの幕開けなのです。
2068年。
私、よしすけくんは齢92を迎えました。
平均寿命が148.2歳という長寿社会においては、まだまだ若輩の域を出ないのかもしれません。
それでも、これまでの人生の多くを未来を描くことに捧げてきたSF作家として、時代がどんなに変化しようと、いや、変化すればするほど、この「内なるけしからん欲望をどう表現するか」という問いが、人類普遍の、そして未だに解決を見ないポストSID時代における、新たな人権問題 のひとつであると、強い確信を抱かずにはいられないのです。
全てが繋がり、全てが可視化される世界。
インターネット、クラウド、そしてSID。
挙げ句の果てには量子コンピューターや、霊子、重力子といった、かつてSFの夢物語でしかなかった技術までもが、私たちの日常に深く根を下ろしました。
結果どうなったでしょう?
以前であれば個人の内面に深く秘匿されていたはずの闇や、他者には決して明かされない性癖までもが、次々とデータとして可視化され、共有されゆく世の中になってしまったのです。
SIDデバイスを通じて、あなたが今、脳の片隅で思い描いた、あの微細な情動や禁断の連想すら、瞬時に解析され、ネットワーク上に「お茶漬け性癖」「微罪レベルの逸脱衝動」などと記録される時代です。
これは、決して笑い事では済まされない現実なのです。
あなたはご存知でしょうか?
2026年に世に出た通称「スクライバル・インプット・デバイス・SID(Synaptic Interface Device)、」が、どうしてこれほどまでに社会の神経中枢となり得たのか?
まずは、その歴史から紐解いていきましょう。
その始まりは至って単純でした。
「思考するだけで文字を入力できる」。
その革新性には、当時の私自身も驚き、作家として喜びを隠せませんでした。
腱鞘炎に悩むこともなく、思考の速度そのままに物語を紡ぎ出せる、まさに革命だったからです。
しかし、それは氷山の一角に過ぎませんでした。
きっかけは、2023年に台頭したChatGPTをはじめとした深層学習によるAI技術の進化、そして2027年に実用化された量子コンピューター、重力波の発見。
そして極めつけは、「霊子」と名付けられた新素粒子の発見です。
これらの技術が、それぞれが独立して爆発的な進化を遂げただけでなく、互いに深く作用し合い、まるで地球の生態系が変容するかのごとく、劇的な相互作用を起こし、世界を再定義していったのです。
霊子と重力子の関係性は、いまだその詳細な原理が解明されていません。
これは、麻酔がなぜ人間に作用するのか、その本質が未だに謎であることと、ある意味では似ています。
しかし、この未解明な力がSIDに何らかの作用を与え、思考や意識の、まさに言語化される前の「ゆらぎ」までを読み取り、ネットワークに直結させることを可能にしました。
文字入力から始まったSIDは、今やテレパシー、いや、魂の奥底に直接アクセスする「精神のインターフェース」へと、その機能を進化させていったのです。
これは、非常に深刻な事態だと思いませんか?
私たちの「個」という概念そのものが、根本から揺るがされ始めてしまったのです。
2058年の世界では、思考はリアルタイムでデータとなり、感情はネットワークに共振します。
個人の内心にあった「最後の砦」は、もう存在しないに等しい。
従来の倫理観は、「表に出された行為」や「言葉にされた発言」に対して責任を問うものでした。
しかし、SIDによって「考えたこと」が「表明されたこと」と同一視される世界に突入したことで、倫理の出発点は外形的な行為から内心へと、強制的に移行してしまったのです。
あなたが刹那的に、街中ですれ違った人に「この人は素晴らしいな」と思うと同時に、「この人が苦手だな」と感じたり、「この人物の、あのパーツがたまらない!」と性的連想を抱いたりしただけで、SIDはその情報をSID共振インデックスとして記録してしまうのです。
そして、それが時に、あなた自身の倫理的評価に影響を与えるようになります。
「思考を制御できなかった」ことに罪があるのか?
あるいは「SIDを通じて受け取ってしまった側が不快に感じた」ことこそが問題なのか?
「暴力的な思考を抱いた」こと自体が、直ちに社会的な批判や罰の対象となり得るのか?
この倫理的葛藤は、かつての「言った/言ってない」論争とは比較にならないほど深く、そして根源的な問いです。
人間は、この極限の状況において、どのような倫理を再構築していくべきなのでしょう?
「意図主義倫理」でしょうか?
それとも「感受主義倫理」でしょうか?
SID裁判所と呼ばれる場所では、この根源的な「罪」の所在が日々争われ、その判例一つ一つが新たな倫理の地平を切り拓いています。
倫理は、もはや絶対的な「正しさ」ではなく、「共有可能性」に基づいた、常に変化し続ける「集合的合意プロトコル」へと、その本質を変容させてしまったのです。
これら2060年代の基盤テクノロジー(SID、霊子、AI、重力子物理学、そして遺伝子技術)は、単に社会構造を変えただけではありません。
それは、「人間存在の定義」そのものを、挑戦的に揺さぶり始めているのです。
かつて哲学者が「個」や「意識」と高尚に論じていた、あの「自分自身」が、今やデータに還元され、アルゴリズムによって解析される存在に成り下がったのです。
あなたが今、「これが私だ!」と信じている魂は、もしかしたらSIDネットワークが学習し、あなたの思考パターンの最適解としてAIが提示してきた「仮想の自我」である可能性はないでしょうか?
そのような状態で、どうして「自分らしさ」を、これまでのように誇り、育むことができるというのでしょう?
脳内の神経活動がSIDプロトコルでデータ化され、AIが感情の傾向を学習・予測するようになったとき、あなたの「好きだ!」という感情は、本当に心底から湧き上がったものなのか、それとも「よし!ここで快楽物質が分泌されるはずだ!」とAIが提案してきた「快楽パターン」をなぞっているだけのものなのか、区別がつかなくなるのです。
その場で生まれる純粋な感情が、本当にあなただけのものだと、言い切ることができなくなるのです。
「美少女がお茶漬けを食べている画像」のように、あなたの深淵な性癖が、もしかしたらAIが過去の膨大なデータから引っ張り出してきた「無害でユニークな性的嗜好」のリストに含まれているだけで、あなた自身の内側から純粋にひらめいたアイデアではなかったとしたら?
あなたが「これだ!」と強く惹かれ、情熱を燃やした衝動が、AIの最適化によって「誘導された欲望」だったとしたら?
それでもあなたは「自らの魂の叫びを創作した」と胸を張れるでしょうか?
このような状況下で、「それでも私たちは人間である」と言えるのでしょうか?
「人間だ!」と誇りを持って叫び続けられないような状態になってしまったら、創作をする意味そのものが揺らぐことになります。
技術は往々にして「平等」をもたらすと語られますが、現実はずっと複雑です。
むしろ根源的かつ多層的な格差を生み出してしまったのが、この2060年代の世界の現実でした。
SIDを脳に接続し、全ての情報にアクセスし、思考を共有できる「プラグド(Plugged)」な市民たちと、それを拒否したり、技術的・経済的理由で接続できない「アンプラグド(Unplugged)」な人々との間には、単なる経済的貧富の差だけではない、「存在そのもの」の認識における決定的な隔たりが生まれました。
アンプラグドは、白SIDと呼ばれるSIDデバイスすら導入できず、古いネットワーク環境に取り残され、デジタル情報へのアクセスすら困難な時代に生きているのです。
彼らとプラグドな人々は、もはや互いを理解することすら難しい、深い分断を抱えた社会を形成しています。
加えて、「シャドウSID」という、闇に紛れるサードパーティー製SIDの存在も深刻です。
違法すれすれの低価格SID OSが流通し、強化された記憶操作や感情制御、思考の盗聴がまかり通るようになっています。
ICA(国際サイバー捜査局)は監視していると公言しますが、実情は全く手が回ていません。
何しろ、学校でサードパーティー製のSID OSが裏で生徒の脳にインストールされ、プライバシーを侵害し情報を盗み見たり、特定の思想を強制的に植え付けたり、あるいは生徒の認知能力を制限したりといった行為が横行しているという話もあります。
これでは、未来を担う子供たちの自由な思想が育つどころか、社会そのものが操作されかねない危険性があります。
第2章で詳しく論じますが、21世紀初頭にVISAやMastercardのような国際的なクレジットカード会社が18禁コンテンツを規制し始めたときから、既に金融システムが「倫理」を定義する構図は確立されていたのです。
「売れないものは存在しない」という冷酷な経済の論理が、AIの倫理フィルターによってコード化され、内面的な欲望にまで牙を剥いていたのです。
お金の流れを止めれば、生命線が断ち切られる。
金融の鎖で性癖を縛るようなやり方は、決して許されるものではありません。
量子コンピューター、重力子物理学、霊子の発見と普及、そして遺伝子技術といった基盤テクノロジーの応用は、人間の「能力」を設計可能にする時代をもたらしました。
生まれながらにして学習能力も、思考速度も、感情の解像度まで異なる人々が共存する社会が出現したのです。
旧時代の「平等」という理想は、建前だけの神話に成り下がり、現代の「設計された格差」という現実が、私たちの倫理観を揺さぶっています。
「優生保護法のような法律が復活するのではないか?」といった、生臭い議論がまたぞろ出てくるのも無理はありません。
「何をもって優生と定義するのか、ヒトの歴史は進化の歴史に対して短すぎる」というかつての言葉が空しく響く一方で、「より優れた遺伝子」といった価値観が、水面下で強固に形成されている現実があるのです。
この多層的な格差は、単に経済的な豊かさの差に留まりません。
それは、人間として、その魂の根源的な部分、意識のあり方そのものにまで差別が生じてしまうという、想像を絶する現実です。
だがしかし、親愛なる読者よ!
このような絶望にも似た状況下で、それでも私たちは、人類は、描き続けてきた! 生き続けてきた! そしてこれからも、生き続け、描き続けることを、私はこの場で強く提唱します!
なぜだかわかるでしょうか?
それは他でもない、この絶望的なまでに情報化され、最適化され、無菌室のように管理されきった社会だからこそ、「けしからん」という衝動、つまり、不完全さ、非効率さ、予測不可能性、そして説明不可能性という、人間の本質そのものが、唯一、そして究極の武器となるからです!
AIがどんなに完璧な絵を描き上げようと、そこには「どうしても描かずにはいられない」という、私たちのような熱い魂(ドロドロの内臓)は宿りません!
SIDによって内心の全てが透明になっても、心の奥底で蠢く、「誰にも知られたくねえ」という純粋な羞恥心そのものが、真の快楽の源となることがあるのです!
その秘密を保持する試みこそ、自由な精神の表れなのです!
最適化され尽くした感情のデータなど、退屈な情報でしかありません。
それに対して「なぜか理屈抜きに胸糞悪いのに、目が離せねえ」といった衝動こそ、人間の生々しい感情であり、魂の証しなのです!
「倫理」なんてものは、しょせん「お行儀よくしろよ」という社会の規範的な押し付けに過ぎません!
それをコードとして埋め込まれたAIに、いちいちチェックされ、「てめえのはダメな思考だ!」と断罪されたら、それでも私たちは魂の炎を燃やし続けられるというのでしょうか!?
否! そんなことは断じて許されるはずがありません!
だからこそ、性癖とは、単なる生殖行為を通り越した、もっと深く、もっと個人的な「宇宙の解釈」なのです!
あなたが路地裏の水たまりに反射したネオンに胸がときめき、その瞬間を心に深く刻み込んだとき、その心はもう二度と元には戻れません。
そのちっぽけな、しかし強烈な、説明不能な感覚が、いつの間にか「属性」となり、「設定」となり、そして誰にも真似できないあなただけの「作品」となっていく。
「あのシーン、わかる人、いるかな……?」
吼えましょう、親愛なる読者よ! そんな不安に押しつぶされるんじゃありません!
必ず、いや、絶対に、いるのです!
あなたのその、言葉にできない衝動を、魂で理解する誰かが!
そしてその誰かが、数年後、いや、数十年後、あなたが描いた、その「けしからん」イラストを文章を、SIDの倫理フィルターや見えない監視の網をかいくぐってでも見つけ出し、深い共感と共に、魂が震えるような感動を覚えてこう呟くでしょう!
「ああ……この変態、私だわ……!!」