「個人」の終焉とは何か?:デカルト的コギトの揺らぎ
近代哲学において、「我思う、故に我あり(Cogito, ergo sum)」というデカルトの命題は、個人の意識と自律性を確立する、揺るぎない基盤として機能してきた。
そこには、他者から侵されることのない、独立した「私」という存在の確信があった。
しかし、SIDがもたらした「思考の開示社会」は、この近代的主体の前提を根底から揺るがしている。
「個人」の終焉とは、物理的な消滅を意味するのではない。
それは、哲学的な意味での「自律性」「唯一性」「不可侵性」といった概念の溶解であり、「私」という存在が、ネットワークと集合的意識の網の目の中に埋没し、その境界線が曖昧になる現象を指す。
SIDによって思考がリアルタイムで共有されるようになったことで、個人の思考はもはや「私だけのもの」ではなくなった。
他者の思考や感情が直接的に脳に流れ込み、自身の思考と混じり合う中で、「どこまでが自分の考えで、どこからが他者の影響なのか」という区別が困難になる。
これは、自己の内部と外部の境界を曖昧にし、個人の意識が「集合的なもの」の一部として認識されるようになるプロセスである。
SIDは、感情をデータとして解析し、その共振パターンを可視化する。
これにより、特定の感情がネットワーク上で「共鳴」し増幅される現象が頻発する。
個人の感情は、もはやその個人に固有のユニークなものではなく、ネットワーク全体で共有され、増幅される「波」の一部として認識されるようになる。
これは、感情の「唯一性」を薄め、個人の感情が「集合的な情動」へと還元されることを意味する。
思考開示社会において、プライバシーの概念は「何を隠すか」から「何を共有するか」へと根本的に変容していった。
SIDは、個人の意思とは無関係に内心の思考を捕捉しログ化する。
これにより、かつて不可侵とされてきた「内心の自由」や「思考の聖域」が崩壊し、個人は常に「見られている」という透明な監視下に置かれるようになった。
これは、個人の「自律性」が、外部のシステムによって根源から脅かされることを意味していた。




