「恥」なき社会における欲望の行方:それでも「けしからん」は生き残るか?
「恥」の再定義と「センシティブ」概念の終焉は、私たちにきわめて根源的な問いを投げかける。
もし「恥」が消失し、内心のすべてが透明になった社会で、人間の欲望、特に「けしからん」衝動は、どのようにして存在し続けるのだろうか?
倫理プロトコルによって「健全」に最適化された欲望は、その本質的な多様性や逸脱性を失い、退屈なものへと変質する。
これは、第2章で論じた「マイルド化」の究極の形であり、文化の「熱死」へと繋がる。欲望が無菌化したことで、はたしてそれは欲望であり続けることができるのだろうか?
この極限の透明化と最適化の中で、人間は「不完全性」や「わからなさ」といった、AIには理解できない本質を、より強く求めるようになっていった。
霊子技術や遺伝子技術によって「設計された」倫理観や感覚を持つ人々が増える中で、あえて「センシティブを感じる」「恥を感じる」「理解されない」という経験を求める者たちが現れたのである。
彼らは、この「不完全さ」の中にこそ、人間性最後の砦を見出した。
恥」が再定義され、社会的な圧力が内面にまで及ぶ中でも、人間の「けしからん」衝動は、完全に滅びることはなかった。
それは、管理の網の目を掻い潜り、新たな表現の形を模索し続けたのだ。
AIのフィルターをバイパスする「プロンプトハック」や、非正規SIDの利用、あるいはオフラインでの活動など、抵抗の形は多様な形から始まった。。




