倫理の構造と本質:その非民主的性格
企業倫理という概念は、一見すると「社会的責任」や「公正さ」といった肯定的な価値を内包しているように見えます。
しかし、その実態は、公共の福祉や民主的な合意形成に根差すものではなく、むしろ企業の自己保全的論理と特定の利益集団の価値観に深く依拠しているのです。
企業倫理の最も根源的な動機は、株主への責任、すなわち企業価値の最大化にあります。
ですから企業としては、ブランドイメージの維持・向上、そしてレピュテーションリスクの回避が不可欠かつ最優先の行動指針になります。
性的な表現、特に一部で議論の対象となりやすいコンテンツは、企業のブランドイメージを損なう「リスク」と見なされやすいわけですね。
このリスクを回避するため、企業は、たとえ合法的な表現であっても、自社の「倫理基準」に合致しないものを排除する傾向になるのは正しい態度ということになります。
これは、倫理が「企業の経済的合理性」に従属する構図を示しているわけです。
法的リスク、風評リスク、金融システムからの排除リスク(チャージバックリスクなど)は、企業にとって事業継続を脅かす要因でしかありません。
企業はこれらのリスクを最小化するために、予防的措置として、表現内容にまで介入すようになるのは自然なことです。
この「リスク管理」は、多くの場合、法的基準よりも厳格な「自主規制」という形を取るようになります。
しかし、この自主規制は、外部からの圧力や批判をかわすためのものであり、表現の自由を積極的に擁護するものではないのです。
むしろ、リスクを回避するために、表現の多様性を犠牲にすることを厭わない傾向にあります。というかそうならざるを得ない。
企業倫理の基準は、多くの場合、公開された民主的な議論や、専門家による厳密な審査プロセスを経て策定されるものではありません
企業の内部委員会や法務部門、あるいは少数の役員によって決定され、その判断基準は不透明になりがちです、その場の空気、あるいは忖度という明文化されない文化的背景に支配されています。
結果、表現の排除が恣意的に行われるように強化されるのです。
そんなわけで、クリエイターは、自身の作品がなぜ、どのような基準で「不適切」と判断されたのか、明確な説明を得られないまま、市場から排除されるという不条理に直面してきました。
国際的な巨大企業は、その主要な市場(多くの場合、アメリカやヨーロッパ)の倫理観や社会規範を「グローバルスタンダード」として、世界中のサービスに適用しようとする傾向が強かったのです。
しかし、文化や社会規範は地域によって大きく異なります。
例えば、日本のアニメや漫画文化における性表現のデフォルメや、特定のフェティシズムは、欧米の倫理観からは「児童虐待」や「性的搾取」と誤解され、一律に排除されることが少なくなかった。
これは、倫理が「普遍的な正義」を装いながら、実際には特定の文化圏の価値観を他者に押し付ける「文化帝国主義」の側面を持つことを示しています。
日本の表現文化が、このグローバル倫理の圧力によって、その独自の発展経路を歪められてきた歴史は、その典型的な事例となっています。
これらの特性は、企業倫理が、公共の利益や表現の自由といった民主的価値とは異なる、独自の論理で機能していることを明確に示していました。