「買えない」ことは、「存在しない」に等しい:21世紀初頭の静かなるクーデター
前章では、性癖という人間の根源的な情動が、AIの登場とSIDの普及によっていかにその定義と表現の場を変容させてきたかを論じた。
性癖が「宇宙の解釈」となり、AIが「妄想の共振装置」として機能する中で、その表現は「タグ」から「プロンプト」へと進化し、その過程で「わかる人だけわかる」という特殊なコミュニティが形成されてきたことを指摘した。
しかし、このような表現の進化と共同体の形成は、常に外部からの強力な圧力に晒されてきたのである。
本章では、その圧力の根源である「プラットフォームと規制の倫理」、特に「経済的検閲」が、いかに性癖の表現を殺し、あるいは変質させてきたか、その歴史的経緯と、2068年におけるその影響を詳細に分析する。
2020年代、生成AIの黎明期。
私たちはAIによる「表現の自動検閲」という、新たな脅威の到来に心を奪われていた。
だが、その影で、あるいはそれと並行して、もっとはるか以前、21世紀初頭から「表現の自由」を深く蝕む、別の、しかし強大な「検閲システム」が既に稼働していたことを忘れてはならない。
それは、国家でも、特定の宗教でも、政治思想でもなかった。
その検閲者は、驚くべきことに「決済インフラ」であった。
VISA、Mastercard、American Expressといった国際的なクレジットカード会社、そしてPayPalのような大手決済サービスプロバイダー。
彼らは21世紀初頭、特にインターネット上での18禁コンテンツや、性的な要素を含む表現に対する、一方的な「規制」を始めたのである。
この規制は、多くの場合、明確な法的根拠や公開された基準に基づくものではなく、決済会社の内部的な判断、あるいは外部からの「社会的圧力」に応じて、恣意的に行われた。
「この販売サイトでは、弊社カードはご利用いただけません。」
「貴社コンテンツは、当社の利用規約に反します。決済サービスの提供を停止します。」
無慈悲で、そして一切の議論を許さないその通告は、同人作家を含む数多のクリエイターにとって、まさに「経済的死刑宣告」に等しかった。
作品がどれほど芸術的価値を持とうと、どれほど熱心なファンがいようと、「買えない」ということは、実質的に「存在しない」に等しいのである。
即売会のようなオフラインの場を除けば、DL販売も、サブスクリプションサービスも、すべて決済システムを介する。
その金の流れを止められることは、表現活動の生命線を断ち切られることに他ならなかった。
なぜ、単なる金融インフラを提供する民間企業が、表現の「合法性」や「適切性」の判断基準、ひいては「倫理」のボーダーラインを決める権力を持つに至ったのか? その理由は、極めてシンプルかつ冷酷な資本主義的構造にあった。
市場の支配力とインフラの独占: クレジットカード決済は、インターネット取引における最も普及した決済手段であった。
デジタルコンテンツの流通が主流となる中で、クレジットカードや大手決済サービスなしには、国内外を問わず、多くの商品やサービスを販売することが不可能だったのだ。
決済インフラは、現代経済における事実上の「生命線」を握っており、そのインフラから排除されることは、市場からの追放を意味した。
これは、「経済的基盤の支配」が「表現の統制」に直結するという、現代資本主義社会における新たな権力構造を明確に示した事例である。
消費者が決済の取消を求める「チャージバック」という制度は、決済会社にとって大きな金融リスクとなった。
特にアダルトコンテンツにおいては、未成年者による不正利用、後からの家族による抗議、あるいは購入者の気が変わった、といった理由でチャージバックが発生しやすかったのだ。
決済会社は、このチャージバックによって発生する金融リスクや処理コスト、さらには企業イメージの毀損を回避するため、コンテンツの選別へと踏み込んだ。
これは、「リスク管理」という名の下に、「表現内容への介入」を正当化するロジックを確立したことを意味している。
カード会社は国際的な大企業であり、その社会的イメージは株価や事業継続に直結する。
特に「児童ポルノの排除」といった、社会的なコンセンサスが得られやすい大義名分を掲げることで、規制を強化する外部的な圧力(政府、非営利団体など)にも対応しようとしたのは無理もない。
しかし、この「社会的圧力への対応」は、しばしば「倫理的判断の外部委託」という形を取り、本来、複雑な議論を要する「表現の自由」の問題を、企業の「リスクヘッジ」という単純な方程式へと還元してしまった。
彼らは「金融機関」ではなく「民間企業」であるため、憲法に謳われる「表現の自由」といった法的拘束力から、基本的には外れた位置にあった。
ゆえに、この「検閲」は、裁判や法的プロセスを経ることなく、密室での判断で実行されていったのである。
これらの要素が複雑に絡み合い、結果として決済会社は、「コンテンツの種類を選別し、気に入らないものを市場から排除する」という、実質的な検閲機能を担うことになったのだ。
これは、国家や公権力による検閲とは異なる、「見えざる手」による、しかし強大な「資本主義的検閲(Capitalist Censorship)」の始まりであった。
文化の自由は、文字通り、金の流れに人質に取られたのである。
この「決済システムによる検閲」は、多様な表現の自由を、じわじわと、しかし確実に殺していくことになってしまった。
特定のフェティシズムや、社会的なタブーに触れるような18禁コンテンツは、これまでも販売場所が限定的だったが、この規制によって決済手段そのものを失った。ニッチコンテンツの流通路の閉鎖と市場の痩せ細りをさらに招いたのである。
クレジットカード会社が許さないコンテンツは、どれほど需要があっても、まともなチャージインフラに乗せることができなくなってしまったのだ。
「わかる人だけわかる」というコミュニティが築き上げてきた、多様な性癖の市場の、その生命線は断ち切られてしまったのである。
市場は、決済会社が「安全」とみなす、画一的で無難なコンテンツへと収斂していき、性癖の多様性は著しく損なわれた。
日本のアニメや漫画文化が育んできた、デフォルメされたり、独特の美的感覚を持った性表現も、国際基準のフィルターによっては容赦なく「不適切」と判断された。
これにより、多くの日本の同人作家やイラストレーターは、収益機会を失い、生活基盤が揺らいだ。
中には、リスクを承知で匿名性の高い海外プラットフォーム(あるいはよりダークな決済手段)へと拠点を移すクリエイターも少なくなかった。
これは、日本の表現文化が、グローバルな資本と倫理の圧力によって、その独自の発展経路を歪められた事例である。
クリエイターたちは「売る」ためには決済会社が許容する範囲に表現を健全化させるしかなく、次第に過激な表現を控えたり、本来描きたかったモチーフを修正したりするようになった。
これは、創作の根源である「けしからん」衝動を、内側から削り取っていく自己検閲の始まりであった。
魂の篭った「ドスケベ」ではなく、安全に消費される「無菌状態のエロス」だけが生き残るよう、市場は誘導されていったのである。
クリエイターの内心に、「描かない方が無難」という、見えない検閲官が宿るようになったのだ。
この21世紀初頭に発生した「決済による検閲」の経験は、その後のAIによる「倫理フィルター」や、2058年のSID社会における「集合的良識プロトコル」形成に、決定的な影響を与えた。
金融資本の論理と結びついた「リスク回避」の思考は、AIの倫理コードとして深く組み込まれることになる。
AIは、過去の膨大なコンテンツデータだけでなく、決済会社が「不適切」と判断したコンテンツの傾向をも学習し、それを自身の生成やフィルタリングの基準に組み込んだ。
これにより、AIは、単なる技術的ツールではなく、「資本主義的倫理の代理人」として機能するようになったのである。
そしてSIDによる「思考の共有化」が進むにつれて、「不快」と判断される個人の性癖を検知し、場合によっては社会的なスコア低下や排除へと繋がるプロトコルの根幹には、この「経済が倫理を定義する」という暗黙の前提が埋め込まれていたのだ。
私たちの内心の欲望が、SIDを通じてリアルタイムで解析され、その「共感インデックス」が低いと判断されれば、それは「倫理的に逸脱している」と評価され、社会的な排除のリスクを負うことになった。
我々が今対峙しているAIとSIDによる倫理フィルターは、21世紀初頭の、あの「決済の静かなるクーデター」の系譜の上に成り立っている。
つまり、「金にならなきゃ性癖は死ぬのか?」という問いは、時代を経てもなお、私たちに突きつけられている最も重要で、そして根源的な問いなのである。
2060年代の基盤テクノロジーは、この経済的検閲の様相を、さらに複雑かつ多層的なものへと深化させた。
SID、霊子、AI、重力子物理学の発見と普及、そして遺伝子技術といった要素が相互作用することで、「買えない」ことが「存在しない」に等しいという原則は、個人の思考、能力、そして存在そのものにまで及ぶようになったのである。
SIDの普及は、決済システムそのものにも革新をもたらした。
「NeuroPay」のように、ユーザーが自身のSIDと連動させることで脳から直接決済が可能になるシステムが全国に拡大した。
これにより、思考だけで決済を行うことも可能になった。
しかし、この利便性の裏で、決済会社やプラットフォームは、SIDを通じて得られるユーザーの思考ログや「共感インデックス」を基に、「潜在的な倫理リスク」を予測し、未然に取引を停止する機能の実装へつながった。
例えば、あなたが内心で「シャドウSID」を通じて違法なコンテンツをダウンロードしようと考えるだけで、あなたのNeuroPayアカウントが凍結される、といった状況が起きるようになってしまったのだ。
これは、かつての「作品が買えない」という物理的な制約を超え、「思考が金銭取引に結びつかない」という、存在論的な排除を意味する。
霊子の発見は、量子コンピューター上で動作する「QuantumBlockチェーン」といった新たな金融システムを誕生させた。
その処理能力とセキュリティの高さは、従来の金融システムを凌駕し、銀行や投資銀行の役割を解体するほどのインパクトを与えている。
しかし、霊子が情報をエンコードする能力を持つがゆえに、霊子レベルでの「倫理的違反」が検出された場合、瞬時に取引が凍結されるリスクが生まれる。
霊子は意識や感情と深く結びついているため、あなたの性癖や思想が「倫理プロトコル」に反すると判断された場合、それが霊子レベルで金融システムに影響を与え、あなたの資産や取引そのものが凍結されるのだ。
これは、経済的検閲が、目に見える行動から、目に見えない「意識の領域」にまで踏み込んだことを意味していた。
SIDを用いたAIアドバイザーは、個人の資産運用を変革し、ユーザーの思考や感情を直接読み取って最適な投資戦略を提案するようになっていた。
しかし、このAIが金融システム全体を「健全化」する過程で、特定の産業や表現分野への資金流入を自動で排除するメカニズムが働くようになってしまった。
AIは、その学習データに基づいて「リスクが高い」「倫理的に問題がある」と判断した投資先や取引を自動的にブロックするのである。
これにより、性癖コンテンツのような「倫理的グレーゾーン」の創作活動は、金融的支援を絶たれ、資金面で「存在しない」ものへと追い込まれる事態が発生した。
AIは、金融の守護者であると同時に、表現の番人ともなったのである。
「設計された格差」が顕在化する2060年代において、遺伝子技術は経済活動にも深く影響を及ぼすようになった。
特定の遺伝的特性や、SIDで測定される「倫理スコア」の低い思考パターンを持つ者が、特定の金融サービスや取引から排除される可能性が浮上している。
例えば、倫理プロトコルに合致しない性癖を持つ者、あるいは「反社会的な思想」の傾向がSIDで検知された者が、NeuroPayのようなSID連動型決済システムを利用できない、といった状況である。
これは、経済的検閲が、個人の表現や思想だけでなく、その「存在」そのものを経済活動から排除するという、究極の差別へと繋がってしまったことを意味していた。
この時期、量子コンピューターのコモディティ化は、金融取引の速度と複雑性を極限まで高め、新たな経済の牽引役となる「QuantumBlockチェーン」のようなシステムを誕生させた。
しかし、この超高速演算能力を持つアルゴリズムが、倫理フィルターを内包し、経済活動そのものが「倫理的に最適化」されていくようになった。
これにより、性癖コンテンツのような「倫理的グレーゾーン」は、経済的にもコモディティ化の対象外となり、市場から徹底的に排除されたのである。
量子レベルで「健全性」が保証された経済システムの中で、人間の「けしからん」欲望が入り込む余地は、もはやほとんど存在しなくなってしまった。
21世紀初頭に生まれた「金にならなきゃ性癖は死ぬのか?」という問いは、2060年代において、単なる商業的制約を超え、存在論的・思想的なレベルにまで及ぶ、極めて切実な問いへと深化している。
かつては、たとえ作品が売れなくても、作者の内面には「性癖」は存在し続けた。
しかし、SIDとAI、霊子といった基盤テクノロジーが融合した現在、経済的検閲は、単に「市場から排除する」だけでなく、「存在そのものを、認識の対象から消し去る」可能性を孕んでいるのだ。
もし、あなたの性癖が、AIのフィルターを通過せず、決済システムにも拒否され、SIDの倫理プロトコルによって「不快」と判断され、挙げ句の果てにQuantumBlockチェーンから「倫理的違反」として凍結されたとしたら、それは「社会的に存在しない性癖」として扱われることになる。
そして、そのような性癖を抱えるあなたは、経済活動から排除され、情報ネットワークからも孤立し、最終的には「存在しない人間」として扱われるのだ。
これは、人間の欲望が、技術と資本の論理によって、いかにその自由と存在を脅かされているかを示す、極めて重要な警告である。
しかし、この絶望的な状況だからこそ、私たちは「けしからん」という衝動を、再び見つめ直す必要がある。
なぜなら、その衝動の中にこそ、「経済的価値」や「社会的承認」といった外部の基準に囚われない、人間固有の、根源的な自由が宿っているかもしれないからだ。
前節では、21世紀初頭に国際的な決済インフラが「経済的検閲」という形で表現の自由を事実上制限し始めた歴史的経緯を詳細に分析した。
この「買えないことは存在しないに等しい」という原則は、単なる市場原理に留まらず、特定の「倫理」を経済活動に強制する強力な手段となった。
本節では、この「企業倫理」が、いかに憲法が保障する「表現の自由」と根本的に乖離しているかを深掘りし、2060年代の基盤テクノロジーがこの乖離をいかに強化し、人間存在の定義にまで影響を及ぼしているかを考察する。