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ライト文芸・エッセイ系

フィルター越しの涙に、さよならを ~路地裏カフェで待ってる~

作者: 相田栄依

 第一章 フィルター越しの憂鬱



 ガラス張りの壁が夕暮れの光を反射する都心の一等地に建つ高層ビル。

 その一角にある化粧品メーカー『Beaute Claireボーテ・クレール』のオフィスは、洗練されたデザイン家具と柔らかな間接照明で彩られ、まるでファッション誌の1ページを切り取ったかのようだ。


 木村佐和子きむらさわこ28歳。

 彼女はこの華やかな空間に所属する広報部の若きエースだった。


「佐和子さん、例のインフルエンサー、OK出ました!すごい さすがです!」

「ありがとうございます。でもこれからが本番ですから」


 後輩からの称賛に佐和子は完璧な笑顔で応える。

 指先は流れるようにキーボードを叩き企画書を仕上げていく。

 デスクの上には自社ブランドの新色リップがきれいに並べられ、傍らには有名フローリストが手掛けた小さなブーケ。

 それらはすべて彼女のSNSアカウント『Sawako_BC_PR』を彩るための小道具でもあった。


 休憩時間。

 佐和子はスマホを取り出し慣れた手つきでInstagramを開く。

 先ほど撮影したばかりの新色リップとブーケ、そして「#新作コスメ #PRの日常 #花のある暮らし」といったハッシュタグを添えた写真を投稿する。

 投稿ボタンを押した瞬間から彼女の意識は画面右上のハートマークに吸い寄せられる。

 すぐに点灯し始める「いいね!」の通知。

 一つ増えるたびに乾いた心に水滴が落ちるような束の間の安堵感が広がった。


『佐和子さん いつもお洒落で憧れます!』

『こんなオフィスで働けるなんて羨ましいです』

『まさに理想のキャリアウーマン!』


 寄せられるコメントは彼女が望む「木村佐和子」像そのものだった。

 容姿端麗で仕事もプライベートも充実している誰もが羨む存在。

 そう見られることでようやく自分の価値を確かめられる気がした。


 しかしふとPCのモニターがスリープモードに入り、暗転した画面に映し出されたのは完璧な笑顔とは程遠い疲れ切った自分の顔だった。

 目の下には消えないクマ。わずかに寄せられた眉間のしわ。

 画面の中の「理想の私」とここにいる「現実の私」との間には埋めがたいギャップが横たわっている。


 ここ数週間、来月に控えた大型新製品発表会の準備で佐和子は心身ともに限界に近かった。

 上司からは常に高い成果を求められ失敗は許されないというプレッシャーが重くのしかかる。

 部署内でもエースであるがゆえの嫉妬や見えない壁を感じることが少なくない。

 同期の気さくな会話の輪にもどこか一歩引いてしまう自分がいた。

 本音で話せる相手は社内にはいない。


 気づけば窓の外は完全な夜の闇に包まれていた。

 オフィスにはもう佐和子一人しか残っていない。

 キーボードを打つ音だけがやけに大きく響く。

 ようやく今日のノルマを終え大きく伸びをすると凝り固まった肩が悲鳴を上げた。


 帰り支度をする前にもう一度だけスマホを手に取る。

 さっき投稿した写真にはすでに数百の「いいね!」と数えきれないほどの好意的なコメントがついていた。

 その数字に一瞬だけ心が満たされる。

 けれどすぐに潮が引くようにもっと深い虚無感が押し寄せてきた。

 この数字は一体何なのだろう。

 この人たちは本当の私を知っているのだろうか。


 化粧室の大きな鏡の前に立つ。

 蛍光灯の下で見る自分の顔はSNSのフィルター越しとは違い誤魔化しようのないほど疲れていた。

 ファンデーションを落とせばもっと酷いのかもしれない。

 ふと学生時代の記憶が蘇る。

 容姿に自信がなくクラスの中心にいる華やかな子たちを遠巻きに眺めていた自分。

 どうすればあの子たちのようになれるのだろう。

 どうすれば誰かに認めてもらえるのだろう。


 そして過去の恋愛。

 SNSで作り上げた「理想の私」をそのまま現実でも求められ応えきれずに終わった関係。

「ありのままの君じゃ物足りない」。

 そう言われた時の痛みが今も胸の奥で鈍く疼く。


「これが……本当の私……?」


 鏡の中の自分に問いかける。答えは返ってこない。

 代わりに目頭がじわりと熱くなり一筋の涙が頬を伝った。

 慌ててそれを拭う。こんな姿誰にも見られたくない。

「完璧な私」でいなければ愛されない。

 その思い込みが呪いのように佐和子を縛り付けていた。


 誰もいないオフィスに戻り自分のデスクに突っ伏す。

 華やかな空間が今はただただ冷たく広いだけの箱のように感じられた。

 たくさんの「いいね!」もコメントもこの深い孤独感を埋めてはくれない。


 明日もまた完璧な仮面をつけて出社しなければならない。

 そう思うと息が詰まりそうだった。


 #####


 数週間後、佐和子が心血を注いだ新製品発表イベントは大成功のうちに幕を閉じた。

 メディアからの評価も上々でSNSでは早くもトレンド入りを果たしている。

 その夜都内のラグジュアリーホテルのバンケットルームで盛大な打ち上げパーティーが開かれた。


 シャンデリアがきらめき軽快な音楽が流れる会場。

 業界関係者やインフルエンサーたちが華やかに談笑する中、佐和子は今日の主役の一人としてあちこちから声をかけられていた。


「木村さん 今回のイベント本当に素晴らしかったわ!」

「さすがですね 佐和子さん!SNSの反応もすごいですよ」

「次回のコラボもぜひお願いします」


 差し出される名刺を受け取り完璧な笑顔で応対する。

 グラスを片手に優雅に立ち振る舞う姿はまさに誰もがイメージする「Beaute Claireの木村佐和子」そのものだ。

 しかしその笑顔の下では数週間にわたる極度の緊張と疲労が重い鉛のように体にのしかかっていた。

 早くこの喧騒から逃れて一人になりたい。そんな思いが頭をもたげる。


 ふと少し離れた場所で談笑している同僚たちの声が耳に入った。

 広報部の後輩と別の部署の女性社員だ。


「佐和子さんほんとすごいよね。仕事できるし綺麗だし完璧すぎ」

「わかるー。でもさ なんか完璧すぎてちょっと怖くない?」

「え そう?」

「だって人間味がないっていうか……いつも笑顔だけど本当は何考えてるかわかんないし」

「まあ確かに。私たちとは違う世界の人って感じ?」

「そうそう。ああ見えて裏ではめちゃくちゃ努力してるんだろうけど……もしかしたら一人で泣いてたりしてね」


 悪意はないのかもしれない。ただの雑談。

 けれどその言葉一つ一つが鋭いとげとなって佐和子の胸に突き刺さった。

「完璧すぎて怖い」「人間味がない」「違う世界の人」――それは彼女が最も恐れている評価だった。

 必死で築き上げてきた「完璧な私」が実は人を遠ざけ理解されない壁を作っているだけなのかもしれない。

 そして「一人で泣いてたりして」という言葉は図星だっただけに、より深く心を抉った。


 血の気が引いていくのがわかった。

 顔の筋肉がこわばり作り続けていた笑顔がひきつりそうになる。

 これ以上ここにいるのは無理だった。


「少し失礼します」


 誰に言うともなく呟き佐和子は足早に会場を後にした。

 きらびやかな光と喧騒が重い扉の向こうに遠ざかっていく。

 ホテルの静かな廊下を歩きながら早鐘のように打つ心臓を落ち着かせようと深呼吸するがうまくいかない。


 外に出るとひんやりとした夜風が火照った頬を撫でた。

 都会の喧騒が嘘のように静かな夜道。

 さっきまでの華やかな世界がまるで夢だったかのようだ。

 スマホを取り出すとイベントの成功を祝うメッセージやSNSの通知が画面を埋め尽くしている。

 でも今はそのどれもが空虚に感じられた。


『おめでとうございます!』

『さすが佐和子さん!』


 この人たちは会場で聞いたような陰口をまさか自分が叩かれているとは夢にも思っていないのだろう。

 キラキラした投稿の裏にある私の本当の気持ちなんて誰も気にも留めない。

 誰も本当の私なんて見ていないんだ。


 込み上げてくるのは激しい怒りよりもどうしようもない虚しさと孤独感だった。

 完璧を演じれば演じるほど本当の自分から遠ざかっていく。

 誰にも理解されないまま一人で仮面を被り続けるしかないのだろうか。


 その時だった。

 ぽつりと冷たいものが額に落ちてきた。

 見上げるといつの間にか厚い雲が空を覆い大粒の雨が静かに降り始めていた。

 あっという間に雨脚は強くなる。


 傘は持っていない。タクシーを拾う気力もなかった。

 佐和子はただ雨に打たれながら夜道に立ち尽くす。

 冷たい雨粒が髪を服を濡らしまるで心の奥まで染み込んでくるかのようだ。

 さっきまで必死で堪えていた涙が雨に紛れて静かに頬を伝い始めた。


 誰もいない道で一人きり。

 降りしきる雨の中で佐和子の孤独はいっそう色濃く深まっていくようだった。

 第二章 #完璧な私 の裏側



 冷たい雨は容赦なく佐和子の体を打ちつけていた。

 ブランドもののトレンチコートはぐっしょりと濡れ丁寧にセットしたはずの髪は乱れ顔には滲んだマスカラの筋がうっすらと浮かんでいる。

 もうSNSの中の「完璧な私」の面影はどこにもない。

 それでも足を止めることはできなかった。

 どこかへ行かなければ。この息苦しい現実から一刻も早く逃げ出さなければ。


 当てもなく濡れたアスファルトの上を歩き続ける。

 ホテルの華やかな灯りはとうに遠ざかり人通りの少ない裏通りに入り込んでいた。

 ネオンの光もまばらな静かな一角。

 ふと細い路地の奥にぼんやりと温かなオレンジ色の光が灯っているのが見えた。


 近づいてみるとそれは小さなカフェのようだ。

 古びた木の看板には掠れた文字で「Komorebi」と書かれている。

 こんな時間にこんな場所にカフェなんて。

 一瞬ためらったが雨風をしのげる場所があるならどこでもよかった。

 吸い寄せられるように重そうな木の扉に手をかける。


 カランとドアベルが乾いた音を立てた。

 一歩足を踏み入れると外の喧騒が嘘のようにぴたりと止みしんと静まり返った空気に包まれる。

 鼻腔をくすぐるのは芳醇なコーヒーの香り。

 店内は広くない。磨き込まれたダークブラウンの木のカウンターが奥へと伸び壁際には古い洋書が並んだ本棚。

 アンティーク調のランプが温かい光で店内を照らしている。

 まるでここだけ時間が止まっているかのようだ。


 カウンターの奥ランプの光が作る小さな円の中で一人の女性が静かに文庫本を読んでいた。

 長い黒髪を一つに束ね飾り気のないシンプルな服装。

 派手な美しさはないけれどその佇まいには凛とした清潔感とどこか人を寄せ付けないような静かな強さが感じられた。


 佐和子の存在に気づき女性はゆっくりと顔を上げた。

 涼やかなけれど深く澄んだ瞳。

 佐和子のずぶ濡れの姿を認めると一瞬だけわずかに目を見開いたように見えたがすぐに落ち着いた表情に戻り驚いた様子も迷惑そうな素振りも見せない。

 ただ静かに「……どうぞ」と低い声で言い空いている席を顎で示した。


 促されるまま一番奥の窓際のテーブル席に腰を下ろす。

 雨に濡れたジャケットを脱ぎ椅子にかけると溜まっていた疲労が一気に噴き出したように感じられ思わず深いため息が出た。


 するとカウンターから出てきた店主――葵と名乗るべきだろうか――が黙って温かいおしぼりと湯気の立つ白いマグカップを佐和子の前に置いた。


「……ブレンドです」


 低いけれど耳に心地よい声だった。


「あ……ありがとうございます……」


 かろうじてそれだけ言うのが精一杯だった。

 両手でそっとマグカップを包み込む。

 じんわりとした温かさが冷え切った指先から体へと伝わっていく。

 恐る恐る一口飲むとしっかりとした苦味の奥にふわりとした甘みと深いコクが感じられた。

 美味しい。ただそう思った。

 冷え切った体に温かい液体が染み渡り張り詰めていた神経の糸がぷつりぷつりと切れていくような感覚。

 さっきまで必死で堪えていた涙が今にも堰を切って溢れ出しそうで慌てて俯いた。


 どれくらいそうしていただろうか。

 少しだけ落ち着きを取り戻し顔を上げると窓の外を流れる雨粒の向こうに小さな置物が目に入った。

 窓辺にちょこんと置かれた木彫りの鳥。

 使い込まれて角が取れ色も少し褪せているけれど丁寧に作られたことがわかる温かみのある鳥だ。

 空を見上げるように少しだけ翼を広げている。

 まるで今にも飛び立とうとしているかのように見えた。


 その姿に自分の心の奥底にある願望が重なったのかもしれない。


「自由に……飛べたらいいのに……」


 ほとんど無意識に吐息のような声が漏れた。

 それは完璧な仮面の下でずっと息苦しさを感じていた佐和子の切実な心の叫びだった。


 はっとして慌てて口をつぐむ。

 見知らぬカフェで見知らぬ店主の前でなんてことを口走ってしまったのだろう。


 恐る恐るカウンターの方を見ると葵はいつの間にか本を読むのをやめてこちらをまっすぐに見ていた。

 その深く澄んだ瞳は佐和子の内側まで見透かしているかのようだ。

 けれどそこには詮索するような色も訝しむような色もない。

 ただ静かに佐和子の言葉を受け止めている。


 そしてゆっくりと。けれどはっきりとわかるように。

 葵は小さく頷いた。


「……そうですね」


 短い肯定の言葉。

 たったそれだけなのに佐和子の心の中に温かい波紋が広がった。

 初めて自分の奥底にある言葉にならない願いを誰かに静かに受け止めてもらえたような気がした。

 この雨の夜に迷い込んだ路地裏の静かなカフェ。

 不思議な雰囲気を持つこの名前も知らない女性。


 ここは私の居場所になってくれるかもしれない。


 そんな淡くそして確かな予感が冷たい雨音と共に佐和子の心に静かに芽生え始めていた。


 #####


 あの雨の夜から数週間が過ぎた。

 春の柔らかな日差しが降り注ぐ午後佐和子は再びあの路地裏に足を向けていた。

 重い木の扉を開けるとカランと懐かしいドアベルの音が響きすぐに芳醇なコーヒーの香りに包まれる。


「……いらっしゃいませ」


 カウンターの中で葵が静かに顔を上げた。

 初めて来た時と同じ落ち着いた声。

 特に驚いた様子もなく佐和子に軽く会釈する。

 その変わらない佇まいに佐和子は知らず知らずのうちに安堵感を覚えていた。


 あの日以来佐和子は何かから逃れたいと感じるたびに吸い寄せられるようにこのカフェ「Komorebi」を訪れるようになっていた。

 プレゼンで厳しい指摘を受けた日。

 同僚との間に見えない壁を感じて落ち込んだ日。

 SNSに溢れるキラキラした投稿を見て自分の現実とのギャップに虚しくなった日。

 そんな時決まって足はこの場所へ向かうのだ。


 いつもの窓際の席に座り外の景色を眺める。

 オフィスでの緊張感もSNSを常にチェックしてしまう強迫観念もここに来ると不思議と和らいだ。

 普段ならスマホを取り出してSNSの通知を確認するところだがここではそうしたいと思わない自分に気づく。

 ただ流れる雲を眺めたり葵がコーヒーを淹れる静かな音に耳を澄ませたりする時間がささくれた心を優しく撫でてくれるようだった。


 最初はお互いにほとんど言葉を交わさなかった。

 天気の話や季節の話を少しする程度。

 けれど何度か通ううちに佐和子の方からぽつりぽつりと話すようになった。


「……今日の会議 全然ダメで。また企画 練り直しになっちゃったんです」

「……後輩が私の陰口言ってるの聞いちゃって。別に気にしてないって思ったんですけど……」


 SNSの「完璧な私」なら決して口にしないような弱音や愚痴。

 なぜだかこの静かな店主の前ではぽろりと零れ落ちてしまう。

 葵は驚くでもなく同情するでもなくただ静かに耳を傾けてくれる。

 そして時折短い言葉を返した。


「そうですか」

「……大変でしたね」


 それだけなのに佐和子の心は少しずつ軽くなっていく気がした。

 誰かに聞いてもらえるだけでこんなにも救われるなんて今まで知らなかった。


 葵は佐和子の様子をよく見ているようだった。

 言葉には出さないけれどその日の佐和子の纏う空気を感じ取って黙って差し出すコーヒーの味を変えていることに佐和子は気づいていた。


 ひどく落ち込んでいるように見える日にはいつもより少し苦味の強いけれど後味のすっきりとしたコーヒーを。

「苦いものを飲むとかえって頭が冴えることもありますから」と静かに呟く。

 逆に疲れ切ってうつむいている日にはミルクがたっぷり入った優しい甘さのカフェオレを。


「少し甘いものでも飲んで休んでください」。


 そのさりげない気遣いが押し付けがましくなくて佐和子には心地よかった。

 深く詮索されることもアドバイスをされることもない。

 ただここにいることを許され静かに受け入れられている。

 その安心感が佐和子にとっては何よりの救いだった。


 もちろん自分の心の奥底にある根深い悩み――過去のトラウマや拭えない自己肯定感の低さについてまで話すことはまだできなかった。

 葵に対してもどこか見えない壁を作っている自分を感じる。

 それでもこのカフェで過ごす時間は佐和子にとって息苦しい日常の中で唯一羽を休められる「止まり木」のような存在になりつつあった。


 カップに残ったコーヒーを飲み干し席を立つ。「ごちそうさまでした」。

「……ありがとうございました」と葵が静かに返す。


 カフェの扉を開け外に出ると来た時よりも少しだけ足取りが軽くなっている自分に気づく。

 夕方の柔らかな光が心地よい。


「また来てしまうんだろうな」


 小さく呟きながら佐和子はオフィスへと戻る道を歩き始めた。

 心のどこかに小さな灯りがともったような温かい気持ちを抱えて。


 #####


 神保町の古いビルにある出版社『文詠社ぶんえいしゃ』。

 その編集部の一角で田中美咲たなかみさきは積み上げられたゲラ刷りの山と格闘していた。

 時刻はすでに午後7時を回っているが帰れる気配はまだない。


「田中さん これ明日の会議までに企画書まとめといてくれる? SNSでバズりそうなやつ頼むよ」

「……はい」


 通りすがりに上司が投げつけた言葉に美咲は内心で深いため息をつく。

 また「SNSでバズりそうなやつ」か。

 自分が本当に届けたいと思っている新人作家の純文学の企画は「地味だから売れない」「もっとキャッチーじゃないと」とあっさり却下されたばかりだというのに。


 理想と現実のギャップ。

 それは社会人になってから常に感じていることだったが最近特にその重圧が増している気がした。

 キーボードを叩きながら美咲の頭には親友である木村佐和子の顔が浮かんでいた。


(佐和子元気かな……)


 大学時代からの一番の親友。

 卒業してからも頻繁に連絡を取り合っている。

 佐和子のInstagramは相変わらず華やかだ。

 お洒落なレストランでの食事、新作コスメの紹介、きらびやかなイベントの様子。

 コメント欄には憧れや羨望の声が並んでいる。


 けれど時々電話で話す佐和子の声はSNSの明るいイメージとは裏腹にどこか疲れているように聞こえることがあった。

 特に最近は明るく振る舞おうとしているのが透けて見えるような妙な不安定さを感じることが増えた気がする。

 何か大きな悩みでも抱えているのではないだろうか。

 でも核心に触れようとすると佐和子は決まって「全然大丈夫だよ!心配しすぎだって」と明るい声で話を逸らすのだ。


 その壁のようなものが美咲には少し寂しくそしてもどかしかった。


(私だって自分のことで精一杯なのに……)


 上司との軋轢、終わらない仕事、見えない将来への不安。

 美咲自身も決して余裕があるわけではない。

 正直佐和子の心配ばかりしていられないと思う自分もいる。

 けれどどうしても放っておけないのだ。


 それは学生時代の後悔が今も美咲の中に棘のように残っているからかもしれない。


 大学に入学したばかりの頃佐和子は今よりもずっと控えめで自分の容姿に自信がないようだった。

 周りの目を気にして少し猫背気味に歩いていた姿を美咲はよく覚えている。

 グループの中心で楽しそうに話す輪に入りたそうにしながらも結局一人で本を読んでいることが多かった。


 美咲はそんな佐和子の繊細さや優しさに気づいていたしもっと話したいと思っていた。

 けれど「私が声をかけたら逆に気を遣わせるかな」「なんて言えばいいんだろう」と考えているうちにタイミングを逃してしまった。

 結局佐和子が少しずつ自分を変えSNSで「キラキラした自分」を発信するようになるのをただ見ていることしかできなかったのだ。


(あの時もっとちゃんと佐和子の気持ちを聞いてあげられていたら……)


 その後悔が今美咲を突き動かしていた。

「今度こそちゃんと力になりたい」。


 美咲はスマホを取り出しLINEを開く。佐和子とのトーク画面。

『元気? 最近すごく忙しそうだけど無理しないでね』

 当たり障りのないメッセージ。けれど今の美咲に送れる精一杯の言葉だった。


 すぐに既読がつき返信が来る。

『美咲 ありがとう! 全然大丈夫だよー!心配かけてごめんね(^^) 美咲も無理しないでね!』


 明るい文面と笑顔の絵文字。

 それがかえって美咲の胸を締め付けた。

 大丈夫じゃないくせに。

 なんで平気なフリをするんだろう。

 昔から佐和子はそういうところがあった。

 弱音を吐くのが苦手で一人で抱え込んでしまう。


 どうすれば佐和子の心の扉を開けるのだろうか。

 無理にこじ開けるのは違う気がする。

 今はただ佐和子が自分から話してくれるのを待つしかないのかもしれない。


 美咲はスマホをデスクに置き再び目の前のゲラ刷りに視線を落とした。

 赤字を入れながらも心の片隅ではずっと親友のことを想っていた。

 いつか佐和子が本当に助けを求めてきた時自分はちゃんと手を差し伸べられるだろうか。

 そんな不安を抱えながら編集部の喧騒の中美咲は一人ペンを走らせ続けた。

 第三章 スクロールが止まらない夜



 その日佐和子が手がけた新しいファンデーションの広告キャンペーンがついにスタートした。

 今回のコンセプトは「#ありのままの自分を美しい」。

 様々な肌の色、年齢、個性を持つモデルたちを起用し画一的な美の基準から解放され誰もが自分自身の美しさを肯定できるようなメッセージを込めた意欲的なキャンペーンだった。

 佐和子自身もこのコンセプトには強い思い入れがあった。

「完璧」を演じ続けてきた自分だからこそ届けたいメッセージだと信じていた。


 キャンペーン開始直後自社のSNSアカウントには好意的な反応が多数寄せられた。

「素敵なコンセプト!」「勇気をもらいました」といったコメントに佐和子は胸を撫で下ろし手応えを感じていた。


 しかしその安堵感は長くは続かなかった。


 午後になると風向きが変わり始める。

 最初はほんの些細なものだった。

『「ありのまま」って言うけど結局モデルはみんな綺麗じゃん』

『肌が綺麗な人しか使えないファンデってこと?』


 そんなコメントがぽつりぽつりと現れ始めたのだ。

 佐和子は「そういう意図ではないのに……」と少し眉をひそめたがまだ楽観視していた。

 どんなキャンペーンにも多少の批判はつきものだと。


 だがその認識は甘かった。


 一つの批判的なコメントがまるで小さな火種のようにあっという間に燃え広がっていったのだ。

 誰かが言った。「これって結局『美しくない人はファンデで隠せ』ってこと?」。

 その一言が歪んだ形で解釈され拡散されていく。


『企業がコンプレックスを煽ってる!』

『美の基準を押し付けてるのはどっちだよ』

『「ありのまま」とか言って結局金儲けでしょ』

『#ボーテクレール不買』


 批判的なハッシュタグが生まれ瞬く間にトレンド上位に駆け上がる。

 影響力のあるインフルエンサーが「この広告問題じゃない?」と疑問を呈したことで炎上はさらに加速。

 会社の公式SNSアカウントのコメント欄は非難と罵詈雑言で埋め尽くされまさに「大荒れ」という言葉がぴったりの状態になっていた。

 広報部の電話も鳴りやまない。


 佐和子はPCの前で呆然と画面を見つめていた。

 信じられない。どうしてこんなことに?

 私たちが伝えたかったメッセージはそんなものではないのに。

 混乱と焦りで頭の中が真っ白になる。


 そして最悪なことに批判の矛先は会社だけでなく広告の責任者として名前が公表されていた佐和子個人にも向き始めたのだ。


 ピコンピコンピコン――。


 佐和子のスマホが不気味なほど頻繁に通知音を鳴らし始める。

 InstagramのDMコメントメンション……。

 開くのが怖い。けれど確認しないわけにはいかなかった。

 震える指で画面をタップする。


 そこに表示されたのは目を覆いたくなるような匿名の悪意の奔流だった。


『お前みたいな恵まれた美人が「ありのまま」とか語るな』

『どうせ加工しまくりの写真でしょ?www』

『#木村佐和子 って性格悪そう』

『この偽善者!』

『完璧ぶってるけど化けの皮が剥がれたね』

『会社クビになればいいのに』


 容姿への誹謗中傷、根拠のない人格否定、憶測に基づく罵倒……。

 見ず知らずの他人から無数のナイフを投げつけられているかのようだ。

 言葉の一つ一つが鋭利な刃物のように佐和子の心を切り刻んでいく。


 手が震え呼吸が浅くなる。

 心臓が嫌な音を立てて激しく鼓動している。

 反論したい。違うそうじゃないと叫びたい。

 けれどあまりの言葉の暴力に指一本動かすことができない。

 キーボードを打とうとしても指が震えて文字にならない。


 ピコンピコン――。通知音は止まない。

 それはもはやただの電子音ではなく佐和子を追い詰める悪魔の囁きのように聞こえた。

 スマホの画面が世界で最も恐ろしいものに変わってしまった。


 会社からの内線が鳴る。

 きっと上司からの呼び出しだろう。

 けれど電話に出る気力もなかった。


 佐和子はオフィスの自分のデスクでただ小さくうずくまることしかできなかった。

 溢れる涙を止めることもできずスマホを握りしめたまま震え続ける。


 これからどうなってしまうのだろう。

 私の人生はこれで終わってしまうのだろうか。


 見えない悪意の渦に飲み込まれていくような底知れない恐怖と絶望感が佐和子を支配し始めていた。


 #####


 鳴りやまないスマホの通知音とデスクの内線電話のけたたましい呼び出し音。

 その二つの音が佐和子の鼓膜を執拗に打ち続けていた。

 誹謗中傷の言葉で埋め尽くされた画面から目を逸らし佐和子は震える手で内線の受話器を取った。


「……はい広報部の木村です」

『部長がお呼びだ。すぐに部長室に来るように』


 感情のこもらない事務的な声。

 予想していた呼び出しだった。

 受話器を置いた指先が氷のように冷たい。


 重い足取りで部長室へ向かう。

 廊下ですれ違う社員たちがちらりと佐和子に視線を向けすぐに逸らす。

 その一瞬の動作に好奇と憐憫とそしてわずかな軽蔑の色が混じっているように感じられ佐和子は俯いた。

 昨日までは羨望の眼差しで迎えられた廊下だったはずなのに。


 部長室の扉をノックする。

 中から「入れ」という低い声が聞こえた。

 深呼吸一つしてドアを開ける。


 広々とした部長室。

 大きな窓からは都心のビル群が見渡せるが今はその景色も灰色にしか見えない。

 革張りのソファに深く腰掛けた上司――五十代半ばの小太りな男性 広報部長の田中が苦虫を噛み潰したような顔で佐和子を見据えていた。

 その隣にはいつもは温厚な副部長も厳しい表情で座っている。

 部屋の空気は凍りつくように冷え切っていた。


「木村君 座りなさい」


 促されるままソファに浅く腰掛ける。

 心臓が口から飛び出しそうだった。


「今回の件 把握しているね?」

 田中部長が切り出した。

 その声には昨日までの佐和子への賞賛の色など微塵もなかった。


「……はい」


 かろうじて声を絞り出す。


「一体どういうことだね。あの広告のコンセプトは君が中心になって進めたものだろう」

「はい しかし意図としては……」

「意図などどうでもいい! 結果として会社のブランドイメージは大きく傷ついた! 株価にも影響が出かねん!」


 部長はテーブルを叩き声を荒らげた。

 副部長も責めるような視線を佐和子に向けている。


「我々としては早急に事態を収拾する必要がある。会社の信用問題だ」

「……具体的にはどうすれば……」


 佐和子が尋ねると部長は冷ややかに言い放った。


「決まっているだろう。責任者は君だ。君が矢面に立って謝罪するのが筋だ」

「しゃ 謝罪……ですか?」

「そうだ。明日にでも謝罪会見を開く。そこで今回の広告表現に配慮が足りなかったこと 世間をお騒がせしたことを君自身の言葉で謝罪してもらう」


 あまりに一方的な宣告に佐和子は言葉を失った。


「しかし 部長……! あの広告の意図は決して消費者を傷つけるようなものでは……! 会社としてもそのメッセージを……」

「言い訳は聞きたくない!」


 部長は佐和子の言葉を遮った。


「君一人の責任で済むならそれでいいじゃないか。会社としては君を守るためにもこれが最善の策だと判断したんだ」


 守るため? これは明らかに責任転嫁だ。

 会社という組織を守るために自分一人が犠牲になれと言っているのだ。

 佐和子は裏切られたという思いと言いようのない怒りで体が震えた。

 けれど権力を持つ上司たちの前で今の自分に反論する力などなかった。


「……分かりました」


 そう答えるのが精一杯だった。

 声はかすれ涙が溢れそうになるのを必死で堪える。


「よろしい。会見の段取りはこちらで進める。原稿も用意するから君はそれに沿って話せばいい」


 もう用はないとばかりに部長は視線をデスクの上の書類に向けた。

 副部長も最後まで佐和子と目を合わせようとはしなかった。


 重い足取りで部長室を出る。

 扉が閉まった瞬間張り詰めていた糸が切れ崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えた。

 オフィスに戻ると空気が一変していることに気づく。

 さっきまでの喧騒は消え妙な静けさが漂っている。

 デスクに向かう佐和子の姿を同僚たちが遠巻きに見ている。

 誰も声をかけてこない。

 目が合うと気まずそうに逸らされる。

 ひそひそと交わされる囁き声が自分のことを話しているように聞こえてしまう。


 昨日まで「佐和子さん すごい!」「さすがです!」と笑顔で話しかけてきた後輩たちも今はPCの画面に没頭するふりをして佐和子を避けている。

 まるで汚いものに触れるかのように。


 孤独だった。

 こんなにも大きな組織の中で自分はたった一人なのだと思い知らされる。


 デスクに戻るとスマホにいくつかのメッセージが届いていた。

 一部の同僚や事情を知った取引先からだ。


『佐和子さん ニュース見ました。大変だと思うけど負けないで!』

『何かできることがあったら言ってくださいね!応援してます!』

『佐和子さんならきっと乗り越えられるって信じてます!頑張って!』


 その言葉たちは今の佐和子の心には少しも響かなかった。

 むしろ空虚な励ましが神経を逆撫でする。

 本当に心配ならなぜ直接声をかけてくれないのだろう。

 SNSやメッセージで「応援してる」と送るだけで自分は安全な場所にいるつもりなのだろうか。

 その偽善的な態度に吐き気すら覚えた。


 誰かに助けを求めたい。

 この状況を誰かに聞いてほしい。

 親友の美咲の顔が浮かんだがすぐにその考えを打ち消した。

 こんな惨めな姿を見せたくない。

 心配をかけたくない。

 そして何より軽蔑されるのが怖かった。


「誰も……私の味方なんていないんだ」


 呟いた言葉は誰に聞かれることもなく静まり返ったオフィスの中に消えていった。

 会社からも同僚からもそして世間からも見放された。

 完全な孤立無援。

 今まで必死で築き上げてきたキャリアも人間関係もSNSでの「完璧な私」もすべてが砂上の楼閣のように崩れ去っていく。


 涙ももう出なかった。

 ただ胸の中に冷たくて重い絶望感だけが広がっていく。


 佐和子はゆっくりとPCの電源を落とした。

 カバンに必要なものだけを詰め込む。

 もうここにいることはできない。

 誰にも見られないように俯いたまま足早にオフィスを出た。

 逃げるように。


 外はまだ明るかったが佐和子の世界は深い闇に閉ざされたかのようだった。


 #####


 オフィスを飛び出した佐和子はまるで何かに追われるようにまっすぐ自宅マンションへと逃げ帰った。

 慣れた手つきで鍵を開け部屋に転がり込むと同時にドアを閉め乱暴に鍵をかける。

 それだけでは足りずドアチェーンまでしっかりと掛けた。

 これで誰も入ってこれない。

 外の世界と自分を隔てる壁。

 その壁の内側に佐和子は閉じこもった。


 部屋の主と同じように部屋そのものも光を拒絶していた。

 厚手の遮光カーテンはぴっちりと閉め切られ窓の外が昼なのか夜なのかも判別できない。

 部屋の中は常に薄暗く空気はよどんでいる。

 数日前に脱ぎ捨てたスーツがソファに無造作にかけられテーブルの上には飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルや中身の入ったままのコンビニの袋が散乱し始めていた。

 かつてSNSに投稿するために完璧に整えられていたモデルルームのような部屋は見る影もない。

 それは今の佐和子の心の状態をそのまま映し出しているかのようだった。


 外部からの接触はすべて拒絶した。

 スマホは常にマナーモードにし画面が光るたびにビクッと体を震わせながらも着信や通知は一切無視した。

 会社からの着信履歴が何十件と溜まっていく。

 美咲からだろう『大丈夫?』『何かあった? 返信ください』という心配そうなLINEメッセージが何通も届いている。

 時折インターホンが鳴ることもあったが息を殺して居留守を使った。

 誰とも話したくない。

 誰にも今のこの惨めな姿を見られたくなかった。


 佐和子の世界はベッドの上だけになっていた。

 毛布を頭の先まですっぽりとかぶりまるで外界から身を守るかのようにただひたすら縮こまる。

 唯一手放せないのはスマートフォンだった。

 あの忌まわしい炎上の元凶であり自分を奈落の底に突き落とした悪意の塊。

 見たくない。見るべきではない。

 そう頭では分かっているのに指は勝手に画面を滑り自分の名前や会社名を検索してしまうのだ。


 そして表示されるのは昨日と変わらないいやむしろ増殖し続けているかのような誹謗中傷の嵐だった。


『まだ謝罪会見しないの?』

『#木村佐和子逃亡中』

『Beaute Claireのファンだったけどもう買わない』

『この人 昔から性格悪いって有名だったらしいよ(ソースは元同僚)』

『早く辞めればいいのに』


 根も葉もない噂、悪意に満ちた憶測、人格を否定する言葉のナイフ。

 一つ一つが生々しい傷口に塩を塗り込むように佐和子の心を蝕んでいく。

 見るたびに息が詰まり涙が滲む。

 なのに見るのをやめられない。

 まるで自ら毒をあおるかのように繰り返し繰り返し自分を傷つける言葉を探してしまうのだ。


「私が……私が悪かったんだ……」


 暗闇の中で佐和子は何度もそう呟いた。


「もっと慎重になるべきだった。あのコピーがどう受け取られるか考えが足りなかったんだ」

「調子に乗っていたのかもしれない。広報として注目されて少し有頂天になっていたのかも……」

「そうよ 私が全部間違っていたんだ……」


 自己否定の言葉がとめどなく溢れ出す。

 炎上の原因はすべて自分にあるのだと思い込もうとした。

 そう考えなければこの理不尽な状況を受け止めきれなかった。


「ありのままなんて綺麗事だったんだ。そんなもの誰も求めてなんかいなかったんだ」

「結局私みたいな人間が何を言ったって誰も信じてくれない。説得力がないんだ」


 そしてその思考は過去のトラウマと結びついていく。

『ありのままの君じゃ物足りない』

 元恋人の冷たい声が耳の奥で響く。

 学生時代鏡を見てはため息をついていた自信のない自分。

 愛されるためには認められるためには完璧でなければならない。

 そう信じて必死で仮面を被り続けてきたのに。

 その仮面が剥がれ落ちた今残ったのは誰からも受け入れられない価値のない自分だけだ。


「やっぱり私は……変われないんだ」

「完璧じゃない私には生きている価値なんてないのかもしれない……」


 暗く重たい思考がぐるぐると頭の中を回り続ける。

 抜け出すことのできない絶望の迷宮。


 心だけではない。体も確実に蝕まれていた。

 食欲は全くなく冷蔵庫を開ける気力すらない。

 枕元に置いたゼリー飲料を時折思い出したように少しだけ口にするのがやっとだった。

 夜もまともに眠れなかった。

 目を閉じてもSNSの誹謗中傷の言葉がフラッシュバックする。

 うとうとしかけると大勢の人に石を投げつけられる悪夢を見て叫び声を上げて飛び起きる。

 シャワーを浴びる気力もなく着替えることすらせず何日も同じスウェットを着たままだ。

 ふと鏡を見ると(それすら億劫だったが)げっそりと痩せ目の下に深いクマを刻んだ生気の失われた顔があった。


 今日が何日で何曜日なのか。

 最後に外に出たのはいつだったか。

 時間の感覚は曖昧になりただ薄暗い部屋の中でスマートフォンの冷たい光だけが現実との唯一の繋がりであるかのように煌々と輝いていた。


 このまま私はどうなってしまうのだろう。

 この暗闇の中で誰にも気づかれずに静かに消えていってしまうのではないか。


 そんな漠然としたけれどリアルな恐怖がじわじわと佐和子の心を侵食していく。


 ふと脳裏にあのカフェの静けさが蘇った。

 窓辺の木彫りの鳥。

 そして葵が淹れてくれた温かいコーヒーの香り。

 あの場所に行けば何かが変わるかもしれない。

 一瞬だけそんな考えが頭をよぎる。


 しかしすぐにその考えを打ち消した。


「……だめだ。私なんかが あの場所に行けるはずがない」

「葵さんにこんな惨めな姿見せられない」


 希望の光が見えたかと思うとすぐに自分でそれをかき消してしまう。

 深い深い絶望の闇の中で佐和子はただ毛布にくるまり震えていることしかできなかった。

 第四章 崩れ落ちた理想と見えないナイフ



 時間の感覚が溶けてしまったような薄暗い部屋の中。

 どれくらいの日数が過ぎたのか佐和子にはもう分からなかった。

 ただベッドの上で生ける屍のように横たわりスマートフォンの冷たい光だけを見つめる日々。

 自己嫌悪と絶望の思考は無限ループのように頭の中を駆け巡り彼女を深い闇の底へと引きずり込んでいく。


 しかしその闇の底でほんのかすかな変化が生まれ始めていた。

 それは「このままではいけない」という消え入りそうなほど小さな焦りのような感情だった。

 このまま誰にも知られずに朽ち果てていくのは嫌だ。

 まだ諦めたくない。

 心の奥底でそんな声が聞こえる気がしたのだ。


 そしてその声と共に脳裏に浮かぶのは決まってあのカフェの風景だった。

 路地裏の静かな佇まい。コーヒーの芳醇な香り。

 窓辺の木彫りの鳥。

 そして多くを語らずともただ静かにそこにいてくれた店主の葵の姿。


(あの場所に行けば……)


 根拠はない。

 けれど今の佐和子にとって葵のカフェ「Komorebi」は暗闇の中で唯一思い描けるかすかな光のように思えた。


 意を決し佐和子は重い体をゆっくりと起こした。

 何日ぶりだろうか。

 ベッドから降りよろよろとバスルームへ向かう。

 鏡に映った自分の姿に思わず息を呑んだ。

 げっそりと痩けた頬、くすんだ肌、生気のない瞳。

 まるで別人のようだ。

 それでも震える手で顔を洗い最低限のBBクリームだけを塗る。

 髪を一つに束ね数日間着たままだったスウェットを脱ぎ捨てクローゼットの奥から引っ張り出したゆったりとしたワンピースに着替えた。

 外に出るためのささやかな儀式。


 玄関に向かう。

 しかしドアノブに手をかけようとした瞬間激しい恐怖感に襲われた。

 外に出るのが怖い。人に会うのが怖い。

 またあの冷たい視線に晒されるのが怖い。

 足がすくみ何度もドアの前で引き返しそうになる。


(やっぱりだめだ……)


 諦めかけた時ふと葵の淹れてくれたコーヒーの温かさを思い出した。

 あの心を溶かすような優しい苦味を。


(行こう)


 何かに突き動かされるように佐和子は勢いよくドアを開け外に出た。

 久しぶりに浴びる太陽の光が目に痛いほど眩しい。


 人目を避けるように俯き加減で早足に歩く。

 すれ違う人々の視線がすべて自分に向けられているような気がして心臓が早鐘を打つ。

 それでも足を止めるわけにはいかなかった。

 目指す場所は決まっている。


 息を切らしながらようやくあの路地裏にたどり着く。

 見慣れた「Komorebi」の看板。

 木の扉の前で立ち止まり大きく深呼吸をする。

 大丈夫。大丈夫。

 自分に言い聞かせ震える手でそっと扉を押した。


 カランと澄んだドアベルの音が響く。


 カウンターの中にいた葵が顔を上げた。

 そして佐和子の姿を認めるとその深い瞳が一瞬驚きに見開かれるのを佐和子は見逃さなかった。

 無理もない。

 今の自分は以前の「完璧な佐和子」とは似ても似つかない変わり果てた姿なのだから。


 しかし葵の驚きは一瞬だった。

 すぐにいつもの落ち着きを取り戻し静かにけれど以前よりも少しだけ柔らかい声で言った。


「……いらっしゃいませ」


 その変わらない一言に佐和子の胸に安堵感が広がる。

 何も聞かれなかったことが今はありがたかった。

 無言で頷きふらつく足取りでいつもの窓際の席へと向かう。

 椅子に深く腰を下ろすと溜まっていた緊張と疲労が一気に押し寄せ全身の力が抜けていくようだった。


 葵が黙ってカウンターの中で動き始める。

 豆を挽く心地よい音。

 そして立ち上ってくるいつもとは違うより複雑で深くそしてどこか心を落ち着かせるようなコーヒーの香り。

 特別な豆を使っているのかもしれない。

 葵は時間をかけて一滴一滴丁寧にハンドドリップしている。

 その所作はまるで祈りのようにも見えた。


 やがて湯気の立つマグカップが佐和子の前に静かに置かれた。


「……少し苦味が強いかもしれませんが体が温まりますよ」


 葵が小さな声で付け加えた。


 佐和子は震える両手でマグカップを包み込んだ。

 じんわりとした温かさが冷え切った指先にそして心の奥底にまで染み込んでいくようだ。

 一口含む。確かに苦味は強い。

 けれどその奥に複雑な果実のような酸味と後を引く甘い余韻が感じられた。

 今まで飲んだことのない深い味わいだった。


 言葉はなかった。

 佐和子はただ窓の外を流れる雲を眺め時折コーヒーを口に運ぶ。

 葵もカウンターの中で静かに自分の作業をしている。

 店内に流れるのは壁の古時計が時を刻む音と外の通りの微かなざわめきだけ。

 その沈黙が不思議と心地よかった。

 傷ついた心を優しく包み込んでくれる安全な繭の中にいるような感覚。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 カップの中のコーヒーが半分ほどになった頃葵が静かに口を開いた。


「……私も昔 全てを失ったと思ったことがあります」


 その言葉に佐和子はゆっくりと顔を上げた。

 葵はカウンターに肘をつき窓の外の遠くを見つめながら静かに語り始めた。

 その声は感情を抑えているようでありながら隠しきれない痛みの影を滲ませていた。


「大切な人を……恋人を突然亡くしました。交通事故でした」


 佐和子は息を呑んだ。

 葵の表情は穏やかだったがその瞳の奥には深い悲しみの色が揺らめいているように見えた。


「病院の冷たくて白い廊下の景色だけがやけに鮮明に記憶に残っています。お医者様の声も周りの音も何もかもが遠くに聞こえて……。彼がもう二度と目を覚ますことはないのだと告げられた瞬間世界から本当に色が消えてしまったように感じました」


 葵はそっと目を伏せた。


「彼との最後のデートはなんてことない近所の公園での散歩でした。彼が私の淹れたコーヒーを『世界一美味しい』って言って子供みたいに笑った顔が忘れられません」


「それからしばらくして……追い打ちをかけるような出来事がありました。彼のSNSのアカウントがある日突然消えていたんです。ご家族が整理されたのかもしれません。けれど私にとっては……彼が生きていた証 彼と繋がっていた唯一の場所が何の予告もなく跡形もなく消えてしまった。スマホの画面に『ユーザーが見つかりません』と表示された時のあの冷たい感覚……。本当に何もかも私の前から奪われてしまったんだと思いました」


 葵の声は途中何度か微かに震えた。

 佐和子はただ黙ってその言葉に耳を傾けていた。

 自分の痛みとは比べ物にならないほどの深い喪失と絶望。

 けれどその痛みの欠片が不思議と今の自分の心に寄り添ってくれるような気がした。


「だから……今 あなたがどんな気持ちでいるのか 少しだけ分かる気がするんです」


 葵は初めて佐和子の目をまっすぐに見て言った。


「でも」


 その声にわずかな力がこもる。


「どんなに暗くても不思議とどこかに小さな光は見つかるものなんです。すぐには見えなくても……目を凝らして探し続けていればきっと。諦めなければきっと」


 それは安易な励ましでも上から目線の説教でもなかった。

 同じ闇を知る者だからこそ紡ぎ出せる静かでけれど確かな響きを持った言葉だった。


 その言葉は佐和子の心の固く凍りついた部分にじんわりと染み込んでいった。

 気づくと頬に温かいものが伝っていた。

 止まっていたはずの涙が静かに溢れ出していた。

 それは惨めさや自己憐憫の涙ではなかった。

 初めて自分の抱える途方もない痛みに誰かが静かに寄り添ってくれたことへの安堵の涙。

 そして葵の言葉がくれたほんのわずかな希望への涙だったのかもしれない。


「……ありがとう ございます……」


 やっとの思いで絞り出した声はひどくかすれていた。

 葵は何も言わずにただ静かに頷きそしてほんの少しだけ微笑んだように見えた。


 カップに残っていたコーヒーはもうすっかり冷めていた。

 けれどその深い味わいは佐和子の心の中に温かい灯りをともしてくれたような気がした。


 まだすぐに立ち上がれるほどの力はない。

 明日会社に行ける自信もない。

 SNSを見るのもまだ怖い。

 けれど完全な闇の中にいた自分の中にほんの小さな頼りないけれど確かな光が灯ったのを佐和子ははっきりと感じていた。


 それは再生への、か細いけれど確かな始まりだった。


 #####


 葵のカフェ「Komorebi」から戻った後も佐和子の部屋の時間は止まったままだった。

 葵の言葉によって心に灯った小さな光はまだあまりにも頼りなく厚く垂れ込めた絶望の霧を完全に晴らすには至らない。

 ベッドから起き上がる気力も外に出る勇気もまだ湧いてこなかった。


 スマートフォンの画面には相変わらず美咲からの着信履歴とLINEメッセージが溜まっていく。


『佐和子 本当に大丈夫? 心配だよ』

『既読にならないけど 何かあったの?』

『お願いだから 連絡ちょうだい』


 そのメッセージを見るたびに胸が締め付けられるような罪悪感と応えられない苦しさが佐和子を襲う。

 心配してくれているのは痛いほどわかる。

 けれど今の自分を見られたくない。

 弱音を吐きたくない。

 そして美咲をこの泥沼に巻き込みたくない。

 そんな思いが交錯し結局佐和子は返信できないままスマホを枕元に放置していた。


 一方美咲の不安は時間が経つにつれて膨れ上がっていた。

 既読にすらならないLINE。

 何度かけても留守番電話に繋がるだけの電話。

 SNSの更新も炎上騒動以来完全に止まっている。

 佐和子の身に何か良くないことが起きているのではないか。

 その疑念は次第に確信へと変わっていった。


(もう待っていられない……!)


 美咲は時計が午後5時を指すのを確認すると上司に「急用ができたので早退します」とだけ告げ半ば強引にオフィスを飛び出した。

 デスクに山積みになった仕事のことも明日の会議のことも今はどうでもよかった。

 ただ一刻も早く佐和子の元へ行かなければ。

 そんな焦燥感に駆られていた。


 電車を乗り継ぎ佐和子の住むマンションに着いたのは日が傾き始めた頃だった。

 オートロックのインターホンを鳴らす。応答はない。

 もう一度強く呼び出しボタンを押す。

 それでも何の反応もなかった。


 嫌な予感が背筋を冷たくした。

 美咲はエレベーターで佐和子の部屋の階まで上がりドアの前に立つとインターホンを何度も鳴らしながらドアを強く叩いた。


「佐和子! いるんでしょ!? 開けて! 美咲だよ! ねぇ佐和子!」


 必死の呼びかけにしばらく何の反応もなかった。

 諦めかけたその時だった。

 ガチャリと内側から鍵が外れる微かな音がしてゆっくりとドアが数センチだけ開いた。

 チェーンがかかったまま隙間から覗いたのは美咲が今まで見たことのないような憔悴しきった佐和子の顔だった。


「……美咲……?」


 か細く力のない声。


「佐和子……!」


 美咲は絶句した。

 最後に会った時とは別人のように痩せ顔色も悪く瞳には生気が感じられない。

 服装も何日も着替えていないようなくたびれたスウェット姿だ。


「お願い チェーン開けて……!」


 美咲の懇願に佐和子は一瞬ためらったようだったがやがておぼつかない手つきでチェーンを外した。


 美咲は勢いよく部屋の中に足を踏み入れた。

 そしてその惨状に再び言葉を失う。

 カーテンは閉め切られ部屋全体が薄暗く空気が重くよどんでいる。

 床には服や雑誌が散らかりテーブルの上には空の容器やゴミが放置されたまま。

 あのいつも綺麗に片付いていた佐和子の部屋とは思えない光景だった。


「……佐和子 一体何があったの……?」


 美咲は震える声で尋ねた。


 佐和子は力なくソファに座り込み俯いたまま、すぐには答えようとしなかった。

 美咲はその隣に静かに座り優しく肩に手を置いた。


「……話して。何でも聞くから。一人で抱え込まないで」


 美咲の温かい声と確かな手の温もりに佐和子の心の壁が少しずつ溶けていくようだった。

 堰を切ったようにぽつりぽつりとこの数日間で起こった出来事を語り始めた。

 広告の炎上、会社の冷たい対応、SNSでの誹謗中傷、そして謝罪会見の強要……。

 話しているうちに感情がこみ上げてきて言葉は途切れ途切れになる。

 佐和子は震える手でスマホを取り出し自分に向けられた悪意の言葉が並ぶ画面を美咲に見せた。


「何これ……」


 画面を食い入るように見つめた美咲の顔がみるみるうちに怒りに染まっていく。


「酷すぎる……! こんなのあんまりだよ……! 誰なのこんなこと書く人たち……! 許せない!!」


 美咲は自分のことのように憤りその目に涙を浮かべていた。

 スマホを持つ佐和子の手が震えているのに気づくとその手を強く握りしめた。


「佐和子……!」


 美咲は涙で濡れた瞳でまっすぐに佐和子を見つめた。


「佐和子は何も悪くない! 絶対に! こんなくだらない匿名の悪意に傷つく必要なんかないんだから!」


 その声は怒りとそして佐和子への強い思いやりで震えていた。


「あなたは私が一番よく知ってる。優しくて真面目で誰よりも一生懸命で……。あなたが思うよりずっとずっと強くて素敵な人なんだから! こんなことで自分を責めちゃだめ!」


 力強い励ましの言葉が佐和子の荒んだ心に染み込んでいく。


 美咲は溢れる涙を拭おうともせず言葉を続けた。


「……ごめん 佐和子。私ずっとずっと後悔してたことがあるの」


 その告白に佐和子は驚いて顔を上げた。


「学生の時……あなたが自分のこと色々悩んでるの本当は気づいてた。元気ないなって 何かあったのかなってずっと気になってた。でも……なんて声をかけたらいいか分からなくて結局何もできなかった……。ただ見てるだけだった。あの時の私本当に臆病で最低だった……!」


 美咲の声は後悔と自責の念で震えていた。


「だから……」


 美咲は佐和子の手をさらに強く握りしめた。


「だから今度こそ絶対に佐和子のそばにいる。絶対に一人で抱え込ませない。私にできることなら何でもする。会社のこともSNSのことも何だって手伝うから。だから……一緒に戦おう!」


 その言葉はどんな慰めよりも佐和子の心に強く響いた。

 親友の涙、力強い言葉、そして打ち明けられた長年の後悔。

 そのすべてが本物だと分かった。

 一人ではないのだと。

 自分にはこんなにも自分のことを想ってくれる友達がいるのだと。


 佐和子の目から堰を切ったように再び涙が溢れ出した。

 それはもう絶望の涙ではなかった。

 孤独の淵から引き上げられたような安堵の涙。

 そして美咲の深い友情に対する感謝の涙だった。


「……みさき……っ……ありがとう……っ」


 嗚咽まじりにようやくそれだけを言うと美咲は黙って佐和子を強く抱きしめた。

 温かくて力強い抱擁。

 佐和子も震える腕で親友の背中にしがみついた。


 部屋の薄暗闇の中で二人はしばらくの間ただ黙って互いの存在を確かめ合うように強く抱き合っていた。

 言葉はなくても二人の間には壊れることのない確かな絆が再び強く結ばれようとしていた。

 長いトンネルの先にようやく一筋の光が見えたような気がした。


 #####


 美咲が嵐のように訪れそして去っていった後佐和子の部屋には再び静寂が戻った。

 しかしそれは以前の息詰まるような静寂とは少し違っていた。

 美咲が残していった力強い言葉と確かな友情の温もりが部屋の空気をわずかに変えたのだ。

 一人ではない。

 その事実は暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように佐和子の心を照らしていた。


 それでも根本的な問題は何一つ解決していない。

 会社は謝罪会見を迫ってくるだろう。

 SNSの炎はまだくすぶり続けている。

 そして何より佐和子自身の心の中にある「完璧でなければ価値がない」という呪縛はまだ解けてはいなかった。

 これからどうすればいいのか。

 答えは見つからないまま時間だけが過ぎていく。


 そんな時ふと葵の言葉が蘇ってきた。


『どんなに暗くても不思議とどこかに小さな光は見つかるものなんです』


 そして葵自身の過去。全てを失ったと思った経験。

 その言葉の重みが今なら少しわかる気がした。


(葵さんにもう一度ちゃんと話を聞いてもらおう)


 美咲に話せたことでほんの少しだけ心が軽くなったように葵にならもっと心の奥底にある誰にも言えなかった本当の気持ちを打ち明けられるかもしれない。

 あの静かで深い瞳ならきっと受け止めてくれるはずだ。

 そう思うと微かな勇気が湧いてきた。


 数日後。

 鏡に映る自分の顔はまだ青白く目の下のクマも消えてはいない。

 けれど以前のような生気のなさは薄れ瞳の奥にはわずかながら意志の光が宿っているように見えた。

 佐和子は深呼吸を一つして再び「Komorebi」の扉を開けた。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの中から葵が穏やかな声で迎えてくれた。

 その表情はいつもと変わらないように見えたが佐和子の顔を見るとわずかに安堵の色が浮かんだのを佐和子は感じ取った。


 いつもの窓際の席に座る。

 葵が黙ってコーヒーを淹れ始めた。

 今日はどんなコーヒーだろうか。

 佐和子はその香りを待ちながら心を落ち着けようと努めた。


 コーヒーが運ばれてくるのを待たずに佐和子は口を開いた。

 もうためらっている時間はない。


「葵さん……今日はちゃんと私の話を全部聞いてもらいたくて来ました」


 その言葉に葵は手を止め静かに佐和子に向き直った。

 その真摯な眼差しが「どうぞ 話してください」と語っているようだった。


 佐和子は堰を切ったように話し始めた。

 広告が炎上した経緯、会社の冷酷な対応、謝罪会見を強要されていること、SNSで浴びせられたおびただしい数の誹謗中傷、そして数日間部屋に引きこもり心身ともに衰弱してしまったこと……。

 そこまでは前回も断片的に話した内容だった。


 けれど今回はさらにその奥にある自分自身の心の闇について語り始めた。


「私……ずっと怖いんです。完璧じゃない自分が周りに受け入れてもらえないんじゃないかって……。学生の頃からずっとそうでした。容姿にも自信がなくて……だからSNSで理想の自分を演じることでようやく安心できた。でもそれも結局偽物で……」


 涙が溢れてきて言葉が途切れる。


「前の恋愛でも……相手にSNSの中の『理想の私』を求められて……本当の私を見てもらえなくて結局ダメになったんです。『ありのままの君じゃ物足りない』って言われたことがずっと忘れられなくて……」


「だから今回の広告も……『ありのままの自分を美しい』なんて本当は私自身が一番信じられていなかったのかもしれない。そんな私が伝えたメッセージだから響かなかったんだって……私が全部悪かったんだって……」


 嗚咽しながら佐和子は心の奥底に溜め込んできた恐怖と自己嫌悪を洗いざらい葵にぶつけた。

 こんなにも自分の弱さを曝け出したのは生まれて初めてだったかもしれない。


 葵はただ黙って佐和子の言葉の一つ一つを深く受け止めるように聞いていた。

 その瞳は深い湖のように静かでけれど温かい共感の色を湛えている。

 佐和子がようやく話し終え俯いて涙を拭っていると葵は静かに立ち上がり淹れたてのコーヒーを佐和子の前に置いた。

 そして自分もカウンターから出てきて佐和子の向かいの席に静かに腰を下ろした。


「……話してくれてありがとう」


 葵はまずそう言った。

 そして少しの間を置いて自分の過去について前回よりも深く詳細に語り始めた。


「私が彼……高樹たかぎと出会ったのは大学の写真サークルでした。彼は才能があるのにそれをひけらかすようなことは全くなくていつも自由で自然体で……周りの評価なんて全然気にしない人でした。そんな彼に私は惹かれたんです。でも同時にどこかで劣等感も感じていました。私はいつも人の目を気にして彼にとって『理想の彼女』であろうとどこかで必死になっていた気がします」


 葵は遠い目をして幸せだった頃を思い出すように続けた。


「彼は私の淹れるコーヒーが大好きで『葵のコーヒーは世界一だ』っていつも言ってくれました。あの事故があった日も……朝私の淹れたコーヒーを飲んで『今日も最高!』って子供みたいに笑って出かけていったんです。それが……彼を見た最後になりました」


 事故の状況、病院での出来事、そして絶望。

 葵の声は淡々としていたがその言葉の端々から当時の計り知れない悲しみと痛みが伝わってくる。


「お葬式が終わって少し落ち着いた頃……彼の部屋を片付けていたんです。そうしたら彼がいつも使っていたタブレットが目に入って……。何気なく開いてみたら彼が書き留めていたSNSの非公開メモが見つかったんです。そこにはいくつか詩のようなものや日常のメモが残されていて……そして一番最後にこんな言葉が書かれていました」


 葵はそこで一度言葉を切り深く息を吸った。

 その目には涙が光っていた。


「『もし僕がいなくなっても どうか君は君の人生を自由に生きてほしい。誰かの идеальный(イデアーリヌィ……ロシア語で「理想の、完璧な」)ではなく 君だけの人生を』……って」


 その言葉を口にした瞬間葵の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「idealny……ロシア文学が好きだった彼らしい言い回しでした。その言葉を見つけた時……私は声を出して泣きました。彼が私の心の奥底にあった窮屈さを見抜いていたことそしてそんな私を解放しようとしてくれていたことに気づかされたんです。皮肉ですよね……。彼の死がそして彼の最後の言葉が私がずっと囚われていた『誰かにとっての理想の自分』という檻から私を解き放ってくれたんですから」


 葵の涙と言葉は佐和子の心の最も柔らかな部分に深く強く突き刺さった。

「誰かの理想ではなく 君だけの人生を」。

 それはまるで今の自分自身に向けられた言葉のようだった。

 理想の自分を演じ続けそれに疲れ果て自分を見失っていた佐和子にとってそれは魂を揺さぶられるメッセージだった。

 佐和子の目からも涙が止めどなく溢れ出ていた。

 二人の涙がそれぞれの痛みとそして静かな共鳴の中で交じり合っていく。


 葵は涙をそっと拭うとテーブル越しに佐和子の手を両手で包み込んだ。

 その手は温かくそして力強かった。


「だから 佐和子さん」


 葵は涙で濡れた瞳でまっすぐに佐和子を見つめた。


「あなたにもあなただけの人生を生きてほしい。誰かの理想を演じる必要なんてもうないんです。完璧じゃなくたっていいじゃないですか。弱さもダメなところも失敗も全部含めてそれがかけがえのない『あなた』なんだから。どうか自分を責めないで。そして自分自身の人生を生きてください」


 その言葉には葵自身の魂からの叫びと佐和子への深い祈りが込められているように感じられた。

 温かいものが佐和子の心を満たしていく。


「……私だけの 人生……」


 呟いたその言葉が今まで自分を縛り付けていた鎖を断ち切る鍵のように思えた。

 葵の経験と彼女の恋人が遺した言葉。

 それが暗闇の中で立ち尽くしていた佐和子の足元を照らし出す確かなそして力強い光となった。


 もう迷わない。

 謝罪会見なんてするべきではない。

 会社の言いなりになる必要はない。

 自分の言葉で自分の意志を伝えよう。

 そして完璧ではないありのままの自分を受け入れることから始めよう。

 失敗してもいい。傷ついてもいい。

 それが自分の人生を生きるということなのだから。


 佐和子の瞳に迷いの消えた強い決意の光が宿った。

 その変化を見て取った葵は何も言わずにただ静かにそして力強く頷き返した。

 二人の間に言葉を超えた深い理解と未来への確かな希望が流れ始めていた。


 #####


 葵のカフェ「Komorebi」を出た時空は高く澄み渡っていた。

 佐和子は立ち止まり眩しさに目を細めながら大きく息を吸い込んだ。

 街の喧騒も木々を揺らす風の音もいつもと同じはずなのに今日はどこか違って聞こえる。

 葵の言葉と彼女自身の経験から紡ぎ出された魂のメッセージが佐和子の心に深く響き凝り固まっていた何かを溶かしてくれたのだ。


 迷いはもうなかった。

 腹は決まっている。

 けれどこれから自分がしようとしていることの重大さを思うと足はまだ微かに震えていた。

 恐怖が完全に消えたわけではない。

 それでも進まなければならない。自分のために。


 自宅マンションに戻った佐和子はリビングの中央で一度立ち止まり目を閉じて深く呼吸を繰り返した。

 大丈夫。私ならできる。

 葵さんがくれた言葉、美咲が流してくれた涙を無駄にはしない。


「やるしかない」


 小さく呟き覚悟を決めた目でスマホを手に取る。

 アドレス帳から広報部長・田中の名前を探し出す。

 その名前を見ただけで心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

 指が震えなかなか発信ボタンを押せない。

 もしここで拒絶されたら? もしクビだと言われたら?

 キャリアが終わってしまうかもしれない。

 そんな恐怖が最後の抵抗のように心を締め付ける。


(ううん 違う)


 佐和子は首を振った。

 一番怖いのはここで自分の心に嘘をつくことだ。

 会社の言いなりになって自分を偽って謝罪することだ。

 そんなことをしたらきっと私はもう二度と自分を信じられなくなる。

 立ち直れなくなる。

 それだけは絶対に嫌だ。


 意を決して震える親指で発信ボタンを押した。

 数回のコール音の後電話の向こうから不機嫌そうな部長の声が聞こえてきた。


『……木村か。何の用だ。例の件 覚悟はできたんだろうな? 会見は明日の午後だぞ』


 一方的で有無を言わせない口調。

 以前の自分ならこの威圧感に怯え「はい」と答えるしかなかっただろう。

 しかし今の佐和子は違った。


 息を吸い込み震えを必死で抑えながら佐和子ははっきりと告げた。


「部長 先日の件ですが……」


 声が自分でも驚くほど震えているのが分かった。


「謝罪会見は……お受けできません」


 電話の向こうで部長が息を呑む気配が伝わってきた。

 一瞬の沈黙の後信じられないというような怒気を含んだ声が返ってきた。


『……何だと? 君 自分が何を言っているのか分かっているのかね!?』


「はい 分かっています」


 佐和子は続けた。声はまだ震えているけれど言葉は迷いなく紡がれる。


「謝罪ではなく今回の広告に込めた本来の意図と結果として誤解を生んでしまった点について私の言葉で誠意をもって説明させていただきたいのです。一方的に謝罪をしてそれで終わりにするのは真の解決にも会社の信頼回復にも繋がらないと私は考えます」


 言いながら恐怖で背筋が凍るようだった。

(ああ 言ってしまった……! きっと激怒される。クビになるかもしれない。もうこの業界にはいられないかもしれない……!)

 頭の中で警鐘が鳴り響く。


(でも……!)佐和子は心の中で叫んだ。

(ここで嘘をついたら私は私でなくなってしまう! 葵さんがくれた言葉を美咲が流してくれた涙を絶対に無駄にしたくない……!)


(もう「いい子」でいるのはやめるんだ。誰かの期待に応えるためじゃない。誰かの理想を演じるためじゃない。私は私のために正直に生きたいんだ……!)


 過去の自分との決別。

 それは恐怖を伴うけれど同時に今まで感じたことのないような力強い意志を佐和子の中に呼び覚ました。


 電話の向こうの部長の声のトーンが怒りからどこか呆れたようなあるいは懐柔しようとするようなものに変わった。


『木村君 君は少し混乱しているようだ。これは会社のためなんだ。そして君自身の将来のためでもあるんだぞ。今ならまだ間に合う。考え直せ』


 しかし佐和子の決意は揺らがなかった。


「いいえ 部長。私は今回の仕事にそして広報という仕事に誇りを持っています。だからこそ逃げずに説明責任を果たしたいのです。どうかその機会をいただけないでしょうか」


 最後まで佐和子は自分の言葉で自分の意志を貫き通した。


 電話の向こうで部長はしばらく黙り込んでいた。

 やがて諦めたようなあるいは吐き捨てるような声が聞こえてきた。


『……勝手にしろ。どうなっても私は知らんぞ』


 ガチャンと一方的に電話が切られた。

 ツー、ツー、ツー……という無機質な音が静かな部屋に響き渡る。


 佐和子はスマホを握りしめたままその場にへなへなと座り込んだ。

 全身から力が抜けどっと疲労感が押し寄せる。

 大きなとてつもなく大きなことをしてしまった。

 これからどうなるのか全く分からない。

 不安で胸が押しつぶされそうだった。


 しかしそれと同時に今まで感じたことのないような晴れやかな解放感が体の奥底から湧き上がってくるのを感じていた。

 初めて自分の意志で分厚い壁を壊すことができた。

 誰かに決められた道ではなく自分で道を選び取ったのだ。


「……これでよかったんだ」


 呟いた言葉には震えながらも確かな実感がこもっていた。

 目からぽろぽろと涙が溢れ出す。

 それは恐怖や悲しみの涙ではなく自分自身を取り戻せたことへの安堵の涙だった。


 まだ道は険しいだろう。

 会社との関係も世間の目もどうなるか分からない。

 けれどもう逃げないと決めた。

 佐和子は震える手で涙を拭うとスマホを強く握りしめた。


 次にするべきことは分かっている。

 一人では無理かもしれない。

 でも今の自分には頼れる友がいる。

 佐和子はアドレス帳から「田中美咲」の名前を探し出した。

 第五章 涙のあとには、さよならを



 部長との電話を切った後佐和子はしばらく呆然としていたがすぐにスマホを手に取り美咲に電話をかけた。

 数回のコールの後親友の明るい声が聞こえる。


「もしもし 佐和子!? 大丈夫なの!?」

「美咲……あのね 私……」


 佐和子は先ほどの部長とのやり取りと謝罪会見を拒否する決意をしたことを途切れ途切れながらも伝えた。

 電話の向こうで美咲が息を呑むのが分かった。

 そして一瞬の沈黙の後力強い声が返ってきた。


「……そう決めたんだね。わかった。佐和子がそう決めたなら私は全力で応援する! で これからどうするの? 会社に説明するんでしょ? 資料とか作戦とか必要になるよね?」


 矢継ぎ早の質問に佐和子は少し圧倒されながらも頼もしさを感じていた。


「うん……でも 一人じゃどうしたらいいか……」

「当たり前でしょ! すぐ行く! ちょっと待ってて!」


 美咲はそれだけ言うと一方的に電話を切った。

 その潔さと行動力に佐和子は思わず苦笑しながらも心が温かくなるのを感じていた。

 一人じゃない。強力な味方がいる。


 一時間もしないうちに美咲はノートパソコンや資料になりそうな書籍をいくつか抱えて佐和子の部屋に駆けつけた。

「さあ 作戦会議開始!」と頼もしい笑顔で宣言しまずは散らかった部屋を二人で手早く片付けた。

 少しだけ空気を入れ替えコーヒーを淹れるとようやく落ち着いてテーブルに向かうことができた。


 そこからの時間はまさに「共闘」だった。


「まず 炎上の経緯を時系列で正確に整理しよう。どのタイミングでどんな批判が集中したのか客観的なデータが必要だよ」


 美咲は編集者としてのスキルを存分に発揮し的確に指示を出す。

 佐和子は広報担当者としてキャンペーンの詳細や社内での経緯を説明する。

 二人はPCを並べSNS上の膨大なコメントや記事を丹念に拾い上げ分析していった。


「批判のポイントは大きく分けて3つかな。『美の基準の押し付け』『企業の欺瞞・商業主義』『担当者(佐和子)個人への反発』……」

「うん 特に『ありのまま』という言葉と起用したモデルのイメージとのギャップを指摘する声が多いみたい」

「広告表現のどこに具体的に誤解を招く要素があったのか冷静に洗い出す必要があるね。感情的にならずに客観的に」


 美咲の冷静な分析は混乱していた佐和子の頭を整理するのに大いに役立った。

 同時に本来伝えたかった広告の意図――多様な美の肯定、自己受容へのエール――をどうすれば誤解なく伝えられたのか具体的な代替案や改善策についても熱心に議論を交わした。


「もっと コピーに補足を入れるべきだったかな……」

「あるいはキャンペーンの開始前にコンセプトを丁寧に説明するコンテンツを用意するとか……」

「今後のコミュニケーション戦略としては一方的な発信じゃなくてユーザーとの対話を重視する姿勢を見せることが大事だと思う」


 議論は白熱し時間はあっという間に過ぎていく。

 気づけば窓の外はすっかり暗くなり時刻は深夜に近づいていた。

 集中して作業に取り組む中で佐和子は久しぶりに仕事への情熱のようなものを取り戻しかけていた。

 美咲という頼れる存在が隣にいてくれる安心感も大きい。


 しかし無理は確実に佐和子の心身を蝕んでいた。

 数日間の引きこもり生活による衰弱そして炎上騒動と会社との対立がもたらした極度の精神的ストレス。

 決意を固めたとはいえそのダメージが癒えたわけではない。

 作業の合間にふと表情が曇り手が止まることがある。

 集中力が続かず同じ箇所を何度も読み返してしまう。

 美咲はそれに気づき「大丈夫? 少し休憩しようか?」と何度も声をかけたが佐和子は「ううん 大丈夫。もう少しだから」と弱々しく笑って首を振るのだった。


 資料がある程度形になり会社への説明の骨子が見えてきたまさにその時だった。


「……あれ……ちょっと 目眩が……」


 佐和子がふらつきながら額を押さえた。

 顔面は蒼白で呼吸も荒い。


「えっ 佐和子!? 大丈夫!?」


 美咲が駆け寄ろうとした瞬間佐和子の体がぐらりと傾ぎ椅子から崩れ落ちるように床に倒れ込んでしまった。


「佐和子!! しっかりして!!」


 美咲はパニックになりながら佐和子の名前を叫び体を揺する。

 触れた佐和子の額は燃えるように熱かった。

 明らかに異常な状態だ。

 美咲は震える手でスマホを取り出し119番に電話をかけた。


 救急車で搬送され病院のベッドで点滴を受ける佐和子の姿を美咲は青ざめた顔で見守っていた。

 医師からは極度の疲労と精神的ストレスによる高熱と診断された。

 しばらく安静が必要とのことだった。


 佐和子の意識は高熱のため朦朧としていた。

 暗闇の中を漂っているような夢とも現実ともつかない感覚。

 その中で過去の記憶が走馬灯のように断片的に蘇っては消えていく。


『佐和子はやればできる子ね。ママ嬉しいわ』


 母親に褒められたくて必死にピアノの練習をした幼い日。

 転んでも痛くても涙を見せずに「いい子」を演じた。


『もう少し目が大きければもっと可愛いのにね』


 思春期友達に何気なく言われた言葉がずっと胸に突き刺さっていた。

 鏡を見るたびに自分の平凡な顔立ちにため息をついた。

「もっと綺麗になりたい」「もっとみんなに認められたい」。


『ごめん やっぱり俺もっとキラキラしてる子がいいんだ。ありのままの君じゃ物足りない』

 泣きながらそう言った元恋人の顔。

 SNSの中の「理想の私」だけを愛し本当の私を見てくれなかった彼。


「完璧じゃないとダメなんだ」

「完璧じゃないと私は愛されないんだ……」


 熱にうなされながら繰り返しその声が頭の中で響く。

 なぜ自分はこんなにも「完璧」であることにこだわってきたのだろう。

 なぜ他人の評価を恐れ自分を偽り続けてきたのだろう。


 朦朧とする意識の中で佐和子はぼんやりと気づき始めていた。

 その根底にあるのは幼い頃から満たされることのなかった深い承認欲求。

 そして「ありのままの自分」には価値がないのだという根強い恐怖心なのだと。


「……みさき……ごめん……めいわく かけて……」


 熱でかすれた声で呟く。

 隣で心配そうに自分の顔を覗き込んでいる美咲の姿がぼんやりと霞んで見えた。

 もう一度何かを言おうとしたが言葉にならず佐和子の意識はただただ深い眠りの底へと沈んでいった。


 体は限界を迎え倒れてしまった。

 しかし皮肉なことにこの強制的な休息が佐和子に自分自身の心の奥底と深く向き合う時間を与えることになったのかもしれない。

 熱に浮かされながらも彼女の心の中では自己理解と受容への新たなプロセスが静かに始まろうとしていた。


 #####


 数日間の入院を経て佐和子は退院の日を迎えた。

 高熱はすっかり下がり体調もだいぶ回復していたがまだ本調子とは言えない。

 それでも病院のベッドで自分自身の内面と深く向き合った時間は彼女の表情に以前にはなかった穏やかさとどこか吹っ切れたような透明感を与えていた。


 甲斐甲斐しく看病してくれた美咲に支えられながら佐和子はゆっくりと日常を取り戻し始めていた。

 会社には体調不良のため休職したい旨と改めて話し合いの場を持ちたいという意思を伝えた。

 部長からの返答はまだないがもう以前のように怯える気持ちはなかった。


 体調がもう少し落ち着いたらまず訪れたい場所があった。

 葵のカフェ「Komorebi」だ。

 倒れてしまったことの報告とそして何よりもあの時かけてくれた言葉への感謝を直接伝えたかった。

 葵の言葉がなければ自分はまだあの暗闇の中で立ち上がれずにいたかもしれないのだから。


 退院から数日後のよく晴れた午後。

 佐和子は一人であの路地裏へと向かった。

 以前のように人目を気にして俯くことはなくしっかりと前を向いて歩いている自分に気づく。


「Komorebi」の木の扉を開ける。

 カランと優しいドアベルの音が鳴る。

 カウンターの中にいた葵が顔を上げ佐和子の姿を認めるとその目にふわりと柔らかな光が宿った。


「……佐和子さん。よかった」


 それは「おかえりなさい」とでも言うような温かい響きを持った声だった。


「ご心配おかけしました」


 佐和子は少し照れたように微笑みいつもの窓際の席に座った。

 葵は何も聞かず慣れた手つきでハーブティーを淹れ始めた。

 カモミールとレモングラスの優しい香りが店内にふわりと広がる。


 温かいハーブティーが佐和子の前に置かれた。


「どうぞ。体が温まりますよ」

「ありがとうございます」


 カップを両手で包み込みその温かさを感じながら佐和子はゆっくりと話し始めた。

 倒れて病院に運ばれたこと。

 高熱の中でずっと自分を縛り付けていた過去の記憶や「完璧でなければ」という強迫観念と向き合ったこと。

 そして時間はかかるかもしれないけれどこれからはありのままの自分を受け入れて自分の足で歩いていこうと決めたこと。


「葵さんがあの時話してくれたこと……そしてかけてくれた言葉がなかったら私はまだ暗闇の中にいたと思います。本当にありがとうございました」


 佐和子はまっすぐに葵を見て心からの感謝を伝えた。


 葵は佐和子の話を静かにそして温かい眼差しで聞いていた。

 全てを聞き終えると深く頷き「……よかった。本当によかった」と優しい声で呟いた。

 その表情は自分のことのように嬉しそうに見えた。


 そして少しの間を置いて葵は思いがけないことを口にした。


「……実は私も決めたことがあるんです」


 その声はいつもと同じように静かだったがどこか決意を秘めた響きを持っていた。


「このカフェを閉めることにしました」


「え……?」


 佐和子は思わず息を呑んだ。

 突然の告白に頭がついていかない。


「閉めるって……どうしてですか……?」


 葵は窓の外に視線を移しながら穏やかな表情で語り始めた。


「この場所は私にとって彼……高樹との思い出が詰まった本当に大切な場所なんです。彼が好きだったコーヒー、彼と一緒に選んだ家具、彼が作ってくれたあの木彫りの鳥……。ここで過ごす時間は私を癒してくれました」


 葵は窓辺の木彫りの鳥に優しい視線を送る。


「でも同時に気づいたんです。私はこの場所にいることでどこか過去に囚われていたのかもしれないって。彼との思い出に浸ることで前に進むことから目を背けていたのかもしれないって」


「そんな時 佐和子さん あなたに出会った」

 葵は再び佐和子に向き直った。


「あなたが苦しみながらも必死に自分の殻を破ろうとしている姿を見て……私も動かなくちゃいけないんだって強く思ったんです。彼が最後に遺してくれた言葉『君だけの人生を自由に生きてほしい』……その言葉に今こそ本当の意味で応えなければならないんだって」


「だから決めました。この場所を離れて新しい場所でもう一度自分の足で歩き出そうって。彼との思い出はもちろん大切に心にしまって。でもこれからは過去に生きるんじゃなくて未来に向かって生きていきたいんです」


 その言葉は静かでありながら確かな決意に満ちていた。


 そして葵は続けた。


「あなたと出会えたから私も前に進む勇気をもらえたんです。あなたが傷つきながらも自分と向き合う姿が私の背中を強く押してくれました。だから……ありがとう 佐和子さん」


 葵はまっすぐに佐和子を見つめ心からの感謝を伝えた。

 その瞳は潤んでいるように見えた。


 葵の決意と思いがけない感謝の言葉に佐和子の胸は熱くなった。

 カフェがなくなってしまうのは心の底から寂しい。

 けれどそれ以上に葵が過去を乗り越え新しい一歩を踏み出そうとしていることが自分のことのように嬉しかった。

 そして自分の存在が少なからず葵の力になれたのだという事実に静かな感動を覚えていた。


 私たちは互いにとって必要な存在だったのかもしれない。

 言葉には出さなくても二人の間にはそんな深い共感が静かに流れていた。


「お店は……いつ閉めるんですか?」

「……今月末で閉めようと思っています」


 あと数週間しかない。

 いつものように静かで穏やかな時間が流れるカフェの空気にどこか切ない優しい別れの気配が漂い始めているのを感じた。


 佐和子は葵が淹れてくれたハーブティーを一口また一口とゆっくりと味わった。

 カップの温かさとハーブの優しい香りが心に染み込んでいく。

 寂しさと温かさとそして葵からもらった勇気が静かに自分の中に満ちてくる。


 葵の決断は佐和子にとっても大きな勇気を与えてくれた。

 これから自分がどう生きていくべきかその道を照らす確かな道標となるだろう。

 過去を受け入れ未来へ向かって歩き出す。

 その覚悟が静かにけれど確かに佐和子の心にも根付き始めていた。


 #####


 月末カフェ「Komorebi」はその最終営業日を迎えた。

 佐和子が夕方近くに店を訪れるとカウンターの中にはいつも通り葵が立っていたが店内の様子は少し違っていた。

 壁の本棚の本は段ボールに詰められいくつかの椅子は重ねられている。

 それでも常連客と思われる数人が名残を惜しむようにコーヒーを飲んでいて湿っぽさというよりは温かい感謝の空気が流れていた。


 佐和子はいつもの窓際の席に座った。

 他の客が帰り店内が二人きりになると葵がカウンターから出てきて佐和子の前に最後のコーヒーを淹れてくれた。

 それは初めて佐和子がこの店を訪れた時に飲んだあの深い味わいのブレンドコーヒーだった。


「……最後の 一杯です」


 葵が静かに言う。

 佐和子は頷きゆっくりとカップを口に運んだ。

 あの日と同じ心を落ち着かせる深い香りと優しい苦味。

 この場所で過ごした時間、葵と交わした言葉、そして自分自身の変化が走馬灯のように蘇ってくる。

 二人は言葉少なにそれぞれの思いを噛みしめるように静かにコーヒーを味わった。


 カップが空になるのを見届けた葵がカウンターに戻ろうとした時佐和子は「葵さん あの……」と呼び止め用意してきた紙袋を差し出した。


「これ 私からのささやかなお礼です」


 葵は少し驚いたように受け取り中から出てきたものを見てさらに目を見開いた。


 一つは手作りのアルバムだった。

 表紙には「Dear Aoi-san, With Thanks」と書かれている。

 ページをめくると佐和子がこのカフェでこっそり撮っていた写真が貼られていた。

 葵がコーヒーを淹れる真剣な横顔、カウンターに差し込む午後の光、窓辺の木彫りの鳥、美しいラテアートが施されたカップ……。

 それぞれの写真には佐和子の手書きのメッセージが添えられている。


『このコーヒーに 何度も救われました』

『この静かな時間が 私の心のシェルターでした』

『葵さんの言葉が 私に光をくれました』


 そして最後のページにはこう書かれていた。


『この場所と 葵さんとの出会いに 心から感謝しています。たくさんの勇気を ありがとうございました』


 もう一つは小さな手のひらに収まるほどの木彫りの鳥のレプリカだった。

 窓辺に飾られていたオリジナルの鳥に驚くほどよく似ている。

 少し不格好なところもあるけれど丁寧に心を込めて作られたことが伝わってくる温かみのある鳥だ。


「あの鳥……葵さんの大切なものだって分かっていたんですけど……」佐和子は少し照れながら言った。


「葵さんにも新しい場所で自由に羽ばたいてほしくて……。見よう見まねで下手なんですけど作ってみました」


 葵はアルバムのページを震える指で一枚一枚めくりそして木彫りの鳥のレプリカをそっと手に取った。

 その小さな鳥をまるで宝物のように大切そうに見つめている。

 みるみるうちに彼女の目に涙がいっぱいに溜まっていく。


「……すごい……佐和子さん これ……」


 声が涙で詰まっている。


「そっくり……本当にありがとう……ありがとう……」


 葵はそれ以上言葉を続けることができずただ静かに涙を流した。

 佐和子もそんな葵の姿を見て胸が熱くなり目頭を押さえた。


 しばらくして葵は涙を拭いレプリカの鳥をぎゅっと握りしめた。

 そして窓の外の茜色に染まり始めた空を見上げた。


「……うん」


 深く確かな声で呟いた。


「これで私も……あなたのように自由に飛び立てる気がする」


 そして佐和子に向き直ると涙の跡が残る顔に柔らかな吹っ切れたような笑顔を浮かべた。


 その瞬間葵は衝動的にカウンターから歩み寄り佐和子の前に立つとためらうことなく初めて佐和子を強く強く抱きしめた。

 驚いて身を硬くする佐和子の肩に葵は顔をうずめる。

 その体は小刻みに震えていた。


「……ずっと 怖かったんです」


 葵のくぐもった震える声が聞こえた。


「本当に……。過去の影から逃れることも この場所を離れることも 新しい土地へ行くことも……。また大切な何かを失ってしまうんじゃないかって……前に進むことがずっとずっと怖かったんです」


 それは今まで佐和子が見たことのない葵の弱さだった。

 いつも静かで強く全てを受け入れているように見えた彼女が初めて見せた脆さ。


「でも……」

 葵はさらに強く佐和子を抱きしめながら言葉を絞り出した。


「でも あなたと出会って……話をして……あなたがボロボロになりながらも必死に自分を変えようと前を向こうとしている姿を見て……私 大丈夫だって思えたんです。一人じゃないんだって思えた。あなたは……暗闇の中にいた私の足元をそっと照らしてくれた……」


「あなたは 私の光でした」


「本当に ありがとう 佐和子さん……ありがとう……っ」


 抑えきれない感情と共に葵の嗚咽が聞こえる。

 その告白は佐和子の魂を激しく揺さぶった。


「私が 光……?」


 信じられない思いと込み上げてくる熱い感情で佐和子の目からも涙が止めどなく溢れ出した。

 葵の背中をそっと撫でる。

 言葉にならない思いが互いの温もりを通して伝わってくるようだった。


「葵さん……」


 佐和子も声を詰まらせながら応える。


「私の方こそ……葵さんがいなかったら私は今もきっと暗闇の中にいたままです……。立ち上がる勇気をくれたのは葵さんです。本当に本当にありがとう……」


 どちらからともなく二人はゆっくりと体を離した。

 互いに涙でぐしゃぐしゃになった顔を見合わせそしてふっと同時に微笑んだ。

 それは悲しいだけの涙ではなかった。

 互いの存在に救われ感謝しそしてそれぞれの未来へと踏み出すための温かく力強くそしてどこまでも優しい涙だった。


「……元気でいてくださいね 葵さん」

「佐和子さんも。あなたの道をしっかりと歩んでください」


 それが二人が交わした最後の言葉だった。


 佐和子は名残を惜しみながらもカフェの扉へと向かった。

 最後に一度だけ振り返るとカウンターの中から葵が佐和子の作った木彫りの鳥のレプリカを大切そうに手に持ち静かにそして力強い眼差しで見送ってくれていた。


 寂しい。けれど心は不思議なほど温かかった。

 葵からもらった光と自分の中から生まれた小さな光を胸に佐和子は自分の未来へ向かって確かな一歩を踏み出した。

 もう振り返らない。前だけを見て。

 第六章 大丈夫になるための時間



 葵のカフェ「Komorebi」が静かに幕を下ろしてから数週間が過ぎた。

 季節は移り変わり街路樹の緑が日差しを浴びて眩しく輝く初夏となっていた。

 佐和子は医師の許可を得て休職期間を終えようとしていた。

 心身ともに完全に回復したとは言えないまでも病院での自己対峙と葵や美咲との交流を経て彼女の心は以前とは比べ物にならないほど穏やかさと強さを取り戻していた。


 復帰を前に佐和子は会社の人事担当者そして新たに配属される部署の上司と面談を行った。

 炎上事件の経緯、佐和子が謝罪会見を拒否したこと、そして彼女自身の体調面も考慮された結果広報部への復帰ではなく商品開発部への異動という辞令が下された。

 会社の看板として矢面に立つ広報の仕事にはまだ佐和子を復帰させるリスクがあると判断されたのだろう。


 正直不本意な気持ちが全くないわけではなかった。

 自分の仕事に誇りを持っていたからこそ逃げずに説明責任を果たしたかったという思いは消えない。

 けれど佐和子はこの結果を静かに受け入れた。

 これも自分の選択の結果だ。

 そして新しい部署で新しい自分としてスタートを切る良い機会なのかもしれないと前向きに捉えることにしたのだ。


 異動初日。

 新しい部署のフロアに足を踏み入れるとやはり少し緊張した。

 広報部のような華やかさはないが落ち着いた雰囲気の中で黙々とデスクに向かう社員たちの姿があった。

 佐和子は深呼吸を一つして新しい上司に挨拶をする。

 以前のような完璧な笑顔や隙のないキャリアウーマンの仮面はもう意識して身につけようとは思わなかった。

 ただ自然体で少しだけ緊張した面持ちで「今日からお世話になります 木村佐和子です。ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが精一杯頑張りますのでよろしくお願いいたします」と頭を下げた。

 周りの反応は様々だった。

 遠巻きに様子を伺うような視線もあれば事務的に挨拶を返す人もいる。

 けれど佐和子はもう他人の評価を過剰に気にしないように努めた。

 自分にできることを一つずつやっていくだけだ。


 そして佐和子はもう一つ自分の中で大きな変化を起こそうとしていた。

 それはSNSとの向き合い方だ。

 炎上以来ほとんど開くこともなかったInstagram。

 以前は承認欲求を満たすためのそして「完璧な私」を演じるための舞台だった。

 けれどこれからは違う。


 ある週末の午後。

 佐和子は自宅のリビングで意を決して久しぶりにInstagramを開いた。

 そして新しい投稿を作成する。

 選んだ写真は休日に近所の公園で撮ったメイクをしていないリラックスした笑顔の自分の写真。

 背景には初夏の日差しを浴びて輝く緑。


 キャプションにはこう綴った。


『ご無沙汰しています。木村佐和子です。

 色々なことがあり心身ともにバランスを崩してしまいしばらくお休みをいただいていました。

 ご心配ご迷惑をおかけした皆様 本当に申し訳ありませんでした。

 正直まだ完全に立ち直れたわけではありませんが少しずつ前に進んでいます。

 これからはこの場所でキラキラした完璧な姿ではなく日々の小さな出来事や感じたこと 時には失敗談なんかも含めて(笑)等身大の「ありのままの日常」を発信していけたらと思っています。

 またどうぞよろしくお願いします。

 #ありのままの日常 #再スタート #ご報告』



 投稿ボタンを押す指は少しだけ震えた。

 どんな反応が来るだろうか。

 不安がなかったわけではない。


 案の定投稿にはすぐに様々な反応が寄せられた。


『まだいたんだ』

『反省の色が見えない』

『結局 自分語りかよ』


 といった批判的あるいは揶揄するようなコメントも残念ながらゼロではなかった。

 以前の佐和子ならきっとこれらの言葉に深く傷つきまたSNSから距離を置いてしまっただろう。


 しかし今の佐和子は違った。

 それらのコメントを目にしても心が大きく揺らぐことはなかった。

(そう思う人もいるよね。仕方ない)。

 冷静にそう受け止めスルーする強さを身につけていた。

 すべての他人に自分を理解してもらう必要はないのだとようやく分かったのだ。


 そしてそれ以上に嬉しかったのは温かいコメントやDMが予想以上に多く届いたことだった。


『元気そうでよかった! 無理しないでね』

『佐和子さんの正直な言葉 すごく響きました。応援してます!』

『私も色々あって落ち込んでたけど 佐和子さんの投稿見て少し元気が出ました。ありがとう』

『ありのままの日常 楽しみにしてます!』


 美咲からも『いいね! 佐和子らしい素敵な投稿だよ!』というメッセージがすぐに届いた。


 佐和子はそれらの温かい言葉を一つ一つ噛みしめながら胸が熱くなるのを感じていた。

 以前のように「いいね!」の数を必死で追いかける自分はもういない。

 誰かに評価されるためではなく自分の言葉で自分の思いを発信する。

 そしてそれに共感してくれる人がいる。

 そのささやかだけれど確かな繋がりが何よりも尊く感じられた。


 完璧ではない自分。

 弱い部分もダメな部分もある自分。

 それも全部「これも私の一部」なのだとようやく受け入れられるようになってきた。


 その日を境に佐和子は 꾸준히 「#ありのままの日常」を発信し続けた。

 新しい部署での戸惑いや小さな失敗、そこからの学び。

 休日に挑戦した少し焦げた手料理の写真。

 近所で見つけたお気に入りのパン屋さん。

 美咲とカフェで過ごす飾らない時間。

 読んだ本の心に残った一節。


 その一つ一つの投稿は以前のような華やかさはないかもしれない。

 けれどそこには嘘のない等身大の佐和子の姿があった。

 飾らない言葉と写真は少しずつだけれど確実に共感の輪を広げていった。


 SNSは使い方を間違えれば自分を縛り傷つける恐ろしい鎖になる。

 けれど使い方次第では自分自身を表現し誰かと繋がり世界を広げるための翼にもなりうるのだ。

 佐和子は長いトンネルを抜けようやくそのことに気づき自分なりの健やかで心地よい距離感を、見つけ出し始めていた。

 それは彼女が手に入れた何にも代えがたい大きな成長の証だった。


 #####


 佐和子がSNSで「#ありのままの日常」を発信し始めてから数ヶ月が経った。

 季節は夏を迎え日差しはますます強くなっていたが佐和子の心には以前のような焦りや不安はもうなかった。

 新しい部署での仕事にも少しずつ慣れ人間関係もゆっくりと築き始めている。

 何より自分自身との向き合い方が変わったことが大きかった。


 そんなある日Instagramに一通のダイレクトメッセージが届いた。

 送り主は佐和子と同年代くらいの見覚えのないアカウント名の女性からだった。


『初めまして 由香と申します。突然のご連絡失礼いたします。

 佐和子さんの投稿 いつも拝見しています。

 特に以前の経験やありのままの自分を受け入れようとされている正直な言葉にいつも勇気をもらっています』


 丁寧な文章に佐和子は少し驚きながらも読み進めた。


『実は私も以前 SNSでの自分と現実のギャップや周りの評価にすごく悩んでいた時期がありました。

 佐和子さんの投稿を読んで私だけじゃないんだって すごく救われた気持ちになったんです。

 それから……これは偶然なのですが 私も以前時々「Komorebi」さんにお邪魔していました。

 カウンターの隅で静かに本を読んでいる佐和子さんをお見かけしたことがあったんです(勝手にすみません!)。

 あのカフェ本当に素敵な場所でしたよね……。

 もしご迷惑でなければ一度お茶でもご一緒できたら嬉しいなと思い思い切ってメッセージさせていただきました。

 もちろんご無理でしたらお気になさらないでください』


「Komorebi」の元常連客。

 その言葉に佐和子の心は動いた。

 あの特別な場所を知っている人。

 そして自分と同じような悩みを抱えていた人。

 少しの緊張とそれ以上の好奇心を感じながら佐和子は『ぜひ!』と返信を送った。


 週末に会った由香は明るく話しやすい雰囲気の女性だった。

 初めて会ったとは思えないほど話が弾み二人はすぐに打ち解けた。

 由香もまた完璧な自分を演じることに疲れ人間関係に悩んだ末に自分らしい生き方を模索し始めたのだという。

「佐和子さんのSNSを見て 私ももっと正直になろうって思えたんです」と話す由香の笑顔はとても自然で魅力的だった。

 カフェ「Komorebi」の思い出話にも花が咲き葵さんの淹れてくれたコーヒーがいかに美味しかったかあの空間がいかに心地よかったかで盛り上がった。

 佐和子にとってそれは予期せぬけれど嬉しい新しい友情の始まりだった。


 親友の美咲との関係も以前にも増して深まっていた。

 炎上騒動という大きな出来事を共に乗り越えたことで二人の間にはもう何の遠慮も壁もなくなっていた。

 仕事帰りに気軽に飲みに行ったり休日に一緒に話題の映画を見に行ったり。

 互いの仕事の愚痴や悩み、恋愛の近況、将来への漠然とした不安まで良いことも悪いことも包み隠さず話せる。

 そんな関係が佐和子にとっては何よりの支えだった。


 美咲自身にも変化が見られていた。

「佐和子があんなに頑張ってるの見てたら 私もウジウジしてられないなって思ったよ!」と笑いながら以前は諦めかけていた本当に自分が届けたいと思う文学作品の企画を粘り強く上司に提案し続けていた。

 その目は以前よりもずっと力強く輝いている。

「いつか絶対 この本を世に出すんだから!」と語る美咲の姿に佐和子もまた励まされていた。

 互いに刺激し合い高め合える親友の存在はかけがえのない宝物だ。


 そんな穏やかな日々の中ある日佐和子の自宅の郵便受けに一枚の絵葉書が届いた。

 差出人の名前を見て佐和子の胸が高鳴る。――藤本葵。


 絵葉書には見たことのない緑豊かな高原の風景写真が印刷されていた。

 裏には葵らしい短くも心のこもったメッセージが美しい文字で綴られている。


『佐和子さん お元気ですか?

 私は 新しい土地で ようやく少しずつ 自分の根を下ろし始めています。

 まだまだ戸惑うことも多いですが 空気が美味しくて 星がとても綺麗です。

 窓辺には 佐和子さんからいただいた鳥を飾っていますよ。

 あの子が 毎日「自由に飛びなさい」と励ましてくれている気がします。

 あなたも あなたの道を 力強く歩んでくださいね。 葵』


 その短い文面から葵が新しい場所で前向きにそして力強く自分の人生を歩み始めている様子が伝わってきた。

 佐和子は嬉しさとそして自分も頑張らなければという思いで胸がいっぱいになった。

 あのカフェでの出会いと別れは決して終わりではなかった。

 場所は離れていても心は繋がっている。

 葵が自分の道を歩んでいることが佐和子自身の大きな励みとなった。


 佐和子、美咲、葵。

 三人は今それぞれの場所でそれぞれの課題と向き合いながら自分の信じる道を歩んでいる。

 失ったもの傷ついた経験もあるけれどそれらを乗り越えた先には新しい出会いや深まった絆そして確かな成長があった。


 佐和子の日常は以前のようなSNS映えする華やかさはないかもしれない。

 けれどそこには信頼できる友人たちとの温かい時間新しい挑戦への意欲そして何よりありのままの自分を受け入れ心からの笑顔で過ごせる充実感があった。


 孤独に震えていた日々はもう遠い過去のものだ。

 佐和子は人との繋がりの中で自分らしさという名のコンパスを見つけゆっくりとしかし着実に未来へと向かって歩を進めていた。

 その足取りはもう迷いなく希望の光に満ちているようだった。


 #####


 季節は巡りあれからさらに数ヶ月が過ぎた。

 木々の葉が鮮やかに色づき空気がひんやりと澄み渡る気持ちの良い秋晴れの休日。

 佐和子は親友の美咲と二人で久しぶりに都心の街を散策していた。


 新しい部署での仕事はまだ慣れないことも多いけれど少しずつ自分のペースを掴み始めていた。

 広報部にいた頃のような華やかさはないかもしれないが、一つの商品をじっくりと育てていくプロセスに新しいやりがいを感じ始めていた。

 SNSでの発信も自分のペースで続けている。

 飾らない日常を綴る言葉は少しずつ共感の輪を広げ時には見知らぬ誰かから「勇気をもらいました」という温かいメッセージが届くこともあった。


「ねぇ この路地 ちょっと入ってみない? 新しい雑貨屋さんができたって雑誌に載ってたんだ」


 美咲に誘われ二人は賑やかな通りから一本脇に入った細い路地へと足を踏み入れた。


 そして数メートル歩いたところで佐和子は思わず足を止めた。

 見覚えのある場所。

 けれどそこにあるはずのあの古びた木の看板も温かな灯りももうない。

 かつてカフェ「Komorebi」があった場所はがらんとした空きテナントになっていた。

『テナント募集中』の張り紙が寂しげに揺れている。


「あ……」


 隣を歩いていた美咲も気づいたようだ。

 二人はどちらからともなく立ち止まり言葉もなくしばらくの間その空っぽになった空間を見つめていた。


 佐和子の脳裏には鮮やかに記憶が蘇る。

 雨の夜に初めてこの扉を開けた時のこと。

 葵が淹れてくれたコーヒーの香り。

 窓辺で揺れていた木彫りの鳥。

 葵と交わした言葉。そして涙の別れ……。

 あの場所は確かに佐和子の人生を変えた特別な場所だった。


 時の流れともう戻らない日々に少しだけ胸が締め付けられるような切なさを感じながら佐和子はぽつりと呟いた。


「……ありのままの自分って 結局何なんだろうね」


 自分なりに答えを見つけようともがき苦しみ少しだけ前に進めたような気もする。

 けれどその問いへの明確な答えはまだ見つかっていない。


「色々あったけど……まだ よく分からないや」


 そんな佐和子の独り言に隣の美咲がふわりと優しい笑顔を向けた。

 そしてそっと佐和子の肩に手を置く。


「いいんじゃない? それで」


 その声はどこまでも穏やかだった。


「完璧な答えなんてきっとどこにもないんだよ。これが『ありのままの私』です なんて簡単に言い切れる人の方が少ないんじゃないかな」


 美咲は澄んだ秋空を見上げながら続ける。

「迷ったり 間違ったり 誰かに影響されたり 影響を与えたり……。そうやって揺れながら変わり続けながらずっと自分を探し続ける。それがきっと人生ってことなんじゃないかなって私は思うよ」


 その言葉はすとんと佐和子の心に落ちてきた。

 そうだ 答えなんてなくていいのかもしれない。

 探し続けること その過程こそが自分だけの物語を紡いでいくということなのかもしれない。


 佐和子は美咲に微笑み返しポケットからスマートフォンを取り出した。

 待ち受け画面に設定している写真を見る。

 それは葵が新しい土地へ旅立つ直前に3人で撮った写真だった。

 写真の中の葵は佐和子が作った木彫りの鳥のレプリカを大切そうに胸に抱いている。

 佐和子は葵からもらった小さなドライフラワーの花束を。

 そして美咲は自分の担当した思い入れのある本を手にしている。

 背景にはもう見ることのできない「Komorebi」の店先が写っていて3人とも未来への希望に満ちた最高の笑顔を浮かべていた。


 その写真を見つめながら佐和子は少し照れたように笑った。


「……うん。たまには こういう大切な思い出を誰かとシェアするのも悪くないかもね」

 かつて自分を縛り付けたSNSも今はもう怖いだけの場所ではない。


 使い方次第で温かい繋がりや大切な記憶を分かち合うためのツールにもなるのだ。


 佐和子はスマートフォンをしまいゆっくりと空を見上げた。

 抜けるように高くどこまでも青い秋の空。

 そこにはもう一点の曇りもない。

 彼女の表情は憑き物が落ちたように晴れやかで明るい光に満ちていた。


(私の物語はまだ始まったばかり)

 心の中で静かに呟く。

(きっとこれからもたくさん迷うだろうし転んだり傷ついたりすることもあるだろう。でももう大丈夫)


(私にはこうして隣で笑ってくれるかけがえのない友達がいる。そして私の胸の中には葵さんが灯してくれた温かい光があるから)


(そして願わくば……)

 佐和子はそっと目を閉じた。

(この私が経験したこと感じたことそして紡いでいく言葉がいつかどこかで顔も知らない誰かの心をほんの少しでも照らすことができるなら……)


(そんな ささやかでも確かな光になれたら嬉しいな)


 目を開けると柔らかな秋の日差しが優しく頬を撫でていた。


「さ 行こっか」


 美咲が明るい声で促す。


「うん!」


 佐和子は力強く頷き親友と並んで確かな一歩を踏み出した。

 未来へ向かって。その足取りは軽く希望に満ちている。


 物語は静かで温かい希望の光と心地よい秋風の余韻を残してそっと幕を閉じた。


いかがでしたでしょうか?


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― 新着の感想 ―
読後感の心地よいお話でした。素敵なお話を読ませて下さってありがとうございます。
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