第六話 これがぼくの試練
谷底への道は、まるで異世界への入り口のようだった。深い霧が地表を覆い尽くし、その先に何があるのか全く見通せない。
ナスィは、冷たい空気に身を包まれながらも一歩ずつ足を進める。
「こんなところ、普通は誰も来ないだろうな……」
小さく呟き、周囲を警戒する。背後に迫るものはないが、前方からの異様な空気が肌にまとわりつくようだった。魔物たちの巣窟――それが、この「死の巣」と呼ばれる場所の正体だ。ここでは、冒険者たちが幾度となく命を落としてきた。
ナスィの中には、恐怖と疑念が渦巻いていた。
(こんな場所で何を証明するつもりなんだ、俺は?)
振られたばかりの心は、まだ整理がついていない。それどころか、レサーの想いまで突然目の前に現れ、自分の中に新たな迷いを生んでいた。
(俺が強さを求める理由は何だ? 誰かに認めてもらうためか? それとも、ただ過去から逃げるためか?)
ナスィは首を振り、雑念を振り払おうとした。この場所では、ほんの一瞬の油断が命取りになる。それを誰よりも理解しているのは自分だ。
霧の中から、不意に低い唸り声が聞こえた。足を止め、剣の柄を握り締める。目を凝らしても相手の姿は見えないが、確かに複数の気配を感じる。
「囲まれているのか……」
次の瞬間、右側の霧が裂けるように動き、一匹の巨大な魔物が飛び出してきた。それは異形の姿をした熊のような魔物で、鋭い爪と赤い瞳がギラついている。
「来るなら、まとめて来い!」
ナスィは長剣を振りかざし、魔物の爪を受け流した。同時に短剣を逆手に持ち替え、懐に飛び込んで一突きする。しかし、その背後からさらに二匹が姿を現し、唸り声を上げながら突進してきた。
「くっ!」
ナスィは間一髪で飛び退き、二匹の攻撃を避けるが、背中に冷たい汗が流れる。これだけの数を一人で相手にするのは初めての経験だった。
攻撃を繰り返す中、ふと幼い頃の記憶が蘇る。ベチと共に剣の訓練をした日々。彼女は常に前を向き、強さを追い求めていた。その姿は眩しく、ナスィ自身も彼女に追いつきたいと必死だった。
「強くなりたいんだろう? ナスィも。」
そう笑って言った彼女の声が、今も耳の奥で響く。だが、その言葉はいつしか冷たくなり、自分を見下すものに変わってしまった。
魔物たちの攻撃をかわしながら、ナスィは自分に問いかけた。足りないのは強さだけではない。自分が何を求めているのか、まだ答えを見つけられずにいるのだ。
ナスィは最後の魔物を倒し、肩で荒い息をつきながら立ち尽くしていた。長剣の刃先には魔物の血が滴り落ちている。
「……終わったか。」
周囲を見回すが、もう気配はない。疲労感が全身を覆い、膝が崩れ落ちそうになる。しかし、彼はその場に座り込むことなく、剣を収めた。
(まだ終わりじゃない。この先に、本当の試練が待っているはずだ。)
ナスィはそう自分に言い聞かせると、再び足を進めた。
一方、ギルドでは、ナスィが死の巣へ向かったという噂が広がっていた。冒険者たちは、その無謀ともいえる挑戦について様々な反応を見せていた。
「ナスィが死の巣に行ったって? あの無口な奴が?」
「どうせ無謀な賭けだ。戻ってくるわけがない。」
「いや、意外とやるかもしれないぞ。あいつ、目立たないだけで結構やるって噂だ。」
それぞれの声が飛び交う中、カウンターに立つレサーは落ち着かない様子で手元の書類を整理していた。彼女の中には、複雑な感情が渦巻いていた。
「ナスィさん……どうして、そんな危険な場所に……」
その問いの答えを知ることはできない。ただ、彼女の中には一つの確信があった。
(ナスィさんは、何かを背負っている。それが何かは分からないけれど、私は……信じたい。)
レサーは決心したように立ち上がり、一冊の地図を手に取った。それは死の巣へのルートが描かれたものだった。
ナスィは霧の中を進み続けていた。足元は滑りやすく、冷たい風が肌を刺すようだ。しかし、その瞳には迷いはない。
(俺がここで立ち止まるわけにはいかない。)
これまで背を向けてきた自分自身、そして逃げるように離れていった過去。それらすべてに決着をつけるため、彼は進む。
前方には、さらに大きな影が見え始めていた。獰猛な気配が漂い、先ほどの魔物たちとは比べ物にならないほどのプレッシャーを放っている。
「これが……本物の試練か。」
ナスィは深呼吸をして剣を抜いた。これまでの戦いで疲労は蓄積しているが、それを感じさせないように構える。その時、霧の向こうから轟音が響き渡り、巨大な魔物が姿を現した。